矢作川での藤吉郎(秀吉)と蜂須賀小六の出会いは虚構?

 若いころの藤吉郎(後の豊臣秀吉)が生まれ故郷の尾張国愛智郡中村を飛び出して諸国を転々としていたことはよく知られている。
 小生は出世したいとの思いより生きていくために色んな職を経験しながら諸国をうろついていたのでは?と思っている。

 後の絵本太閤記では面白おかしく記しているが誇大な物語に仕上げている。
 そのころの秀吉が藤吉郎を名乗っていたかは定かではないが藤吉郎で記していきたい。

 この藤吉郎、三河を放浪していた時矢作川の橋の上で蜂須賀小六と運命的出会いをしたという逸話は映画やドラマの時代劇、歴史小説によく登場する場面である。

 通説によると、職もなくて三河を放浪していた藤吉郎が矢作川に架かっている橋の上で野宿していたという。
 すると、野伏(のぶせ)り(野武士のこと)の頭領だった蜂須賀小六(小六は藤吉郎の10歳くらい上)とその手下が通りかかり、藤吉郎の頭を蹴飛ばしたのだという。
 怒った藤吉郎が威勢の良い啖呵を切ったというのだが、その啖呵を小六が気に入り部下として仲間に引き入れたという。

 ご存じのようにこの蜂須賀小六は後の藤吉郎の片腕となって戦功を重ね、阿波(現徳島県)一国を与えられている。

 この話のうち、蜂須賀正勝(小六)が藤吉郎との出会いによって立身出世を果たしたという部分は事実である。

 でもネェ、肝心の出会いの場面は、作り話なのである。だって、当時の矢作川には藤吉郎が寝ていたとされる橋は架かっていなかったのだから・・・
 愛知県矢作町に残されている記録には、当時の矢作川は舟で渡るしかなかったと記されており、渡し場の記録はあるものの、橋については触れられた部分はないからだ。

 残念ながら矢作川のこのあたりに橋ができたのは江戸時代になってからのことだ。

 肝心の橋が無かったとなると、この橋上での出会いの場面、実現しなかったということになる。
 つまり話を面白くするための創作だということだ。

 ちなみに、この矢作川の出会いの場面初めて出てくるのが江戸中期に書かれた「絵本太閤記」の中なのだ。
 それがこの俗説の出どころなのだが読む者としては面白がったことは間違いないだろうナァ・・・
 面白く読まれたおかげで実話のように知れ渡ったというべきででしょうネェ。

 

 

  

信長公記での桶狭間の戦い~その2

 前回に続き信長公記での桶狭間の戦いを記したい。
 NHKの「麒麟くる」は何時から復活するのか気になるところだが今回も桶狭間の戦いについて記したい。

 前回は、今川義元が先陣の活躍で織田側の各砦を次々攻略したときから義元が油断しきったところまでであったがその続きとしていきたいと思う。


 信長公はさらに中島砦に進もうとした。しかし中島までは一面の深田の間を縫って狭い道がつながっているのみであり、敵からは無勢の様子が丸見えとなるため、家老たちは馬の轡をとって諫めた。それでも信長公は聞かず、振り切って中島砦へ移った。この時点でも人数は二千に満たなかったということである。信長公はさらに中島をも出ようとしたが、今度はひとまず押しとどめられた。

 ここに至って信長公は全軍に布達した。
 「聞け、敵は宵に兵糧を使ってこのかた、大高に走り、鷲津・丸根にて槍働きをいたし,手足とも疲れ果てたるものどもである。これに比べてこなたは新手である。小軍ナリトモ大敵ヲ恐ルルコト莫カレ、運ハ天ニ在リ、と古の言葉にあるを知らずや。敵懸からば引き、しりぞかば懸かるべし。而してもみ倒し、追い崩すべし。分捕りはせず、首は置き捨てにせよ。この一戦に勝たば、此所に集まりし者は家の面目、末代に至る功名である。一心に励むべし」
 ここで、前田又左衛門利家・毛利十郎む・木下雅楽助らがそれぞれに斬穫した首をもって参陣した。信長公はこれらも手勢に組み入れ、桶狭間の山際まで密行した。すると俄かに点が曇り、強風がが吹き付け、大地を揺るがす豪雨となった。この突然の嵐によって、沓掛の峠に立つふた抱えほどもある楠が東へ向けて音を立てて倒れた。人々はこれぞ熱田明神の御力であろうと囁きあった。
 やがて空が晴れて来た。信長公は槍を天に突き出し、大音声で「すわ、かかれえっ」と最後の下知を下した。全軍は義元本陣めがけ黒い玉ととなって駆け出した。

 この様を目にした今川勢は、ひとたまりもなく崩れ去った。弓も槍も鉄砲も討ち捨てられ、指物が散乱した。義元の塗輿までも゜置き去られた。未刻(午後2時頃)のことであった。
 この混乱の中にあって、義元は周囲を参百騎ばかりに囲まれて後退していた。そこを織田勢に捕捉され、数度にわたって攻勢を受けるうちに五十騎ほどまでに減ってしまった。
 信長公も馬を下り、旗本に混じって自ら槍をふるい、敵を突き伏せた。周りの者達も負けじと勇戦し、鎬を削り鍔を砕いて激戦を展開した。歴戦の馬廻・小姓衆にも手負いや死者が相次いだ。そのうち服部小平太が義元に肉薄した。義元は佩刀を抜いて服部の膝を払い、これを凌いだが、其の横合いから今度は毛利新介が突進してきた。義元も今度は防げず、毛利の槍に突き伏せられてついに首を預けた。毛利は先年武衛様が遭難された折、其の弟君を救ったものである。人々はその冥加があらわれてこのたびの手柄となったのだろうと後に噂した。

 戦は掃討戦にうつった。桶狭間は谷が入り組み、谷底には深田が作られている。まったくの難所であり、逃げ惑う今川勢は多に見込んでは足をとられ、織田勢に追いつかれて首を挙げられた。信長公の元には首を得た者達が続々と実検におとずれた。信長公は実験は清州にて行うと申し渡し、義元の首のみを見、もと来た道をたどって帰陣した。晴れやかな表情であった。

とこうなっている。
 以下は省略させてもらうが、難敵中の難敵今川義元を討ち果たしたという思いは相当のものであったろうことは想像に難くない。

 でき得るものであればこの時の信長の表情を見てみたいものだ。どのような表情をしていたのだろうか?


 
 

「信長公記」での桶狭間の戦い

 6/7のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、合戦場での義元討ち死にの場面に新鮮さを感じた。
 毛利新介が八艘飛びのような大ジャンプを見せ、今川義元に槍を突き刺すのだ。其の時義元の瞳にかすかに毛利新介の飛び掛かってくる姿が映るという手法だ。
 
 視聴者もこの場面が印象に残っているというから斬新だったのであろう。 これで、この「麒麟がくる」も当分の間お休みとなるようだ。

 そこで今回は、「信長公記」での桶狭間の戦いを振り返ってみることにしたい。

 今川義元討ち死にの事
 永禄3年(1560)5月17日、今川義元勢の先陣は沓掛に参着し、翌日大高城へ兵糧を運び込んだ。この動きから、今川勢は翌19日の援軍の出しにくい満潮時を選んで織田方の各砦を落としにかかるに違いなしとの予測がなされ、18日夕刻から丸根・鷲津からの注進が相次いだ。

 しかしその夜、信長公は特に軍立てするでもなく、雑談をしただけで家臣に散会を命じてしまった。
 家老たちは「運の末ともなれば、智慧の鏡も曇るものよ」と嘲笑してかえっていった。
 懸念のとおり、夜明け時になって鷲津砦・丸根砦が囲まれたとの報が入った。

 注進をしずかに聞いた後、信長公は奥に入った。そこで敦盛の舞を舞い始めた。

 人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきか

 ひとしきり舞った。

 ※ 後、大体三度ほど舞ったとあるから複数回舞ったことは確かだろうが・・・余裕があったのか。思案しながら舞ったのか、万策尽きて最後だと思ったのかは分からない。

 そして、舞った後「貝を吹け」「具足を持て」
 とたて続けに下知を発した。出された具足を素早く身に着け、立ちながらに食事をすると、信長公は兜を被って馬にまたがり、城門を駆け抜けた。この時、急な出立に気づいて後に従ったのは、岩室長門守ら小姓衆僅かに五騎だった。

