戦国武将吉川元春の初陣と結婚

 戦国時代、世は乱れに乱れ自家を如何に存続させるかで家長は頭を痛めていた。
 他人を100%信用するわけにはいかないので、どうしても血縁関係を頼らざるを得ない。
 それでも骨肉の争いは起きるわけで致し方の無いことでもあったし、そういう時代でもあったのだ。
 マア、これは現代でも当てはまることなのであまり批判はできないであろうが・・・・

 そいいった時代、我が子が一人前になったという証のため、「初陣」という儀式?が必要になってくる。
 今回は、各武将達の旅立ちでもある「初陣」について述べたいと思う。

 「初陣」というものは「元服」以上の儀式だと言っても過言ではあるまい。
 「初陣」は、出で立ちを美々しく整え、敵陣に攻撃するのでどうしても慎重を期すことになる。
 これに失敗すると、後々ダメージが残り、その子にとって取り返しのつかないこともあり得るのだから家長も時期については悩んだことであろうことは推測でできるのだ。

 そう言う事で今回、「吉川元春」の初陣と結婚を簡潔に述べたい。
  吉川元春は、享禄3年(1530)、毛利元就の次男として安芸吉田郡山城で生まれている。

 天文9年(1540)、出雲国の尼子晴久が侵攻した際に行なわれた吉田郡山城の戦いにおいて、元服前ながら父元就の反対を押し切って出陣し、見事に初陣を飾ったのだ。
 この時元春12歳だったというから、今でいえば小学生5.6年生の時だ。
 父親としては心配であることは否めないし現に元就は強く拒否したと伝わっている。
 それでも元春は「初陣」を主張したというから、このごろから元春の勇猛果敢な精神はあったのである。
 
 天文12年(1543)8月、兄・毛利隆元より偏諱(「元」の字)を受けて元春と名乗った(異説がありますのでご了解ください)。
 天文16年(1547)、自ら望んで熊谷信直の娘新庄局と結婚しているのだが、この話が後世有名になっているのだ。
 次はその話だ。

 この正室の新庄局は不美人であったという逸話がある。
 宣阿の『陰徳太平記』巻十六「元春娶熊谷信直之女事」によると、児玉就忠が縁談を薦めた際に不美人と評判だった熊谷信直の娘を元春は自ら望んだという。
 驚いた就忠が確認すると、「信直の娘は醜く誰も結婚しようとはしないので、もし元春が娶れば信直は喜び、元春のために命がけで尽くすだろう」と話したとあるのだ。

 この嫁取りは勇猛で知られる熊谷信直の勢力を味方につけるための政略結婚であったと言われているが、その一方で自らを女色に溺れさせないように戒める意味もあったとされている。
 ちなみに夫婦仲は円満で、元春とその娘との間には吉川元長と毛利元氏、吉川広家他が生まれている。
 ただ、武田光和に嫁いだ信直の妹は絶世の美人ということであり、叔母と姪で容色がそこまで違うのかという疑問もあり、本当に元春の妻が不器量であったかどうかは不明であろう。
 これに似たような話としては「諸葛孔明の嫁選び」がある。
 
 元春は熊谷信直の娘(新庄局)を正室に娶り、生涯側室を置かず4男2女の子宝に恵まれている。
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                      吉川元春像

「ホトトギス」で表す3傑武将

 戦国時代には大勢の武将達がいたのだが、その中でも「織田信長」「豊臣秀吉」徳川家康」は3大英雄と云われている。
 北条早雲、武田信玄、上杉謙信等々比類なき武将は大勢いるのだが、天下を統一した秀吉や家康、統一までの御膳立てをした信長については戦国史に燦然と輝いている。
 信長は苛烈な武将と酷評されるのだが、天下統一に向けて内向きの対応であったなら天下はならなかったことは断言できるのだ。
 信長の苛烈さは時代がそうさせたものと思う。
 よく言われる比叡山焼き討ちのことだ。
 老若男女約3000人を虐殺したと酷評されるが、もし秀吉であればどうだっただろうか?
天下統一の道の中に邪魔な比叡山の僧が立ちはだかっていたら蹴散らしたであろうか?
 家康だったらどうだったのであろうか?
 やはり信長ならではの判断だったと思う。

 そういった性格を表したのが「黙りホトトギス」の和歌なのだ。
 勿論後世の人が詠んだものであるが言い得て妙であろ 
 
 〇 織田信長
   「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
    織田信長は残酷で強かな感じである。
    無能無用なものは徹底して排除し、最悪の場合殺害してしまうのだ。
    つまり才能のないやつは用なしだ!という性格だったのだ。

 ○ 豊臣秀吉
    「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
    秀吉本来の人使いの上手さを表しているのでは・・・煽(おだ)てて調子よく頭
  を撫でて、人を動かして(動かされた?)ことを運ぶ。
  これで秀吉は農民出身ながら関白にまで登りつめたのだから・・・
   不可能でも可能にしてやる!という性格だったのかな?

