テーマ:史跡

松平清康の人物像

 松平清康と言えば、ご存じ徳川家康の祖父である。  この清康のことについては、江戸時代の史書では英傑の人物として描かれているのだが、悲願である三河統一の一歩手前で不慮の死を遂げてしまうのだ。  天文4年(1535)のことなのだが、清康は隣国の尾張・織田信秀を攻めるため出陣した。  この陣中で、内通の流言が飛んでいた老臣の息子が、父…
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鎌倉時代の執権政治

 今日は、鎌倉時代に良く出てくる「執権」について述べよう。  よく鎌倉執権政治とか、北条執権政治とかに使われている「執権」とは果たして何ぞや?ということなのだが、歴史学者や歴史に興味のある方々は良くご存じだと思うのだ。  しかし、この「執権」という意味分かっているようで案外分かっていない人々が多いと思う。  「執権」とは、本来「政…
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尼子十勇士

 戦国時代、尼子氏は中国地方の半分を抑える勢力を誇っていたのだが、毛利氏の台頭で永禄9年(1566)毛利氏に降伏してしまう。  其の後、永禄11年(1568)に、旧家臣達は一族の長・勝久を奉じ、出雲に侵入するのだが敗れてしまう。  次いで、天下統一を図る織田信長の援助を受けて天正元年(1573)、同5年と再起を図るものの成就すること…
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戦国時代、戦場に持参した常備薬とは

 武士たちは、戦に赴く場合いろいろな薬を持参したと云われている。  別に現在のような薬箱を持って行った訳ではなく、持っていても邪魔にならないような薬を持参していたわけだ。    この戦場用の薬については、上は主筋にあたる者から下は雑兵級の者まで、必ず持参したという。  薬といっても、そんな大袈裟なものではなく、戦闘に耐えられない…
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彗星に恐れおののいたであろう人間たち

 昨日ロシア地方に「流れ星」(隕石)が落下し、1000人を超える負傷者を出した。  TVで見ると、一直線に地球に進む様子が映し出され、走っていた車両もビックリして?停車する様子が映し出されていた。  目撃した者も慌てているのが伺える場面だ。  現代人でも、これだけ驚愕する隕石落下なのだが、古来人はこのような程度ではなかったことは想…
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江戸時代の貨幣

 江戸時代の貨幣は非常に複雑で、現代人にとってはややこしいと云われている。  基本的には、金・銀・銅(銭)3種類があった。  〇 金貨     大判、小判等があるのだが、大判は贈答品に使われ、小判は普通に使われていた。     単位は両・分・朱である。     4朱で1分、4分で1両という四進法である。  〇 銀貨  …
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武士のための『御成敗式目』

 御成敗式目(ごせいばいしきもく)とは、鎌倉時代に制定された武士政権のための法令(式目)のことである。 貞永元年8月10日(1232年8月27日:『吾妻鏡』)に制定されたため、貞永式目(じょうえいしきもく)ともいわれている。  ただし、貞永式目という名称は後世になって付けられた呼称であり、御成敗式目と称する方が正式である。  …
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北条政子の大演説

 承久3年(1221)に「承久の乱が起きるのだが、これは院の「北条氏を討て」との大号令が諸国に下ったからである。  それに対し、北条政子は御家人を説得するための大演説を行うことになる。  『承久物語』には、政子は頼朝がいかに御家人たちの生活を向上させたかを説いた。  そして、次のように津続けたという。  「このような情け深い御心…
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梶原景時の最期とは

 源頼朝の危機を救った武将として知られている梶原景時の最後について述べたいと思う。  源頼朝は、一生に少なく見ても2度の決定的窮地があった。  一度目は、「平治の乱」に13歳で初陣をしたときなのだが、この時敵方に捕まって殺害されそうになったのだ。  しかし、この時は清盛の継母の命乞いで伊豆に流されるだけで済んだ。  2度目は…
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征夷大将軍でありながら幕府を開けなかった武士

 征夷大将軍のことを将軍というのだが、これは武士の頭領として幕府を開く者に与えられる称号であることは良く知られている。  しかしである。  この征夷大将軍という称号は、本来蝦夷を征伐するために臨時で置かれた役職であることはあまり知られていないようなのだ。  この役職に就いたのは「坂上田村麻呂」等が任命されている。  そしてこの役…
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鎌倉武士の戦のやり方は礼儀を尽くした?