 となる。

 主従六騎は熱田までの三里を一気に駆けた。辰の刻(7時)ごろ、上知我麻神社の前で東方に二条の煙が立ち上がっているのを見、信長公は鷲津・丸根の両砦が陥落したことを知った。この間、出陣を知った兵が一人二人と追い付き、人数は二百ほどになっていた。
 熱田からは内陸の道を進み、丹下砦に入り、さらに善照寺砦に進んで兵の参集を待ち、陣容を整えた。そして前線からの諜報を待った。御敵今川義元は、この時桶狭間にて四万五千の兵馬を止めて休息していた。
 時刻は一九日の正午にさしかかっていた。義元は鷲津・丸根の陥落を聞いて機嫌をよくし、陣中で謡を謳っていた。また徳川家康は、この戦で先駆けとして大高の兵糧入れから鷲津・丸根の攻略まで散々に追い使われ、大高城でやっと休息をしていた。

 信長公が善照寺に入ったのを知った佐々隼人正らは「この上は、われらで戦の好機をつくるべし」と語らい、三百あまりの人数で打って出てしまった。攻撃はいとも簡単に跳ね返されて佐々は首を挙げられ、配下の士も五十余騎が討ち死にした。これを聞いた義元は「わが矛先には天魔鬼神も近づく能わず。心地よし」とさらに上機嫌になり、謡を続けた。

 ※ ここまでの今川義元、先陣の活躍で織田軍を蹴散らしたとなれば並みの大将と同じ様に楽勝と思ったとしても不思議はあるまい。
   義元は完全に油断しきっていたのだ。以下この章は次に・・・


 
 

絵本太閤記に描かれる桶狭間の戦い 今川義元討ち死に

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、いよいよ桶狭間の戦いが始まるのだが、絵本太閤記では信長出陣時雨雲が垂れ込み荒れに荒れたことも描かれているが、この天候も熱田神宮の神風だとしている。

 午後2時(未の刻八ッ)、信長は眼下に義元の陣・田楽狭間を見下ろす太子ケ嶺の上に息を殺して集まった。雨は次第に小止みとなり、雲の切れ間も見え始めた。
 信長は馬を降りて突っ込もうとしたが森可成の意見で騎馬で敵陣を攪乱する方が良いだろうということで、馬上高く槍を掲げた信長の下知のもと、2千余人の一隊が転がるようにして急坂を駆け下りた。と描写している。
 信長公記では「空晴るるをご覧じ、信長槍を押っ取りて大音声を上げ、すわかかれ、すわかかれと仰せられ、黒煙立ててかかるを見て、水をまく如く後へ後へくわっと崩れたりとなる。
 
 もう少し「信長公記」の描写を詳細に云うと以下のようになる。
 この時信長公は全軍に布達した。
 「聞け、敵は宵に兵糧を使ってこのかた、大高に走り、鷲津・丸根にて槍働きをいたし、手足共疲れ果てたる者どもである。比べてこなたは新手である。小軍ナリトモ大敵ヲ恐るること莫れ、運は天にアリ、と古の言葉にあるを知らずや。敵懸からば引き、しりぞかば懸かるべし。而してもみ倒し。追い崩すべし。分捕りはせず、首は置き捨てにせよ。この一戦に勝たば、此処に集まりし者は家の面目、末代に至る功名である。一心に励むべし」となる。

 絵本太閤記に戻ると・・・
 この時の義元は、赤地の錦の直垂(ひたたれ)、胸白の具足、八龍打った五枚兜といったいった出で立ちで、松倉郷の太刀、大左文字の脇差を帯びていた。そうして、突然起こった何やら騒がしい雰囲気に最初は同士討ちくらいに考えていた義元も、信長襲来を知って酒宴半ばの盃を捨て、「馬ひけっ!」と叫び立てた。その声に大将然とした姿を見破られ、服部小平太の長槍を脇腹に受けた。義元はそれに屈せず、太刀で払って槍の柄を落とし、小平太の膝にまで切り込んだ。しかし、新たに名乗って出た毛利新介に組み付かれ、その左手の人差し指は食いちぎったが、抵抗もそれまでであった。負傷に屈せず新介は首を挙げ、それを太刀先に貫いてかざした。
 この時義元、享年42歳。

 対象が討たれた今川勢はもはや意気阻喪し、弓・槍・鉄砲・幟・指物を投げ散らし、義元の塗輿も捨てて逃げ回り、今道の方角に退却した。その死傷者数は2500人ほどであった。
 信長は敵を深追いせず、間米山に兵を終結させ、義元の首だけを実検して清州への帰還を命じた。時に、午後4時(申の刻・七ツ)。馬の左脇にその首をぶら下げ、揚々たる凱旋振りぶりであった。途中、熱田神宮では戦勝を報告し、神馬一頭を献上し、社殿の修理も約束した。

 翌日、諸将士の首を実検した後、清洲城から南20町ほどの南須賀口という熱田街道沿いの地に義元塚を築き、大卒塔婆を立てて千部経を読ませた。となる。

 鳴海城の守将は今川家・岡部元信であったが、桶狭間で敗戦し義元が討ち果たされたことを知りながらたじろぐことをせず、あくまで任務を全うするのが武士の本分とばかり陣を固めていた。
 しかし、府中の今川氏真(義元の嫡子)の勧告を受けて退却を決意した。
 その時、信長に義元の首を頂きたいと申し出、信長も是を認めて10人の僧をつけて送り届け、元信はそれを奉じて駿府に帰って行った。

 当時の武士魂に信長も感銘するところがあったのであろうが・・・それにしても絵本太閤記では大衆が喜ぶことを描写している。と、個人的には思うわけだ。
 






 

今川義元が桶狭間に出張る 絵本太閤記では・・・

 5/31のNHK大河ドラマ「麒麟が来る」は観なかった。
 新聞の予告記事では義元がいよいよ尾張を攻めるらしいと描かれてはいたが・・・

 今川義元と言えば当時東方にデンと構えている北条氏、北方の雄武田信玄と縁組をし、三国同盟を結んでいた。
 これで後方の憂いは少なくなっている状況だったので尾張攻めを決意するというのが定説。

 義元は後顧の憂いを無くし、それでもって上洛することによって、将軍足利義輝に拝謁して天下に己の威風を示そうとしたという。

 絵本太閤記では、永禄3年(1560)5月1日、全軍出発の大号令を下し、義元自身は同月12日に府中(現在の静岡)を出発する。
 総勢2万5千、号して4万と称している。

 義元は「足短く胴長く」といわれる体つきで、沓掛で具足をつけ出陣したところ、途中で落馬してこれこそ不吉の前兆と評判されたと描いている。
 実際はどうであったのだろうか? 公家風の立ち居振る舞いをしていたともいうのだが・・・絵本太閤記ではそこまでは描かれてはいない。

 義元はこの沓掛で全軍の陣容を固めたという。
 織田方の前線基地「丸根」「鷲津」の砦が差し当たっての攻撃目標であった。

 「丸根」に向かったのが松平元康(徳川家康)で19日の夜明けとともに砦内に攻め入って主な武将の首7つを挙げ、本陣の義元にまで届けた。

 続いて午前10時頃、鷲津も火を放たれ陥落したとある。

 また、鳴海方面へ進出していた織田方武将3人も討たれ、其の首も田楽狭間(桶狭間の北方に位置する)で休んでいた義元のところに届けられた。
 義元は「我が旗の向かうところ、鬼神もこれを避ける」と大喜びし、近在の神官や僧侶が戦勝祝いとして持ち込んできた酒肴で、大いに盃を挙げたとある。

 決戦の前夜、信長はどうしていたかということについて、絵本太閤記は、今川軍進出の続報相次いだが、信長は軍議を開く気配もない。
 しかし、信長は、「天下の英雄を見るところ、籠城で運が開けたという例は知らず」と言い、明朝城を出て一戦して勝敗を決すべし、自分に従わんとする者は続けと覚悟を示した。
 とある。

 開けて19日の午前2時頃、今川の軍勢迫るとの報告を丸根・鷲津の砦から受けた信長は、急に立ち上がって広間に出て、湯漬けを用意せよ、馬に鞍置けと命じて具足をつけた。そうして、昆布と勝ち栗を前に盃を上げ、「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生をうけて滅せぬ者のあるべきや」
 小鼓を打ちながら、幸若舞の『敦盛』を謳い、三度舞い終わると、本庄正宗の太刀を腰に帯、貝鳴らせ、馬引けと大声に叫び、栗毛の飛び乗って「続け!」と一鞭くれて駆け出した。

 このあたりの描写、今でもドラマ・映画では必ず描かれる場面ではあるが、知ってはいても力が入る場面ではある。

 城内を出たときは従う者は小姓の5騎であったが、大手口では、今や遅しと森可成(もりよしなり)柴田勝家等300騎が待ち構えていた。

 となるわけだ。以降は次で・・・
 
 

光秀が信長に仕えることとなった切っ掛け 絵本太閤記では・・・

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、「コロナ」の関係で6月からしばらくの間中断するという。

 今回も絵本太閤記からの明智光秀に関する話をしたいと思うのだが・・・越前での場面はどのようになっているのだろうか?