 ○ 徳川家康
    「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
    相手の本性を見据え、堅実かつ気長に待つという性格を表している。
   家康は信長にも秀吉にも仕えて天下統一のタイミングを待ったように見える?(秀吉が死ぬまで)
   我慢強く機会をうかがって待っている性格だったと詠まれているのだ。

 マア、後世の人が詠んでいるが、見事ですネェ・・・・
 いつも感心する歌です。

織田信長の葬儀・・・棺に入っていたモノは?

 天正10年(1582)、信長の宿泊していた本能寺に攻め入り主君信長を誅した光秀。
 躍起となって信長の遺骸を探し出そうとしたのだがついに発見できなかった。
 山崎の戦いで光秀を打ち破った秀吉は、この時、天下を見ていたというのだが、その姿を天下に知らせるため信長の葬儀を大々的に執り行うことを決意する。
 それは天正10年10月15日のことで、京都の大徳寺で行っている。
 主宰者として行おうとするのだが、その当時の武将達は殆どが否定的だったという。
 特に棺に入れるべき信長の遺骸が無いことに相当な抵抗があったと推測できるのだ。
 そういう状況の中で、信長に近い武将達も殆ど出席していない。
 信長の子供「信雄」「信孝」は勿論重臣の「柴田勝家」等も出ていないのだが、下賤の身から台頭してきた秀吉に不快感を持っていたことも当然あった筈だ。

 そこで秀吉はどうしたかというと、京都中の公家や僧侶をかき集め葬儀を行い見事やり遂げることとなる。
 では柩の中には何を入れたかということだが、実は信長の遺体の代わりに、香木の「沈香(じんこう)」で二体の木造を造らせ一体を入れ一体を祀ったのだ。
 そして火葬にしたわけだが、その灰を遺骨に見立てて、大徳寺総見院に埋葬したのだ。

 これによって秀吉は、信長の仇を討った自分が後継者になるのだと主張したのだ。
 これを庶民はほぼ認める形となったということだ。
 
  
 
 

天正大判の使い道

 豊臣秀吉が造らせたという「天正大判」。
 一体どのくらいの価値があったのであろうか?
 皆さんは不思議に思ったことはないだろうか?
 この大判の重さは一枚165グラムだというのだ。
 そして金の純度が70~74%と高いのだ。
 この大判1枚で金10両分に相当したというから大金であることは間違いはなく、当時のコメ(京の都)相場でいうと約40石購入できたということだ。
 現代でコメ10キロを購入すると、10キロ4500円として180万円くらいになるだろう。
 こんな大金どうやって使ったのであろうか?
 大判一枚出して買い物しても並みの商店では「つり銭」に困るだろう。

 現在でも世界の国の中には高額紙幣を発行しているところもあるらしいが使い道に困るだろうナァと心配する。
 現に米国では、100ドル札はお断りの張り紙が掲出されている小都市の小売商店があるという。
 
 流通貨幣が主な目的でないとすると、では何の目的で発行されたのであろうか?

 戦(いくさ)等での戦功は大体が領地を与えることが多いのだが、秀吉は「恩賞」の一つとして与えたのだ。
 つまり恩賞や贈答用のために「天正大判」を造ったと言ってよいだろう。
 ただ、貨幣として流通したとの記録もあるが、それは武器を購入するなど高額な取引の時だけだという。
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                        天正大判

城攻めに要する費用は?