 鎌倉時代までは、「ヤァヤァヤァ、遠くのものは音に聞け、近くば寄って目にも見よ。我こそは天下の・・・・」と言いあって戦ったのは皆さんご存知の戦う前のしきたりである。  このように名乗り合って戦う、何とも悠長な戦いに思うのだが、これも当時の武士の心得であったのだ。  戦う前の手順と言った方がよいが、それを守らないと卑怯者とも云われ…
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汁かけ飯で叱られた北条氏政

 「湯漬け」といえば織田信長が有名である。  かの「桶狭間合戦」に出撃する前に「湯漬け」を掻き込んで駆け出たことで知られている。  では、この「湯漬け」というものはどのようなものであったであろうか?  少し手が込むのだが・・・まず飯を湯で洗うことから始まる。  そして椀に盛り、白湯を七、八分目ほど注ぐのであるが、室町時代には…
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家来に強く諫言されても止めなかった「倹約」~鷹山

 名君として名が高い「上杉鷹山」は、10歳の時日向高鍋藩から米沢に養子でやってきた。  そのころの上杉家といえば、謙信の流れをくんでいる由緒ある藩なのだが、貧困のどん底にあり四苦八苦している時でもあった。  鷹山が上杉家の家督を継いだ時は17歳になっていた。  彼は藩主になると、まず12カ条に及ぶ厳しい倹約令を出している。 …
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聖徳太子は実在していなかった?

 あけましておめでとうござてます。  新年早々このような話をしては申し訳ないとは思いますが、今回は小学生でも知っている「聖徳太子」についてUPしようと思う。  我々もそうなのだが、607年聖徳太子が創ったものといえば「17ケ条の憲法」を一番にあげるほど超有名であり、一万円札の像も長い間親しまれてきた歴史上の偉人でもある。 …
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熊谷直実の出家の理由

 公共放送のTV番組で「平清盛」がようやく終了した。  小生は視聴したことは殆どないのだが、評判は悪かったらしい。  そこで今日は熊谷直実のことについてUPしたいと思う。  現在の娯楽といえば多岐に渡っており、色んな分野で楽しむことができる。  しかし、戦後の映画全盛を迎えるまでは、芝居とか落語、浪曲、講談(講釈師)が主流で…
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秀吉が「木下藤吉郎」と名乗った時期

 豊臣秀吉は、木下藤吉郎、羽柴秀吉と名乗っていた時期があるのだが、それでは史料に初めて出てくる「木下藤吉郎」は何時頃のことなのであろうか?  あれこれ歴史本を読んでいたがどうもはっきりしたことが分からなかった、しかし、歴史学者の米原正義先生の著書の中にあったのでそれを基に紹介したい。  結論は、米原先生もハッキリとは把握して…
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吉良上野介は炭小屋には隠れていなかった

 いよいよ師走も中ごろになってきた。  この時期になると「赤穂義士」が主役となり、映画、TV、芝居等で取り上げられ、結末が分かっていながら一喜一憂することになる。  クライマックスは、吉良邸に討ち入った赤穂浪士が、激闘の末、吉良上野介の首を上げる場面だ。  映画、TV、芝居では、赤穂浪士47士が広い吉良邸を探し回って、炭小屋に…
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江戸時代、奉行所に看板は無かった

 TVや映画の場面で、「○○奉行所」というような看板が掲げられているが、事実とは異なるのだ。  現在の人間からすると、役所や会社の玄関には、看板が掛かって、訪れる人々を待っているのが当然のことだと思うのだが、江戸時代の風景としては間違っているのだ。  当時、奉行所でも牢屋敷でも大名屋敷でも、屋敷名等を書いた看板(表札)は一切かけ…
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平安時代の貴族は肉食はしなかったのか

 よく言われるのが、平安時代の公家は肉食はしなかったということなのだが、実際はどうであろうか?  当時の公家達は、桜が散ったといっては涙を流し、月が欠けたといっては物思いに耽(ふけ)ったといわれている。  これには、あらゆるものは留まることを知らず、移ろい変わっていくという仏教の無常観が影響しているという。  つまり、当時…
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吉野川を廻る土佐藩と徳島藩の確執

 四国の吉野川といえば、四国三郎吉野川といわれ、江戸時代に流域の開発が進んだこともあって、度々洪水を起こしている。  洪水の度ごとに米作百姓は悲惨な目に遭っている。  一方で、この暴れ川の吉野川は他に活用もされていたのである。  土佐藩なのだが、吉野川の上流の土佐側の木材の運搬に利用されていたのだ。  木材を伐り出すと一…
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吉良邸に討ち入りがあった時、小林平八郎が活躍したのか?