 光秀が信長に仕官するきっかけとなったのは永禄5年(1562)の秋のことだという。
 この時加賀一揆がおきている。首謀者は加賀一向宗門の者たちが立ち上がり越前に攻めこんできたときに、朝倉景行が数千の兵を率いてこれを防いだ。
 ちょうどその時、明智光秀は越前の長崎というところに住んでいて、一揆勢との戦闘を見てみようとして、御幸塚の戦場にやってきたというのだ。

 戦いは夕暮れになって終わり、敵味方とも篝火(かがりび)を焚いて退陣していた。光秀はその時、御幸塚の遥か東方を望むと、一筋の赤気が空にたなびいて朝倉の陣営まで至っていることを発見した。これは一揆勢が今夜、夜討ちをかける徴であると見た光秀は、格別にじっ懇でもなかった景行ではあったがその見解を告げて警告したとある。

 朝倉方は、そのような可能性もあろうかと考え、用心堅固にして敵を待っていた。やはり一揆勢は、光秀の予言通り夜討ちをかけて来たがかねて用心していた朝倉方は、迎え撃って散々に敵を打ち破り、完全な勝利を収めたとなっている。

 そこで光秀は景行の信頼を得、其の推薦で義景につかえることができたという風に描かれている。

 諸国遍歴の時は、毛利元就にも見透かされたような殺気の相が災いして仕官できなかったが、越前では漸くその才能が認められたのである。

 しかし光秀は、義景の人物を見て、すぐに自分の生涯を託すに足らずと見透かしたようであると描いてある。

 光秀が義昭を説いて信長を頼らせたというのだが、光秀自身も義景の人物を見て信長に仕えたいと思い秀吉に斡旋したというのが絵本太閤記。
 マァ、絵本太閤記だから。ここはどうしても秀吉が柱になる。

 秀吉は光秀を見て、度量優れた逸材ではあるが、殺気が顔に現れて反逆の相ありと睨んだ。これは危険人物で何をやらかすかも知れないと恐れ、推挙をためらっていたという。

 しかし、義昭公のの動座を勧めた人物であれば無下にも扱えず、しかもこれをきっかけに信長も光秀に会いたいと望んでいた。
 信長が対面してみると、骨柄ただ者ならず、立ち居振る舞いも見事で気に入られ、今度上洛して三好一党討伐の先手に加えるべしと上機嫌だったというのだ。

 マァ、絵本太閤記には描かれていないが、信長は危険人物というよりその活用方法の考えを優先して仕えるのを許したと思いたい。

 もう一つ、この絵本太閤記では、光秀を語るのに若き光秀の逸話を載せている。
 ある年のある時、道端で大黒天の像を拾った。これは福の神であると信じて、家に飾って礼拝をしていたが、ある者の言うには、この像を信心すれば千人の長となるとのことであった。
 すると光秀は、顔色を変えて早々に大黒天を捨てさせた。この像の功徳は、たかだか千人の頭となるだけのことか。大望を抱くものが崇めるものではあるまい。ということがあったと描いている。

 こんなエピソードも後付けならなのだろう。

 
 

 
 
 

絵本太閤記に見る明智光秀像

 今回も絵本太閤記からのブログなのだが、明智光秀のことに触れたい。
 この絵本太閤記に出てくる光秀は「武智光秀」と姓が変えられて登場して来るのだが、面倒なので「明智」として述べていきたいと思うのであしからず。

 皆さんもご存じのように、足利13代将軍義輝が松永・三好一党に殺されたことはご存じだろう。
 この義輝には2人の弟がいたのだが、いずれも仏門に入っていた。
 末の弟で16歳になる周嵩は北山鹿苑寺(ろくおんじ・金閣寺)にいたが、手近にあったため、先ず刺客を松永から向けられることになり殺されてしまう。

 次の番は奈良興福寺の一乗院にいる義輝とは1歳違いの弟角慶であるが、細川藤孝(後の幽斎)の機転で助けられて脱出。
 近江・若狭・越前と、伝手を頼ってたどり着き、還俗して義昭と名乗り、美濃にいた信長の庇護を受けることになるのだ。

 この仲介を果たしたのが当時義昭が身を寄せていた越前朝倉家に新参者として仕えていた明智光秀の支援ということになるわけだ。

 光秀の出自、素性は不明な点が多すぎていろいろ説はある。
 脚本家にとっては自分の推測を十分発揮させるところでもあるのだが、「麒麟が来る」ではいろんな展開に仕上げているようだ。

 それでは絵本太閤記ではどうだろうか?
 美濃の守護土岐氏の支族で、恵那郡明智城主・明智光綱の子だという。幼少の頃、父に先立たれ、斎藤道三に仕えた。
 道三がその子義龍と戦った時、道三に味方したため自分の城も落ち、美濃から追放されたとある。
 そうして武者修行を心差して諸国を遍歴したのだという。

 周防の山口に行って毛利元就の家来・桂能登守のもとに寄り、毛利家に仕えたいと申し出た。
 元就は散々その度量や人格を試して「光秀の容貌は狼が眠るに似たり。喜怒の骨相際だち、精神状態は常に静かならず。いわゆる外観は柔和に見えて内心は激しい気性の持ち主である」と将来の光秀を見据えたような発言をしている。

 その時の元就は、仕えた後の異変を恐れて、金銀を多く与えて早々に国外へ追放したとある。

 マァ、この辺りは後年書いたものだから面白くしているのでは? と思ってしまう。
 
 光秀はその後、豊後を経て薩摩まで行ったが、ここは伝統的に他国者に用心深い土地柄である。
 だから、仕方なく四国に渡り、紀州から伊勢路を経て越前に至ったとある。

 諸国遍歴のおかげで城攻め鉄砲・大砲の操法を身につけていて、それを買われたと記している。
 足利義昭が越前に来た頃は、光秀はその技術や射撃の妙技を認められ、朝倉義景に500貫文で召し抱えられたのだと描いている。

 義昭の本懐は三好・松永を討伐して将軍家を再興することであり、朝倉義景に頼ったのもそこにあるのだという。
 しかし、光秀は、毛利元就に見抜かれたように慧眼でもって、朝倉義景は足利将軍の助けにはならないと考えた。

 つまり、光秀も仕官がかなった朝倉家を見限ったことになる。
 ということは、後、信長に仕えた後本能寺の変を起こしたことと繋がるのでは?
 大体元就が見抜いたように光秀は物事を見抜く力に優れていたために、自分の考えが義景にしろ信長にしろ一致しないと判断、これが裏切るという形で現れたのでは? 
と思うわけだ。

 光秀は、せっかく仕官させてくれた朝倉義景を見限り、義昭と信長との間を取り持つ役を果たしたが義昭を見切った。
 そして、信長の家来となったものの信長まで裏切ってしまった。
 ということは、なぜだろうか?
 毛利元就が言っていたように主君を平気で裏切るような性格だったとは考えられないだろうか?
 だから本能寺の変を起こしたのも当然だったかもしれない。

 小生が考えるのは、光秀の性格が単純そのもので、損得がはっきりしており、自分の意に反する考えの持ち主には逆らうのは当然だったとの考えだ。
 だから、信長の横暴ぶりが許せず本能寺の変を起こした・・・とネ。
 これあくまでも私個人の解釈だから怒らないでいただきたい。


 

 

 

絵本太閤記での聖徳寺の信長・道三の対面

 我々が知っている信長の正室は、濃姫といい斎藤道三の娘であることを知っている。
 これは道三が、美濃と尾張が形の上だけでも和睦し、あわよくば尾張を奪ってやろうと仕掛けた婚姻であることも知っている。

 信長の父である信秀とは幾度も道三は争っているのだが、その家督を継いだ信長がどの程度の器量があるのか知りたくて堪らなかったのであろう。信秀の死後、ついに信長と対面することを決意する。
 信長の器量については「うつけ」との情報は入ってくるもののどうしても自分の目で確かめたかったのだ。

 マァ、舅としては当然だろう。我が娘の亭主が本当のうつけ者であれば尾張を奪ってやろうと思うのも当然だろうネェ・・・
 信長がひ弱でバカ亭主だったらと思うと気が気ではなかったはずだ。

 そして、ついに対面の日、天文18年(1549)5月26日がやってくる。
 
 美濃と尾張の境目に位置する富田の聖徳寺が対面場所となる。NHK「麒麟が来る」ではどのような展開に仕上げていくのだろうか?