 戦国時代、城攻めをするにはどの位の費用がかかったのであろうか?
 単純に正攻法で正面から攻めるのであれば並の費用で済むのであろうが、これがトンネルを掘ったり水攻めということになると莫大な経費が掛かることは想像できるだろう。
 最近映画で「忍城・のぼうの城」という映画がヒットしたことがある。
 
 戦国末期、豊臣秀吉、石田三成勢の2万人の大軍に屈せず、たった500名の兵で抗戦、勝利した実在の武将・成田長親の姿を描く時代劇であった。
 ということで、この忍城の水攻めに要した費用について述べたい。

 歴史のの流れはというと、三成の忍城攻めは、天正18年(1590年)6月、秀吉の小田原攻めと平行して行われたのである。
 この時、秀吉は大軍を率いて小田原城を囲んでいたが、それと同時に、別働隊を用いて、北条方の関東諸城を攻略することとした。
 その一隊の大将に三成が任じられたのであるが、三成が率いるのは盟友・大谷吉継、長束正家の他、佐竹義宣、多賀谷重経、北条氏勝、真田昌幸ら東国の大大名ら総勢23,000余の大軍であったという。
 当時の三成の身分や他の別働隊の将の顔ぶれから見ると、これは大抜擢であったと言えるだろう。

 大軍を率いた三成は、まず館林城に向かいこれを降伏開城させる。
 次ぎに向かったのが忍城(埼玉県行田市)である。
 この忍城は、関東7城に数えられる程の名城といわれており、城の周囲は沼地・低湿地で囲まれ、大軍を持ってしても容易に近づくことすらできず、城攻めは難渋を極めたというのだ。
 諸説では、秀吉が難渋している三成に「水攻め」をするように助言したというのだが?さて真実はというと、どうだろうか?
 
 水攻めとなると、水を堰き止める堤防を築かないといけないわけで、三成は近隣の農民を中心に人集めをすることになる。
 現在のように大型土木機械を導入すればいいのだろうが、当時の事である。
 人様に頼るしかないわけだ。
 三成は、突貫工事で堤防つくりを開始し、全長約7里(28キロ)、堤防幅9メートル、高さ2~3メートルを僅か4、5日で築いたという。(一説には7日ともいわれる)
 この時、三成が農民たちに支払った賃金は、昼間働いた者にはコメ1升と永楽銭60文、夜間働いた者はコメ1升と永楽銭100文だったという。
 ただし、三成がどれだけの数の農民を集めたかは記録が残っていないから不明だというが、約28キロを数日で成し遂げているから相当数であったろうことは想像できる。

 それでは逆に、これだけの規模の堤防を現在の器機で1週間かけて作るとすると、如何ほどの経費が掛かるのだろうか?
 『歴史の謎研究会』の著によると、10トンクラスのブルドーザー約700台を使用することになるだろうという。
 となると、1週間のブルドーザー台だけでも1台約1000万円で合計70億円必要になるという。
 これに人件費、食事代等かかるわけでとてつもない経費になるだろうともいう。
 しかし、建設会社に云わせると、700台ものブルドーザーが一斉に動けば大混乱して、かえって工事は捗らないだろうとのこと。
 ということになると、三成の統率力の凄さが理解できるのではなかろうか?
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                      現代の模擬忍城

黒田官兵衛(如水)隠居の真実

 現在NHKの大河ドラマで「軍師官兵衛」が放映されている。
 ドラマそのものは陰気くさくて視聴する気も起らないのだが、そろそろ終焉に向かっているのかナァ・・・・
 如水は慶長9年(1604)、京都に滞在中に亡くなっている。
 その前の天正17年(1589)に如水は病気を理由に家督を嫡男「長政」に譲っている。

 隠居の本当の理由は別にあるのだが、病気だと偽ったのは、それこそ理由があったのである。
 これは、歴史ファンなれば誰でも知っている逸話だと思うのだが、今一度おさらいしてみましょうか。
 
 天正16年(1588年)、黒田官兵衛が京都の聚楽第に滞在しているとき、豊臣秀吉の御伽衆(相談役)をしている山名禅高(山名豊国)が尋ねて、山名禅高が羽柴秀吉と家臣の雑談を教えてくれたという。
 ある日、豊臣秀吉が家臣と雑談をしていたとき、豊臣秀吉が家臣に「儂が死ねば、誰が天下を取ると思うか?」と尋ねたのだという。
 家臣達は、それぞれが毛利や上杉などの有力大名を挙げると、豊臣秀吉は「黒田官兵衛の事を忘れておる。黒田官兵衛なら天下を取れる」と指摘したというのだ。
 しかし、家臣が「お言葉ですが、官兵衛殿は、わずか12万石の大名ですぞ。とても天下が取れるとは思いませんが・・・」と異論を唱えた。
 すると、豊臣秀吉は「お前たちは黒田官兵衛の知恵を知らんからじゃ。難題に当たっても、黒田官兵衛に相談すれば、直ぐに答えが出る。黒田官兵衛ならワシが生きている間でも天下を取れるだろう」と話したというのである。