 間もなく師走だが、この時期になると「忠臣蔵」に関する芝居・映画・TVが演じられる。  そして、赤穂浪士が吉良邸に討ち入った際、吉良方の家来で、清水一角と小林平八郎が浪士相手に奮戦する様が描かれれているのだ。  次々に切りかかってくる浪士相手に奮戦する場面だが、一つのクライマックスといっていいほどの迫力で描かれるのだ。  …
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「藩」という名称の一般化は幕末

 大名の支配地や仕組みのことを「藩」と呼ぶのだが、これは中国で古くから使われていたという。  そして、この「藩」という言葉は幕末になって、やっと一般化したといわれているのだ。  だから、「藩」の固有名詞である藩名も私的な呼び名の域をでないのだ。  同じ藩が、以下のようにいろいろな名前で呼ばれていた。  例えば、現在の鹿児…
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太田道灌の最後の言葉「当方滅亡」

 太田道灌が殺害されたのは文明18年(1486)のことである。  場所は、現在の神奈川県伊勢原市にあった主君上杉定正の館で入浴中のことである。  主君定正の命を受けた家臣の手で殺されてしまったのである。  死ぬ直前に口から出た言葉が「当方滅亡」という言葉だったと伝わっている。  定正の手紙によれば、道灌に謀反の心があった…
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楠公の唱歌

 楠正成が唱歌となっていることは、高齢者の方は良く知っておられると思う。  その唱歌は次のとおりである。  (これはご存じの文部省唱歌である。) 葉茂れる桜井の (2分02秒) 演奏 一、 青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木の下蔭に駒とめて 世の行く末をつくづくと    忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙…
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歌舞伎役者のど根性

 歌舞伎公演中に奈落の底に転落し治療をしていた7代目市川染五郎(39)が、10月17日都内でホテルで会見し、舞台復帰を発表した。  内容は、12月にテレビドラマの収録で仕事復帰することを発表したのだが、舞台復帰は、来年2月の東京・日生劇場の歌舞伎公演となることも併せて発表した。    現在もリハビリ中の染五郎は「まだ時間がかか…
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江戸時代、朝鮮使節に大枚をはたいていた幕府

 朝鮮半島と日本は、古来から交流があったのだが(今は、竹島の問題があって微妙になりつつあるのだが・・・)、鎖国時代にも、日本と朝鮮との間には、正式な使節団が行き来していた。  慶弔14年(1609)に成立した「己酉(きゆう)約条」によって、将軍の代替わりや他の祝い事のとき、計12回、延べて400人前後の使節団が日本に来ている。 …
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戦国時代の諜報活動の基本

 戦国時代つまり応仁の乱(1467~)以後、戦国の時代に突入するのだが、諜報活動が活発になる時期でもあった。  相手方より先に自分に有利になる情報を早く収集したいと思うのは、いつの世も思うことであろう。  この戦国時代という言葉は、当時の公家が、応仁の乱以後の乱れた世相を、古代中国の「春秋戦国時代」の乱世になぞらえ「戦国の世」と…
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江戸時代の浪人対策

 俗に「浪人」というのは、仕官していない武士のことであるが、目下失業中であるということだ。  戦国時代には、主家が滅びて浪人することはあっても、戦が各地であったから再仕官の機会はいくらでもあり、恵まれていたということだ。  しかし、江戸時代になると事情が段々悪化してくる。  豊臣家所縁の武士達が浪人し、さらに幕府が徳川…
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源義経が美男子だとの証はないようだ

 TVや映画で出てくる源義経は、皆んな美男子で、時の美男スターが義経役として出演してる。  そうして、見ている誰もが義経は美男子だったと思い込んでいる節がある。  講釈師になると、義経は「牛若」と呼ばれる少年期から、美しい顔立ちをしており、元服する頃は、まるで楊貴妃のようだったと描いている。  しかしである、こうした義経の…
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荒木又右衛門の36人斬りは嘘

 仇討といえば「曽我兄弟」「赤穂浪士」「鍵屋の辻」の仇討が日本三大仇討と呼ばれている。  その中で、「鍵屋の辻」の仇討といえば、荒木又右衛門が36人斬りしたことで有名なのだが、実際に36人斬ったかというと疑問である。  そこで、この「鍵屋の辻」の仇討について記したい。  詳細は省くが、要は荒木又右衛門が渡辺数馬に助太刀した仇討…
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