 絵本太閤記では次のようになる。
 当日、斎藤道三は7、800人の家臣に揃いの折り目高の肩衣を着せ、袴を穿かせて古風に威儀を正して、聖徳寺本堂の縁側に整然と並ばせ美濃勢の威容を見せつけようとした。

 その前を信長一行が通過する算段である。

 そうした準備をさせておいて道三は町外れの民家に身を隠し、信長の正体を見てやろうとした。

 マァ、ここからは知られている描写が展開されていくわけだ。

 以下、行列の先頭は信長で、髪は茶筅に結び、萌黄(もえぎ)の平打(ひらうち・平たい紐のこと)でそれを巻き立て、湯帷子の袖を外した着方である。熨斗つきの太刀と脇差は二つ共縄で巻き、太いお縄を腕抜きとしていた。腰の周りには猿使いのように火打ち袋と瓢箪を7、8つつけ、虎と豹の皮を四種に染め分けて合わせた半袴を穿いていた。友の兵士たち七、八百はまず足軽をさきに走らせ、五〇〇本の三間半の長柄の朱槍、その後に弓・鉄砲隊が続いて、鉄砲は五〇〇挺もあった。これは正に進軍の出で立ちである。

 次いで、この場面『信長公記』ではどうなっているかというと、以下になる。

 【四月下旬の事に候。斎藤山城道三、富田の寺内正徳寺まで罷り出づべく候間、織田上総介殿も是れまで御出で候はゞ、祝着たるべく候。対面ありきの趣、申し越し候。此の子細は、此の比、上総介を偏執候て、聟殿は大だわけにて候と、申し越し候。道三前にて口々に申し候ひき。左様に人々申し候時は、たわけにてはなく候よと、山城連々申し候ひき。見参候はん為と聞こへ候。上総介公、御用捨なく御請けなされ、木曽川・飛騨川、大河の舟渡し打ち越え、御出で候。(中略) 

 七、八百、折目高なる肩衣、袴、衣装、公道なる仕立てにて、正徳寺御堂のの縁に並び居させ、其のまーを上総介御通り候様に構えて、先ず、山城道三は町末の小家に忍び居りて、信長公の御出の様態見申し候。其の時、信長の御仕立、髪はちゃせんに遊ばし、もゑぎの平打にて、ちゃせんの髪を巻き立て、ゆかたびらの袖をはづし、のし付きの太刀、わきざし、二つながら、長つかに、みごなわにてまかせ、ふとき苧なわ、うでぬきにさせられ、御腰のまわれには、猿つかひの様に、火燧袋、ひょうたん七ツ、八ツ付けさせられ、虎革、豹革四ツがわりの半袴をめし、御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らし、三間々中柄の朱槍五百本ばかり、弓、鉄砲五百挺もたされ、寄宿の寺へ御着きにて・・・(以下略)】となる。

 となるのだが、大分堅苦しくなってしまったので絵本太閤記に戻りたい。

 聖徳寺に到着した信長は、部屋に入って屏風を引き回して髪を結い直し、長袴に衣装を改め小刀を帯びた姿で道三の前に出てきたとある。
 その姿を見た道三の家来たちは、さっきまでのたわけ振りは相手を欺くためだったのかと肝をつぶした。

 信長は、そのまま座敷に直って一通りの挨拶をすませ酒肴も出た。そうして信長は苦虫を噛みつぶしたような表情で「またお会いいたそう」と言って席を立った。

 20町ほど道三は見送ったが、信長勢の槍は長く我が勢の槍が短いのが何ともいえず不愉快だったとある。

 この時、道三の家来で猪子兵助が「どう見ましても、上総介はたわけものですなぁ」と言ったところ、道三は、「ただ残念なことには、あのたわけものの門外に自分の息子たちが馬を繋ぐことになろうことは、今から目に見えている」と・・・

 門外に馬を繋ぐということは、家来になるという意味なのだが、やがてこの予言は的中することになるわけだ。
 この後、道三は血のつながりのない嫡男・義龍に討たれ、義龍の息子龍興も舅の仇を討つとする信長に討たれることになる。
 こうして美濃は、やがて信長に占領されてしまうわけだ。

 

 

 




 

 

絵本太閤記での木下藤吉郎 織田信長に仕える場面

 今回も「絵本太閤記」から木下藤吉郎について述べていきましょうか。
 ドラマ「麒麟がくる」では、いよいよ木下藤吉郎も織田信長に仕える場面が出てくるんでしょうネ。

 脚本ではどのように筋立てしているのでしょうか? まあ、我々が知る藤吉郎の織田家仕官については、尾張での旧知で織田家の小者「一若」と「ガンマク」という人物が出てくるのだが・・・
 藤吉郎はこの二人に頼み込んで織田家の小者として仕えたということで記憶しているのが我々の知識だ。

 では、「絵本太閤記」ではどうだろうか?

 永禄元年(1558)9月1日、小牧山の狩り場で青い木綿の陣羽織に両刀を帯びた出で立ちで、信長の前に出て直訴したことになっている。
 この時、信長の側近である「柴田勝家」は藤吉郎を敵の間者ではないかと疑ったと書かれている。そして、藤吉郎を遮ろうとしたしてもみ合ったとあって、その様子を見ていた信長が藤吉郎を見て近くに来るよう招き直訴の訳を聞いたというのだ。
 この時の信長は非常に物分かりの良い武将だったことになる。この時、信長は21歳で那古野の城主だった。

 この信長、まだまだ尾張一国を束ねるところまでは来ておらず、未知の武将だったのだが・・・絵本太閤記の藤吉郎は、こんな信長に次のようなことを言ったとある。

 「お殿様は、今日の狩りでは沢山の鹿や猿などの獲物を得られたことと存じますが、それが天下国家のために何の益となったのでしょうか。それよりも、自分を得れば、たちまち天下を平定され、四海万民皆万歳と讃えることでしょう。仕官のお願いに兼ねて、このことを申さんがために罷り越しました」と吹き上げたとある。

 マァ、これは無いでしょうナァ、一国の主に対してここまでの大法螺は・・・たとえ藤吉郎でも言っていないと思うが・・・
 でも絵本太閤記では目出度く仕官が叶ったとある。
 何しろ平和な時の絵本だから、このくらい噛まさないと庶民も喜ばなかったでしょうネェ。

 以下、絵本太閤記での藤吉郎出世物語の描写は・・・
 藤吉郎は、馬飼(番)となって世話をすることになるのだが、昼夜を問わず厩において肥料の吟味から馬体の手入れも、訓練等一心不乱に働き続けたとある。
 故に、担当していた馬たちはたちまち毛並みが美しくなり、生き生きとした足取りで歩行するようになったとある。

 その後、草履取りを仰せつかると、寒気の最中信長の草履を自分の懐に入れて暖め、その注目を引いたとある。
 この辺りは秀吉ファンはよく知っていることだろう。

 ということで、この藤吉郎、どんな端役を当てがわれても誠心誠意、自分なりに懸命に働いたとある。
 
 ある日の早朝、例によって信長は起きだして来、玄関から外を見れば雪が積もって寒気もひとしおだったが「だれかある?」と声をかけた際、「藤吉郎にて候」と早速にも現れたとある。
 信長はあまりに早い藤吉郎の出現に質問するのだが、藤吉郎は「他には誰もいませんが、自分は今朝に限ったことではなく、毎朝人より一刻でも早く来て、殿のお出かけに備えていました」と答える。