 山名禅高(山名豊国)からこの話を聞いた黒田官兵衛は、隠居を決意し、豊臣秀吉に謁見し、黒田長政に家督を譲る許可を求めた。
 しかし、豊臣秀吉は黒田官兵衛の隠居を認めなかったのである。
 官兵衛は困り果て、結局「北の政所」に協力してもらうことにした。
 秀吉は正妻の「北の政所」には頭が上がらなかったので認めざるを得なかったというのだ。

 先を見ることに機敏な)官兵衛らしいのだが、それだけ秀吉はこの「官兵衛(如水)」を恐れていたのだろう。

 如水についはもう一つ面白い話がある。
 冒頭、京都の屋敷に滞在中に亡くなったとことを記したのだが、晩年は体力が相当弱っており病床に度々臥すことがあったという。
 ある時、如水が床に伏しているとき些細なことで癇癪を起したことがあるという。
 これも度々のことで家臣も困惑させていたのだが、それを知った長政が注意したという。
 すると如水が「家臣たちはこの儂が死んだらホットする筈だ。そうすると自然と長政に従うようになるはずじゃ。自分の死後、家中が儂を偲んでお前に不満を持たないように、わざと怒っているのじゃ」と言ったという。
 マア、どこまでが本当の事か判然としないが、後年「正岡子規」が『単なる病人の我儘を言い訳したものだ』と解釈しているという。
 
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                      黒田如水像

秀吉の女癖は秀逸

 今回は、秀吉の女癖の悪さについて記したいのだが、その前に個人的ななことを述べたいと思う。

 小生は日頃から秀吉ファンだと自認しているのだが、これまた何時も云っているように天下を取るまでのことである。
 もう少し厳密に云えば「羽柴秀吉」と名乗っていたころまでと云った方が良いだろう。
 しかし、最近戦国時代の史料や小説を読んでいる時、フト思うことがある。
 それは、当時の戦国時代、織田信長という武将が存在していなかったら、歴史はどのようになっていただろうか?という思いなのである。
 「たら」話はあまり良くないが、信長の存在なくば「秀吉」の存在も無かったことだけは確かだろうし、家康にしても今川義元の家臣に組み込まれて一生を終えていたもしれない。
 となると、関白秀吉もないし、徳川将軍の誕生もなかったであろう。
 そういう意味では「織田信長」という武将の存在は大きかったということだ。
 戦国時代、織田信長の気性の激しさから、「比叡山焼き討ち」や、情け容赦のない仕置きを悪くいう者がいるが、世の中が信長を必要としたのでは・・・と思うようになったのだ。
 気性の激しさと誰にも負けない決断力があったからこそ、天下統一寸前まで達したのだ。
 信長の存在なくしては、天下統一はズッーと遅くなっていただろうことは間違いあるまい。
 
 ということで、最近は秀吉より信長ファンになりつつあることを自覚するようになった。
 そこで秀吉の嫌な一つに「女癖の悪さ」がある。
 あくまでも小生個人の感想なので秀吉贔屓の方は容赦ください。
 そこで本題に入るのだが、男として女性が好きだという武将は限りなくいるのだが、秀吉ほど度を越した男はおるまい。

 正室の「ねね」以外に、側室が20人近くいたというから、どのような接し方をしたのか・・・却ってそちらの方が気になるくらいだ。
 秀吉の場合それだけではないのだ。
 これと思った女性には手当たり次第手を出していた節があるというのだ。
 信長の一武将に過ぎなかった秀吉なのだが、長浜城を与えられた時、既に「南殿」という愛人を囲っていた。
 そして、「ねね」の嫉妬があまりにも激しいので、「ねね」の目の届きにくい姫路城にも女性・・・つまり愛人を囲っていたのたというから女性に対する執念は凄まじいものだ。
 この頃、鳥取攻めで痛めつけていた「山名豊国」の娘を愛人(あかね)扱いし、岡山城の未亡人(おふく)も同様な存在だったといわれている。
 
 秀吉の女癖の悪さは留まることを知らない。
 信長の妹「お市」と浅井長政の間に生まれた「茶々(淀殿)は有名なのだが、信長の娘(三の丸殿)に至っては「はやはや」とため息をつくばかりだろう。
 日頃から信長の恩があっての自分だという割には、女性に関しては関係ないらしい。
 さらにだ、信長の弟「信包」の娘や信長の次男「信雄」の娘とくればモウ云うことはないだろう。

 とはいっても、秀吉に一方的に口説かれて素直に愛人になった女性ばかりはいない。
 信長の次女の「冬姫」は「蒲生氏郷」と結婚していたのだが、氏郷が死んで未亡人となると、秀吉は、その美貌に魂を奪われた。
 愛人にされそうになった冬姫は抵抗し、直前に尼になって逃げている。

 つぎが有名な「細川ガラシア夫人」だ。
 この話は有名なのだが、大阪城で秀吉と対面した時、秀吉が近づき体を触ろうとしたときに故意に懐剣を落とし、拒否の意思を示し難を逃れたという。

 ということで、主君だった信長の娘までも愛人にするくらいだから、同僚や家臣の娘にも相当手を出していたことは想像できるだろう。
 前田利家の娘、蒲生氏郷の妹も愛人にしている。
 氏郷の妹の場合、対面の時はまだ幼かったため人質同様に囲い、大きくなって愛人にするという執着ぶりだ。

 晩年は「淀殿」と従姉妹に当たる「松の丸殿」までも愛人にしている。

 この話は酷いと思うのだが、披露しておこう。
 「松の丸殿」は、若狭守護職の「武田元明」に嫁ぎ子供までもうけていた。
 しかし、元明は秀吉から自害の命を受け亡くなってしまう。
 秀吉は「松の丸殿」の美貌に目を奪われ愛人としてしまうのだ。

 もうここまでくると秀吉の女狂いに腹が立ってきたので終わりとしたいと思う。
 
 

  
 
 
 
 
 
 
 
 
 

豊臣秀吉は5度名前を変えた

 豊臣秀吉の幼名が「日吉丸」だということは良く知られているが、百姓の身が〇○丸という幼名を付ける筈は無いのだからこれは後年付けられたものだろう。
 天下統一を果たしたころの秀吉は、飛ぶ鳥落とすの例え通り何でも可能と思っていた節がある。
 秀吉自身、出自がもともと下賤の身であることを常日頃気にしていたようだ。
 そして、自らを「日輪の子」と言って格式を上げようとしているが所詮それまでのことで、これは当時の人々は殆ど信用はしていなかったようだ。

 天下統一を果たしたころから、自分の出自に箔を付けたいと思う心があったのだと思う。
 そこで前記したように「日輪の子」だと突拍子もないことを言いだしたのだ。

 その証として、秀吉が天下統一を果たしたとき、その祝いとして朝鮮の通信使が祝辞を述べに来たことがあったのだがその返書には「自分は下賤の生まれだが、母親は太陽が懐中に入るのを夢見た。そして自分を懐妊した」のだと記している。
 その後、朝鮮出兵へと勧むのだが失敗してしまい、それ以降「日輪の子」という言い方は辞めてしまったようだ。

 では記録に残っている秀吉の名前だが、何回改名しているかと言うと5回なのだ。
〇 木下藤吉郎秀吉
   天文6年(1537)に尾張中村で誕生した秀吉は、父親が「木下弥右衛門」ということ
 から「木下姓」を名乗っていたものと思われる。
   成長した秀吉は、最初今川氏の武将だった松下嘉兵衛に仕え「木下藤吉郎」と
 名乗っている。
   今川氏を見限った秀吉は織田信長に仕え、「木下藤吉郎秀吉」と名乗る。
   このあと出世し、近江の長浜城を与えられ、大名の端っこに加わることになる。
〇 羽柴秀吉
   長浜城を与えられた秀吉は、織田家の重臣「柴田勝家」や「丹羽長秀」に気を
 使って羽柴秀吉を名乗るようになる。
〇 平 秀吉
   これは、本能寺の変が起り、秀吉は「山崎の合戦」で明智光秀を討ち果たした。
   天下統一後の事を考えたのであろう、「将軍」または「関白」を頭に描き、改名し
  ている。勿論金の力でだ。
〇 藤原秀吉
   天正13年(1585)48歳で関白になったとき、「平」を「藤原」に改名しているのだが、
  これはあまり知られていないという。これも金の力。