 ここでも藤吉郎は自分を売り込んでいるわけだ。

 ここにおいて信長は、藤吉郎の勤務ぶりが他衆の連中より超えた働きぶりだと感じとり、ついに重く用いるようになったとある。

 そして、数年の間に一若やガンマクと同格の小人頭に取り立てられたとなっていく。

 やがて藤吉郎は、足軽から足軽組頭、足軽大将となって士分(さむらいぶん)に取り立てられ、そしてその才覚も認められ台所奉行や普請奉行といった理財の運用方までを任されるようになる。
  
 ここまでくるにも当時として破格の出世振りだろうネェ・・・ちなみに台所奉行の時の俸禄は「扶持30貫文」だったという。

 次回ドラマでは、聖徳寺での信長と道三の対面が実現するが・・・


 

 

 

 

 

  

木下藤吉郎の松下家での働き

 前回に続き日吉丸(木下藤吉郎)の話しだが、『絵本太閤記』には以下のようになる。

 猿に似た日吉丸(以下藤吉郎)と言われ松下家に仕えた藤吉郎。愛嬌があって皆から好かれたらしい。最初加兵衛は藤吉郎を草履取り等の仕事を与えていたという。この藤吉郎、敏捷で機転が利いた働きをしたので、段々と認められるようになり、松下家の納戸の出納役を任されるようになる。

 ところがこれが拙かった、こういった他者と比較して破格の取り上げ方をされると、どうしても同僚の嫉妬をかってしまうことになってしまう。
 マァ、これは現代社会においても同様だと思うが・・・

 そういった嫉妬の中で一悶着起きる。松下家の家来の一人の若侍・川島宇市なるものが藤吉郎に武術の試合を申し込んだ。

 藤吉郎は最初断っていたが、あまりにしつこく言うので仕方なくこれを受けて立った。
 藤吉郎は蜂須賀家で学んだ技で立ち向かい、打ち込んできた相手の木刀を右左と躱して宇市の左目の上あたりを打ち据え目を眩ませ、怯んだ隙をみて木刀を叩き落とし勝を収めたとある。

 これだと藤吉郎は相当な腕前だったと思うのだが、実際の藤吉郎はというと・・・?だろうネェ。

 マァ、これ『絵本太閤記』の記述なので当てにはならない。大体がこの『絵本太閤記」では弘治3年(1557)となっているから事実かどうかも疑わしい。
 この絵本太閤記にはもう一つ逸話がある。
 当時、北条氏政・氏直父子が駿河に侵攻して来て,富士川で今川義元と戦った。この時、松下加兵衛と共に義元麾下として参戦し、敵将の首を挙げて初陣の功名を立てた共描かれているのだが・・・これも眉唾だろうネェ。

 しかし、こういった働きぶり功名を挙げた藤吉郎がなぜ松下家を去ったのか?
 やはり、これは同僚の陰口が影響していたのでは?と言う説があり有力だが、事実無根の濡れぎぬを着せられたという説、殿様から頼まれた鎧探しがきっかけだったとの説も・・・

 絵本太閤記では、鎧探しに出る際藤吉郎は、松下から黄金6枚を預かった。
 これは松下が、尾張の鎧は胴丸といって右の脇腹で合わせ伸縮自在なのが主流だと聞いていたのと、藤吉郎が尾張の出身だということから藤吉郎に命じたとなっている。

 藤吉郎は道すがら、恩義を忘れると言われるのは心苦しいが、青雲の志を遂げるためにはこの金を元手に一旗揚げようと思い立ったとある。
 そのためには、当時、勢いを増していた織田信長に仕えるのが最善だと思い実行に移す決意をした・・・となる。

 実際はどうだろうか? 松下加兵衛は同僚からの妬みなどから藤吉郎を解放させたいと考え、尾張に帰らせようと、暇を出すことにし、その際、路用として与えたのが永楽銭300文で、それが藤吉郎の資金だというのが本当らしい。

 

 

 
 
 
  

 

「麒麟がくる」木下藤吉郎の登場から・・・

 またまたNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」からなのだが、この13回から木下藤吉郎が出てきた。
 だが、藤吉郎が佐々木蔵之介と言うのが気になりますナァ。伝えられている秀吉とはイメージがあまりにも違い過ぎるからだ。
 ちょいと図体がデカすぎるのだ。これでは迫力のない信長と対峙しても、その時点からどちらが主人かと言うのが気になる。

 マァ、ファンタジーのドラマと思えば良いのだろうネェ・・・江戸時代の『絵本太閤記』のようにネ。
 この絵本太閤記は、江戸時代中期の寛政年間(1789-1801のころに書かれた豊臣秀吉の生涯を描いたものである。
 元は『川角太閤記」だと言われている。
 徳川家に滅ぼされた豊臣家なのだが、秀吉の人気は相当なもので陰では絶大なものをもっていたわけだ。だから、江戸時代になっても、豊臣秀吉の人気は収まらず、芝居とか読み物にして広まっている。しかし、その場合も、名前を変えたり筋を少し変更したり最小限の注意を払って幕府の目から逃れようとしていたらしい。
 よって、徳川家康と接触する場面も極力控え、名前さえ気を配って書いている。
 例えば、織田は小田、島津は志摩図などに変えているのだ。
 そういう工夫で書かれた『絵本太閤記』は全7編84巻を数えている。

 こんな絵本太閤記であったにも関わらず、ましてや幕府の取り締まりも厳しい中、かい潜ってきた絵本太閤記もついに、文化元年(1802)絶版させられているのだ。

 書かれた寛政年間と言えばもう平和な時代そのもので、将軍は第11代徳川家斉で天皇は光格天皇の時代だ。

 ドラマでは、大きな雑多物を担いだ藤吉郎が書物を見ているところからなのだが、読み書きが出来ないものだから、通りすがりの娘に読んで貰うところから始める。
 その後、織田家はダメだから今川家に仕えることにしたとなっていく。
 
 その『絵本太閤記』の中では今川家に仕える場面はどうなっているか・・・と言うことでその場面を少し述べてみる。

 今川家に仕える松下加兵衛之綱と言う武士が、同じく今川幕下で曳馬(ひくま)城主の飯尾豊前守を訪ねようとしていた時、路端で異様な風体をした人間がいるのを見かける。あまりにも猿に似ていたので「猿かと思えばやはり人間だった」と『太閤素性記』にあるのだという。
 マァ、佐々木蔵之介は猿に見えないこともないが体がでかすぎる(笑)

 これに興味を持った松下が「何者か」と尋ねたところ、俺は尾張の百姓の息子だが、武家奉公を願ってここまで(今川領)やってきたと答えた。
 松下は、それなら自分の所で奉公しろと言うと、日吉丸(後の藤吉郎)にとっては願ってもないことなので二つ返事で承諾したとある。

 この場面、蜂須賀小六のところで修行した槍の腕前を自慢して松下に召し抱えられたともある。当時藤吉郎17歳だ。

 ということなのだが、佐々木蔵之介はとても17歳には見えない(笑)・・・マァ良いか。
  
 次は藤吉郎が松下加兵衛に仕えた状況を述べてみたい。


 

歌舞伎の元祖出雲の「阿国」は実在していたのか?

 4/2 NHKの番組で「日本人のお名前!」という中で、歌舞伎の元祖「出雲の阿国」のことが出てきた。
 過去小生も出雲大社にお参りした後「阿国」の墓所を訪ねたことがあるので懐かしく思い出した。
 住所は島根県出雲市大社町杵築北2529とあり、「出雲大社の観光センター」から少し431号線を稲佐の浜へ進んだ道路の脇にある。
 墓石には「元祖 歌舞伎 お國墓」と刻まれており、これが歌舞伎の創始者「阿国」の墓だと言われている。

 さて、この阿国、果たして実在した人物なのであろうか?