 これらの改名については、云われているように公家の最高位である関白になるため、由緒ある姓を利用するのが目的だった。
 ただし、「平」は3年間。「藤原」は1年半。

〇 豊臣秀吉
   秀吉は太政大臣になると、後陽成天皇から「豊臣」姓を賜り、「豊臣秀吉」と
 名乗るようになった。 
   「豊臣」の姓を受けたのは、天正14年(1586)12月19日のことで、秀吉が49歳の
 時のことだった。  
 
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イザ!「戦」ということになると色々考えるものだ

 今回は武士がイザ出陣となると、どんな物を用意し又は考えていたかについてUPしたいと思う。
 階級によって準備する物はあるわけだが、一般的なものについて述べたいと思う。
 武士は、出陣となるといろんなことを想定して準備していたことは異論のないはずだ。
 武器は勿論、炊事道具や食器類、勿論携行できる食料も考えていたことだろう。
 身分のある武士は、弓、鉄砲、槍、指物、馬標を持つ雑兵も必要だ。
 そして、その者たちを食べらす食糧や道具も必要であったろう。

 戦に出陣となると、武士たるもの色々と便利グッズも考案することにも神経を使う。
 その用具の中に「内飼(うちがい)」というものがあった。
 これは、麻か木綿の布で作られた細長い袋(筒状と思えば良いだろう)で、生米・握り飯・薬等を入れておいた。
 どちらの口からでも取り出されるように両方とも口をあけておいて、己の腰に縛り付けて持ち歩いていたのだ。

 そして「面桶(めんつう)」と呼ばれている物もあった。
 これは、薄い木地を曲げて作った容器で、弁当箱・飯茶碗・コップ類と思えばよいのだが、これを持ち歩いており、色々な用途に使っていたという。
 戦場での知恵なのだが、昔も現在も、戦うとなるといろんなことを考えているものだ。
 


 
 

秀吉の中国大返しの凄さ

 戦国歴史の中で有名な話は幾つもあるのだが、小生の頭の中では「川中島の戦い」「桶狭間の戦い」それと「中国大返し」、「賤ケ岳の合戦」である。
 歴史ファンの方々もそれぞれの思いがあると思うのですか・・・・
 川中島の戦いは武田信玄対上杉謙信が5度に渡って戦ったものであり、桶狭間の戦いは織田信長が世間に名を知らしめた乾坤一擲の戦い・・・というより戦国歴史を変えた戦いであろう。
 「賤ケ岳の合戦」は秀吉と柴田勝家の天下取りの戦いだ。
 
 それとは別に「中国大返し」は直接の戦いではないのだが、秀吉が余人の想像もつかないことを起こした凄さだと思う。
 それは、秀吉が普通の足取りで備前から大阪に帰っていたのでは明智光秀は戦の準備を十分整え、秀吉に限らず己に敵対するであろう武将と相対していたであろうことが想像できるからだ。
 そうなると「山崎の合戦」があったかどうかも分からなかったであろう。
 
 しかるに秀吉はそうではなかったから、天下人への名乗りを一番手として押し上げることになったのだと思う。
普通の武将であればまず自軍のことを考え、協力や支援してくれる武将に打診したり、確約したりするためどうしても日数を要すると思う。
 でも秀吉は違ったのである。

 ということで本能寺の変後から話を進めていきたい。
  
 「本能寺の変」が起きた時の秀吉は、毛利家の武将・清水宗治の籠る備中高松城を包囲中であった。
 その毛利家へ使者を送っていたのが光秀なのだが、秀吉方に捕らわれる。
 密書には光秀が信長を本能寺で討ったことが記され、味方になるよう要請していたのだ。
 秀吉は、誰よりも早く信長が討たれるという天下の一大事を知ることになる。
 小説等では「黒田官兵衛の入れ知恵」としたと記されることが多いのだが、小生はそうは思わない。
 多少は取り入れたかもしれないが、ほとんどが秀吉の即決で、毛利方との和平工作をしたのだと思いたいのだ。
 おそらく秀吉は、光秀が謀反を犯した不忠者であるということを、世間に印象付けるためにも事を急いだのではないだろうか?
 