 番組内でも紹介していたが、出雲の阿国、戦国の世にあって、歌舞伎踊りを広め、歌舞伎の始祖として知られているのだが・・・
 元々の阿国、出雲大社の巫女だったという説がある。しかし、これ定かではないというのだ。
 「阿国」の名前が残っているのは西洞院時慶(にしのとういんときよし)の『時慶卿記』の慶長5年(1600)7月1日のくだりである。
 そこには「クニ」と「キク」という二人が、後陽成天皇の女御らの前で、出雲伝承の「ややこ踊り」を見せたとあるのだ。
 「ややこ踊り」というのは、稚児さんが踊るようなもので、歌舞伎踊りとはまったく印象が違うのだという。

 これが出雲の阿国の実在を示す文献だというわけだ。
 ただ巷間に伝わっている出雲の阿国の活躍はもっと早いとも言われる。永禄年間(1558ー1570)を中心に、将軍・足利義輝に可愛がられ、お抱え役者となったあと、織田信長や豊臣秀吉等にも可愛がられたと言われている。

 だが、これが事実であるとすれば、慶長5年に宮中で「ややこ踊り」をして見せたという阿国さんはずいぶんのオバハンだということになる。
 だって、1560年ころに20歳だとすると、1600年には60歳だ。ということは当時の60歳は棺桶に入っていてもおかしくない年齢だということになる。

 そのあたりの矛盾を解くために唱えられはじめたのが、出雲の阿国は二人いたという説だ。
 足利義輝のお抱え役者になった阿国が初代で、慶長5年に宮中で踊った阿国が二代目だというわけだ。

 さらにさらに、細かな説もあるという。
 足利義輝のお抱え役者に名古屋山左衛門という男がいて、この男と初代阿国の間にできたのが二代目阿国だという。

 でもこの説を否定する者もいる。
 ということで、他にまともな文献が残っておらず、残っていたとしても「クニ」としかない。

 「出雲の阿国」というのは歌舞伎踊りのシンボルのようなものだと思うが、年々江戸でこの歌舞伎踊りが広まり、いつのまにか元祖「阿国」がいたということになったのではとも考えられるのでは? と言う説もある。

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   阿国の墓所入り口(出雲市・観光案内から)
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     阿国の墓(同)
 

 
 

 

秀吉の軍師 竹中半兵衛

 NHK大河ドラマ「麒麟が来る」はそこそこの視聴率を稼いでいるようだ。
 小生、あの色彩がどうも気になって仕方がないのだ。あまりにもファンタチックで現実離れをしているからだ。

 今後信長、秀吉、家康が登場してくるのだろうが、脚本家はどのような筋立て用意しているのか?  マァ想像の世界だからどのように進んで行っても一向にかまわないが・・・

 今回は秀吉の軍師について触れてみたい。これ、あくまで個人の意見なのであまり真剣に受け取らないでいただきたい。

 秀吉の軍師と言えば「竹中半兵衛」と「黒田官兵衛」を思い出すのは皆さんも同じだろう。
 特に出世し始めた秀吉の若かりし頃の軍師が「竹中半兵衛重治」だ。小生も子供のころ吉川英治の太閤記を読んで興奮していた場面の一つが半兵衛が稲葉山城を乗っ取った場面だ。

 これで竹中半兵衛の名が一気に轟わたったという。それほど強烈だったのであろうが、年を経て思えば大したことはないと思ってしまう7.
 それは、斎藤家に仕えていた半兵衛が戦ごっこをしたのでは?と思うからだ。

 この稲葉山城は難航不落と言われ、織田信秀・信長親子でも手を焼き、攻略することができなかった。
 永禄7年(1564)、一夜のうちに斎藤龍興の隙をついて、僅か手勢16人を引き連れて奪ってしまったと伝わる。
 この時半兵衛は21歳の若さで、主君・龍興を城から追い出してしまったから周りから見れば痛快そのものだろう。

 マァ、この事件、世間からいろいろと言われているが、主なものは「稲葉山城乗っ取り」ではなくバカな龍興を諫めるためだという説。
 美濃の主君は自分が座るという下剋上的考え方と言う説・・・

 しかし、実際は城を乗っ取った後、龍興へ稲葉山城を返還して近江へ逃げているので、諫めるとの気持ちが強かったのであろう。

 そんな知恵の回る半兵衛に反応したのが秀吉と言うのが吉川英治の小説。
 小生は、信長の意向で秀吉が動いたのでは・・・と思う考え方が強いと感じている。そして、信長は秀吉の与力になることを許諾したのではないかと思うのだが別に根拠はない。

 秀吉が半兵衛が断っても断っても、口説くために近江の半兵衛のもとに通い、ついに成功したと伝わっている。
 秀吉は信長の命なので必死に食らいついたのでは・・・と考えてしまう。

 でもネェ、竹中半兵衛のその後となると表面には余り出てこないのだ。

 いろいろな史料を見ても謎が多くて、実際に軍師だったのかどうかも分からないと専門家は言っている。
 大体が稲葉山城乗っ取り話が、本当だろうかと疑われているのだ。

 信頼性の高い太田牛一の『信長公記』は、織田信長自身の美濃攻略を記してはいるが、半兵衛の乗っ取り事件には触れられていないからだ。

 城主の斎藤龍興が一時的にせよ城を追い出されるほどの大事件なのに記述がないということは?・・・どういうことだろうか?
 さらに専門家が不思議かるのは、半兵衛が実際に稲葉山城を乗っとったのであれば、信長が厚遇していてもおかしくないのだが信長はそうはしていない。秀吉に預け放しだ。
 本当に半兵衛が稲葉山城を乗っ取ったほどの力量があるのであれば、他にも手柄話の二つや三つあってもおかしくないのだが・・・それが全くないということは疑わざるを得ないといのが専門家の話。

 秀吉が三顧の礼を尽くして迎えたというのは話としては面白いが、いつもの如くで後世の作り話なのでは・・・面白おかしくするのが小説や講談なのだから・・・・

 歴史の事実としては、信長が稲葉山城を攻略前後に半兵衛は仕えていると思われ、秀吉の与力として名前が載っているのでこれは事実なのだろう。
 天正5年(1578)には、備前八幡山城主を降伏させたとあるが、この時、信長から秀吉に黄金100枚与えている。
 そして、信長は半兵衛にも銀子100両が与えられているから、相当の手柄を上げたもの推測はできる。

 ただ、世間的には有名なのだが、その割には記録がないので謎の人物とされているわけだ。

 竹中半兵衛(禅幢寺所蔵).jpg
 

 

 
 


 

 

 


 

 

 
  

安土城を焼失させた犯人は誰?

 今回も明智光秀に絡む話だ。
 織田信長が建てた安土城、絢爛豪華の造りでそれは見事にものであったと言われているが今一ピンとこない。
 築城の開始は天正4年(1576)のことで、完成したのが天正7年(1579)のことだったという。

 以後、信長はここに居住することになる。
 当時の資料遺跡から推測すると天守閣の高さは約37Mの5層7階建てであり、各部屋の壁は狩野永徳等によって花鳥図、中国の故事を記した画などだという。
 絶頂期だった織田信長に相応しい豪華絢爛たる城だったようだ。

 しかし、残念ながらその城の姿を見ることはできないのは残念ではある。
 
 信長は本能寺に宿泊していた時、明智光秀に急襲され亡くなるのだが、この安土城も間もなく焼け落ちてしまったからだ。
 誰かが火をつけたことは間違いないのだが、誰が・・・ということになると判明していないのだ。

 京都にある「本能寺」と近江に建てられた「安土城」は距離も離れており、全く別だと考えた方が妥当だろうが、いったい誰なんだろう?

 実はこの安土城、明智光秀が本能寺の変、三日後の6月5日に安土城に入っていると言われている。
 間違いなく明智光秀は、信長の居城に入ることで天下に己の権勢を誇示しようと思ったものと思われる。

 ところがどっこいだ、毛利家が支配する備中高松城を攻めていたはずの羽柴秀吉が、引き返したとの報を聞いた光秀は慌ただしく出城し山崎において秀吉と相対することになった。

 しかし、天正10年6月13日、いともあっさりと秀吉に負け、敗走中土民に殺されてしまった。安土城が炎上したのが天正10年6月14日または15日ではといわれている。

 その時安土城を守っていたのは誰かと言うと、明智光秀の娘婿「明智秀満」であった。
 その秀満が、義父の光秀が山崎で秀吉に敗れたとの報を受け敗走したことで安土城を出る決心をする。その際、火を放ったとの説があるのだが・・・どうだろうか?
 この説、はっきりそうだという確証はないようだ。

 秀満は、安土城を出て何処に行ったかというと坂本城に入っている。そして15日には坂本城に火を放って自害してしまう。
 この秀満が安土城に火を放っていたとすると、この男2つの城を焼いたことになる。
 でも、坂本城が15日に焼失したのであれば秀満は既に坂本城に入っていたのだから、15日に安土城が消失したのだとすれば秀満が火をつけたとは考えられない。
 マァ、安土城の焼失が14日なのか15日なのかはっきりすれば明らかになると思うのだが・・・

 他の書物『兼見卿記』の記述も気になる。これには15日に安土城が放火されたとあるからだ。
 それには、出火元は安土城ではなく、安土の町から出火したのが安土の城に延焼したとあり、天守閣もこの時類焼したという。
 でも、この時焼失したのは天守閣と黒金門付近だけで、二の丸は焼けていないのだという。
 そして、安土城の天守閣が焼失した後、信長の孫・秀信が安土城に入っている。
 しばらくはそこに居住していたとあるのだから、二の丸が焼け残ったという説は可笑しいと思わざるを得ない。
 だって、城下町と天守閣の間に二の丸があるのだから、二の丸は燃えず天守閣と黒金門が燃えたというのはどうだろうか?

 となると、この説も眉唾では?と思ってしまう。

 もう一つ、宣教師ルイス・フロイスの書簡だ。
 この書簡には、信長の次男・信雄が天守閣に放火したと記されているのだ。専門家はこちらの方が真説だろうという。

 番外的推測で、安土城周辺の土民達が略奪目的で放火したという説もあるというが、小生はこちらの説は「無い」と思いたい。
 だって夢が壊れるのだから・・・
 
 
 

  
 




 

明智光秀は本当に名家出身だったのか?

 前回に続き戦国武「将明智光秀」のことだが、この光秀を表すとき、「当時の戦国武将の中でもとりわけ教養が高く、故実や典礼、連歌や茶の湯を好む武将だった」というのだ。
 一方では「内政に長けており、領民に対しては慈しみをもって扱ったので慕われた」ともいうのだ。
 果たしてそうだったのかナァ・・・・

 大体が明智光秀一代記を表すとき重用されるのが『明智軍記』なるものだ。
 しかし、この軍記「本能寺の変」後100年経た江戸時代のものなのだ。1693年から1703年頃のことで眉唾ものという。
 1690年代は「元禄時代(1688-1704)」、5代将軍綱吉のころだ。
 
 幕府は家康,秀忠,家光の3代の間にその基礎を確立して幕藩体制を整えていた。
 4代家綱を経て綱吉の代には最盛期を現出するにいたったころで平和を象徴する時代だと言われている。
 政治の基調も武断政治から文治主義へと転換していったころのことで、経済的には,積極的な新田開発,農業技術,器具の改良などに伴って農業生産力が増大し,商品流通の拡大につれて貨幣経済が発展し,大坂,京都をはじめとする商業都市が繁栄し、商人の勢力が増大し,諸大名の財政が徐々に町人に左右されるに至っていた時代だから、こういった「明智軍記」なるものも輩出されていったのだろう。
 よって、娯楽も様々なものが生まれてくる土壌が育ったと思う。
 だから、庶民が喜びそうな創作を交えて書き上げたのではと推測されるわけだ・・・これ、あくまで推測だからそのつもりで。

 『明智軍記』その中に記されているのは、美濃の守護・土岐氏の支流、明智下野守頼兼八代の子孫・光綱の子だという。
 父が早世したため、父の弟・兵庫助光安が美濃国恵那郡の明智城に住み、土岐家を没落させた斎藤道三に仕えたというのだ。

 その後、光安は斎藤家に反逆したかどで殺害され、甥の光秀は、光安から明智家の再興を託され、明智城を脱出して越前に向かったという。
 そこで光秀は「朝倉義景」に仕えることになり、たまたま身を寄せることとなる「足利義昭」に出会い仕えることになるというわけだ。
 
 そして、光秀は足利義昭とともに織田信長と対面、信長は義昭を利用することになるのだが後に義昭は追放されてしまう。
 一方光秀は、義昭を見限り信長に仕官することになって出世していくというわけだ。
 『明智軍記』には「光秀は土岐氏の流れをくむ名家の出身」だと記されているのだが、まことにうまく筋立てしている(笑)

 ということで朝倉義景時代のころについては他の資料にも合致しているので大体そうだろうと専門家は言っている。

 信長に仕えた後のことについては「信長公記」などに光秀の名前が出てくることから、マァ間違いのないことなのだろう。

 しかし、光秀の父・明智光綱が本当かどうかについてはどの資料にも出てこないことから疑問だというのがもっぱらの説だ。

 明智光秀の父光綱が事実なのかそうでないのかについても専門家は?をつけている。
 『明智軍記』より古い他の文書でも光綱が出てこないのだという。だから『明智軍記』そのものには信憑性が低いのだという。 

 『籾井家日記』とい史料には、光秀のことを族姓も分からない下級武士の子とあり『明智氏一族宮城家相伝系図書』では、進士信周の次男としている。
 天野信景の随筆『塩尻』では、出身は明智だが、本姓は「御門」とあるとも記されているらしい。

 このようにいろんな史料によって、名前も出身もまちまちで、とても光秀が血脈のはっきりした名家の出だとは思えない。
 もうこうなってくると、百姓出の秀吉にちょいと毛の生えた程度の家かもしれないのだ。

 最後に『若州観跡録』には「鍛冶屋の冬廣の次男」となっているから、こうなると武士の家系ですらなくなってくる。 
 
 

 
 
 
 

「本能寺の変」信長を討った光秀の動機は?

 久しぶりの投稿なのだが、現在NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で明智光秀を取り上げている。
 最新の技術を用いて撮影しているというが今いちピント来ないのだ。
 あまりには原色が強過ぎて、自然界とはかけ離れた色の気がして、ファンタジーの世界に迷い込んだ感がある。

 このドラマの結末は年末になるのだろうが脚本家はどのような動機にするのでしょうか?

 明智光秀が起こした「本能寺の変」の動機、この世では様々な説が歩き回っているが・・・

 そこで今日は、各種説の根幹となっている理由を振り返ることにしましょうか。
 
 明智光秀は、柴田勝家、羽柴秀吉等と並んで、織田家の五大軍団の将の一人だった。
 「本能寺の変」で織田信長襲撃後僅か11日で「中国大返し」と言われている秀吉によってあっさり敗れている。

 天下を狙ったにしては誠にお粗末だろう。
 他地方の有力武将達に根回ししなかったのだろうか? 支援が得られないと分かっていれば止めることもできたはずなのだが・・・と言われている。

 でも光秀は、謀反を起こすとはっきり言わなかったにせよ、協力を求めた武将たちから何れは信長に伝わることは読んでいたはずだ。
  だから無理を承知で決起してしまったというわけだ。

 ということから色々な説が浮上してきた。
 「光秀の謀反は、天下取りが目的ではなかった」と言う説だ。

 一番有力な説は昔から言われる「信長に対する恨み」だというのだ。
 小生はこの説が最も信憑性があるとみている。つまり、「怨恨説」だ。

 「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」と言われるくらい気性の激しい信長だ。高野山の「焼き討ち」といい、気性が激しかったことは間違いのないところだろう。
 信長は、自分の意に背く武将には情け容赦のない仕打ちをしている。
 一応光秀は出自が良いから自尊心というものはそれなりにあったことだろう。百姓出の秀吉とは違うのだ。
 その自尊心そのものを信長は踏みにじり武将たちの面前で罵倒していると言われる。

 『総見記』には、次のようなことが書かれている。
 光秀の母が人質に取られているにも関わらず、信長が城主の「波多野秀治を殺させたため、光秀の母が仕返しに殺されてしまったとかだ。
 そして『川角太閤記』には、徳川家康の接待役を任された光秀が、腐った魚を出して接待役を解任され、当時秀吉が出陣していた備中に応援に行けと命令さたことによって、光秀がこれらに根を持って「本能寺の変」になったというわけだ。

 さらに有名な話がある。
 武田家を滅ぼした時のことだ。
 祝いの席で光秀が「これでわしらも骨を折った甲斐があった」と発言したのだという。
 これを聞いた信長が「お前ごときが何をしたというのだ」と激烈に面罵し打擲したというのだが、これは『祖父物語』に記されている話。

 結局光秀は所領していた丹波一国と近江滋賀郡を取り上げられてしまった。

 代わりにまだ占領していない毛利領の出雲と石見を切り取り次第治めろと命じられるわけだ。
 これは「明智軍記」に記されている説なのだが・・・

 以上のことは後年もっともらしく記されたもので根拠は乏しいと思いますナァ。
 大体が芝居や講談、小説では波乱万丈ものが喜ばれるから、これらが積み重なって真実の如く語り継がれてきたのではないだろうか?