 毛利方の使僧・安国寺恵瓊を呼び寄せて講和を急がせているが、この間秘密裏にことを運んだことは当然だろう。
 そして4日には備中高松城主清水宗治の切腹と開城を条件に講和を成立させている。
 信長が死して2日後のことであるが、並みの武将ではこうはいかなかったことは十分予測できるのだ。
 6月6日の朝出発し、約12キロ離れた「沼城」に、夜間から翌7日早朝にかけて着している。
 この時の秀吉軍の兵は、12,000人と云われていることから分散して着したのだろうと思う。
 これは毛利方の追跡を予想しながらの撤退だったため時間を要したのでは?と思うのだが・・・・
 7日早朝から準備のできた部隊から逐次姫路に向けて走りに走っている。
 備前沼城から姫路まで約55キロだ。そして8日早朝に全部隊が姫路城に到着している。
 当時歩いての移動が主と言いながらも、普通であれば1日約30キロ、早い者で40キロぐらいだったろう。
 知っておきたいのは、戦場からの撤退ということは「鎧兜や武器」を所持していたことだ。
 武将達で約10kg、足軽で約5kgの重装備での移動だからその凄まじさは想像に難くない。

 姫路で1日の休養をとっているが、この間秀吉のことである、一方では要所要所の武将達に伝令を送って支援協力を要請していたと思う。

 9日早朝、姫路城を発ち、尼崎までの約80キロを駆け抜け11日朝到着するという猛スピードだ。
 この時点では、光秀も秀吉が恐るべき速度で大阪に帰っていることは把握していただろうが、何分他の武将たちへの根回しが出来ないまま迎撃することになった。

 秀吉は、尼崎に到着した時、池田恒興、中川直秀、高山右近(重友)、等畿内の武将達の賛同を得ており、摂津富田に向かった。
 12日朝には発しているが、この時好敵手だった丹羽長秀、織田信孝らも戦いに参加すべきことが決まっており合流している。
 
 結果は周知のとおりだが、光秀にとっての誤算は秀吉があまりにも早すぎた帰阪だったことだろう。
 
 
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武田信玄の兄弟姉妹

 前回は織田信長の兄弟について述べたが、今回は武田信玄の兄弟ということで進めたい。
 戦国武将の中での武田信玄は、今風に云えば「超有名」だと云っても過言ではあるまい。
 川中島での上杉謙信との5度の戦いはいつの世になっても語られる戦でもある。
 信玄は、父信虎と大井夫人との間に生まれているのだが、他に7人の弟、2人の姉、6人の妹がいる。
 全て父信虎と大井夫人との間の兄弟姉妹ではないのだが、明確な記録が無い。
 史料に出てくる名前だけが先の兄弟姉妹で他に相当数の兄弟姉妹がいたと思うのだが、今となっては調査は不可能だ。
 そこで、今回は史料に残っている兄弟について述べたいと思う。

 ○ 武田信繁
    大永5年(1525)生まれで信虎の4男である。
    母は信玄と同じく大井夫人。仮名次郎、官途名左馬助。天文20年(1551)
 武田氏庶流の吉田氏名跡を継承(高白斎記)。永禄元年(1558)4月には嫡子
 長老(信豊)に主家への奉公の心得などを説いた「異見九十九箇条」を与えてい
 る。
  これは武田氏の家訓として分国法「甲州法度之次第」を補足するものとしての
 性格を持った。
  信玄の信頼が厚く、信玄に代わってしばしば全軍の総大将を務め、「副将」と俗称
 されるほどであったが、永禄4年9月10日の川中島の合戦において37歳で
 戦死している。        .

 ○ 武田信廉
    天文元年(1532)生まれ。信虎の6男。母は大井夫人といわれるが、生年か
  らみて疑問であるという。
    仮名孫六、官途名刑部少輔。信玄の死後に出家して逍遥軒信綱と称した。
    永禄4年(1561)の兄信繁戦死後から、信玄に最も近い弟として重要な位置を
  占めていったとみられる。
    元亀元年(1570)に内藤昌秀に代わって信濃深志城代、同2年には勝頼に
  代わって信濃高遠城主を務めた。
    天正9年(1581)には、信濃南部の防衛態勢強化として、高遠城主には娘婿
  の仁科盛信(信玄五男)が代わり、信廉はその北方の大島城に在城した。
  翌10年2月の織田氏の進攻にあたってはほとんど抵抗をみせず甲斐国に後退、
  3月7日に鮎川原において織田信忠に殺害された。51歳であった。
  信廉は絵画に巧みであり、父信虎蔵、同室瑞雲院殿画像などの作品を残して
  いる。   .