 他の説もある。
 「朝廷をまもるため」だったという説だ。
 信長は自分がこの世で一番の人間だから朝廷なんぞ潰してしまえと考えていたというのだ。
 しかし、朝廷を敬う明智光秀がこれを阻止しようと本能寺の変を起こしたというわけだ。
 
 もう一つの説、これも眉唾だと思うが、信長によって備後の国に追放された足利義昭が己の権力を取り戻すため、かつて家臣だった光秀に命じたというのだ。
 マァ、これも眉唾だろうと思うよ、話は面白いに越したことはないからネェ・・・

 説としてはまだある。
 羽柴秀吉が後に天下を取ったことで「秀吉が光秀を唆して変を起こさせた」というものだが・・・これはないと思うネェ(笑)
 そして、堺の豪商たちが関与していると言うものだ。
 これなんぞ本能寺の変の前日、信長は「茶会」に出席していたのだが、堺の豪商たちがこれに関わっていたから光秀に通報したとか・・・
 
 いろんな説が論じられていろが真実は・・・というとやはり謎なんですナァ・・・ 

 小生は単純な動機だと思いますナァ・・・光秀が信長を恨んだんですよ、単純にネ!
 だって、仕えていた足利義昭に背く男ですぞ! 信長に背いたとしても不思議はないと思いますが(笑)

明智光秀像.jpg
    明智光秀

 

 
 

 
 

 

 

  

ゴーン被告の逃亡 東京地裁の大チョンボ

 日産自動車の前会長ゴーン被告がレバノンに逃亡した。
 昨年5月に保釈請求したとき地検が強く反対したのだが、国際的批判に屈した地裁はこれを認めた。
 結局地検の恐れていた「逃亡」は現実となり、ゴーンはレバノンに逃亡、レバノンは身柄を日本に引き渡すことを拒否したというから地裁の責任は重い。
 保釈請求を認めた裁判官の責任はどうなるのだろうか?

ゴーン被告の旅券携帯、地裁が許可 レバノン入国に使用か
1/2(木) 20:46配信

カルロス・ゴーン被告=2019年5月23日、東京都千代田区(納冨康撮影)
 会社法違反(特別背任)などの罪で起訴され、保釈中にレバノンに逃亡した日産自動車前会長、カルロス・ゴーン被告(65)について、東京地裁が昨年5月に弁護側の請求を受け、フランスから発行された旅券の携帯を許可していたことが2日、関係者への取材で分かった。東京地検は海外逃亡の恐れが高いとして反対していた。地検はレバノン入国の際、地裁が携帯を許可した旅券が使われた可能性もあるとみて調べている。

 地裁は昨年4月、海外渡航を禁止し、所持する全ての旅券を弁護士に預けることなどを条件としてゴーン被告の保釈を許可。弁護団はゴーン被告が国籍を持つレバノン、フランス、ブラジルの3カ国が発行する旅券を預かっていたという。

 関係者によると、弁護側は昨年5月、「旅券不携帯で入管難民法違反になる」として条件変更を地裁に請求。地検は海外逃亡の恐れが高いとして反対意見を出したが、地裁は2冊あるフランスの旅券のうち1冊を鍵付きケースに入れて携帯し、鍵は弁護団が預かるとの条件で請求を認めた。

 弁護団の弘中惇一郎弁護士は逃亡発覚直後、全ての旅券は預かったままだと明らかにしたが、2日、「地裁と協議して鍵付き旅券を所持していた経緯を失念していた」と釈明した。

 日本出国の際は不正な手段が使われた疑いが強く、この旅券が使われた可能性は低いとみられるが、レバノン政府当局者は、フランスの旅券で合法的に入国したとしており、この旅券が使われた可能性がある。

 裁判所関係者は「保釈中の外国人に条件付きで旅券の携帯を認めることは通常の措置。今回は日本の法を破って出国したという極めて特異な事例だった」と説明。ある検察幹部は「旅券携帯義務は司法判断で免責されるもの。裁判所の判断が甘かった」と話した。

小沢一郎が悪夢の政治の再現目指す?

 国民民主党の小沢一郎が「立国合流、来週決着」をとぶち上げた。
 これは1日、私邸で開いた新年会でのことだった。
 立憲の政党合流に向け、6日の週に両党の党首会談を開いて決着すべきだと言うのだ。
 これが実現すると、なんのことはないあの悪夢の民主党が復活するだけだわナァ。(笑)

「本能寺の変」10日後の光秀書状発見

 本能寺で織田信長を討ち果たした明智光秀が、10日後に反信長派の豪族に宛てた書状が発見されたという。
 詳細は引用文の通りだが、信長誅殺にはいろんな説があるので、専門家はこの書状から真実をどう読み解くのかは興味がある。

【産経ニュース】9/12
光秀の狙いは室町幕府再興か 「本能寺の変」10日後の書状原本発見
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明智光秀が天正10年6月12日に土橋重治にあてた手紙の原本と確認された「土橋重治宛光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵)

 戦国時代の武将、明智光秀が「本能寺の変」で主君の織田信長を討った10日後に、反信長派の豪族に宛てた書状の原本を発見したと、三重大の藤田達生教授(日本史学)らが11日、明らかにした。信長に京都から追われた室町幕府の15代将軍、足利義昭を再度入洛(じゅらく)させようと協力を求める趣旨の記述があり、藤田教授は「光秀らが義昭を奉じて室町幕府を再興させようとする政権構想がうかがえる」としている。

 書状は天正10(1582)年6月12日、紀伊雑賀(さいか)衆の反信長派リーダー、土橋重治(しげはる)に宛てたとされる「土橋重治宛光秀書状」で、岐阜県美濃加茂市の美濃加茂市民ミュージアムで見つかった。縦11・5センチ、横56・7センチ。これまで書状の写しが東京大学史料編纂所にあるのは知られており、藤田教授は幕府再興説を唱えていたが、原本は見つかっていなかった。

 書状は「将軍(義昭)のご入洛のことについては、ご奔走されることが大切です」などの内容で、信長によって追放され鞆(広島県福山市)にいた義昭の帰洛を実現するため、光秀らが奔走している様子を伝えている。

加藤清正の最後とは?

 加藤清正が築城した熊本城、この度の地震で大きな被害を受けた。
 この城、熊本市民にとっては自慢の城だけに早い復元を期待しされているのだが・・・・

 その清正の最後はこの熊本城内であったという。
 慶長十六年(1611)三月二十七日、二条城での家康・秀頼の会見後、熊本に帰国の途中、俄に船の中で病み、六月二十四日熊本にて没したとなっている。

 二条城では、この清正は秀頼のそばを片時も離れようとはせず、万が一の時は秀吉から貰った懐刀で秀頼を守るつもりだったともいう。
 それほど秀頼のことを思っているのであれば石田三成と手を握っておれば・・・とは思うが・・・これは今になれぱ詮無いことではある。

 会見は無事終わったのだがその時清正は涙を流して喜んでいたとも伝わっている。
 
 清正は船で熊本に返る途中病に倒れている。
 家康と秀頼の会談が無事終わったことでホットしたのか一気に病状が悪化したと伝わっている。
 
 領国肥後(熊本)に帰ったときから急激に病状が悪化している。
 清正は倒れてから3ケ月ほどで亡くなっており、因は一応「脳出血」だということなのだが・・・いろんな憶測が流れているのだ。
 その一つが徳川家康の「毒殺説」だ。
 豊臣家に忠実な清正は徳川家康にとって、天下を取るうえで目の上のたん瘤的存在だ。
 邪魔になって仕方がないから毒殺したのだというものだ。

 今になってはなんとも言い難いが、二条城での家康、秀頼会見の大役を果たした事で気が緩んだのでは・・・というのが有力だろう。

 清正にいま少し豊臣家の将来を見通す眼力が、あったら・・・という向きもあるが・・・
 当時、天下を狙っていた家康。
 周囲の状況は家康一辺倒だと言っていいほどの追い風だったと思われる。
 だから、秀吉の遺臣が団結したからと言って対抗出来たかどうか・・・という専門家もいる。
 しかし、こればっかりは、それこそやってみなければ分からなかったと小生は思うのだが・・・・

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                 加藤清正像