 ○ 武田(松尾)信是
   信虎の5男。一族の松尾氏を継承して民部少輔を称したが元亀2年(1571)
  には死去している。.

 ○ 武田信智
   出家して恵林寺に入っており詳細は不明。            .

 ○ 武田(川窪)信実
   信虎の10男。官途名兵庫助を称す。阿窪郷などを所領とした。元亀2年(15
  71)の兄信是の死後、嫡子信俊がその遺跡を継承すると、信是の遺領もあわせ
  て管轄した。
    天正3年(1675)5月21日の三河長篠の合戦では鳶ノ巣砦を守備したが、
  徳川軍の攻撃によって戦死している。.

 ○ 武田(一条)信竜
   信虎の9男。甲斐源氏の名族一条氏の名跡を継承。官途名右衛大夫、天正
  八年(1580)頃より受領名上野介を称している。
    市川郷の上野城を本拠とした。信玄の宿老山県昌景や馬場信春に次ぐ武人
  の人として評され、信玄の駿河進攻後は、駿河駿府城代・田中城代などを務めた。
    また元亀期には大和松永氏や摂津石山本願寺との外交を担当している。
    のちに田中城代を嫡子信就と交代し、信竜は武田信堯(信玄甥)とともに駿府
  城代を務めたという。
    しかし、天正10年2月に徳川氏の侵攻をうけて、3月2日に甲斐に後退、
  10日に上野城で徳川氏と戦って戦死した。   .

 ○ 武田信友 
   信虎の子。受領名上野介。母は内藤氏。信虎の駿河隠遁後、そのもとにおり、
  官途名左京亮を称したとみられている。
    永禄11年(1568)12月に信玄が駿河に侵攻してくると今川氏から離反し
  てこれに従っている。
   元亀元年(1570)より受領名上野介を称す。
  しかし、天正3年(1575)の三河長篠の合戦を契機に隠遁し、同10年の武田氏
  滅亡の時、3月7日に甲府で織田信忠に殺害されている。.
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                        武田晴信(信玄)像

信長の兄弟・織田長益(有楽斎)

 前回からの続きで、今回は信長の弟「織田長益」について述べたい。
 初めに言っておくが、戦国時代、この男ほど要領良く立ち回った男も珍しいのでは?と思う
 通称は源五郎といっていたのだが、信長が「本能寺」で死んだとき36歳であったのだ。
 そして、信長の嫡男「信忠」とともに宿舎の「妙覚寺」にいた。
 明智光秀の謀反を知って「二条城」に移り、ここで明智軍の猛攻撃を受けている。
 しばし戦うのだが衆寡敵せずの例え通り形勢不利となり、信忠は潔く腹を切って果てるのだ。
 信長の末弟「長利」もこの二条城にいたのだが、前回に述べたとおり、激闘の末討死している。

 この時の長益の行動である。
 信忠が自刃したとき、長益は自身の家来にこう命じている。
 「柴を高く積み上げて火を点けよ。儂もその中で自害する」と云ったというのだ。
 家来衆は本当だと信じ、柴を積み上げていたところ、その隙を見て長益は、二条城を脱出して安土に逃げ帰ってしまったのだ。
 その後、頭を剃って法体となり「有楽斎(うらくさい)」と号して豊臣秀吉の御伽衆に列している。
 マア、あっさり武士を捨てて「楽有り「の人生を選んでいるということだ。(あくまで、表面上のこと?)
 つまり「号・有楽斎」はここからきているといわれている。
 
 京の童(わらべ)たちは、こんな有楽斎を見て陰で次のような歌を唄って嘲笑っている。
    織田の源五は人ではないよ
    お腹召せ召せ 召させておいて
    われは安土へ逃げる源五
    むつき二日に大水出でて おだ(織田)の原なる名を流す
 と・・・・
 なお、この唄を聞く限り、信忠に自決を勧めたのは長益と云うことになるのだが・・・・(事実は信忠自身の判断説が強い)
 しかし、京童の唄になど意に介することはなく、長益は茶道に精を出して、利休に取り入り、利休の門弟七哲のうちに数えられているというのだ。
 秀吉死後、関ヶ原の戦いが起きるのだが、有楽斎は大阪城を捨てて家康の東軍に属す。
 有楽斎は、今後の天下は徳川家康を中心に回ると読んだのだ。
 家康は信長の弟が味方したことに意を強くしたとも伝わるのだが、その証が山和三万石を与えていることから分かる。
 
 有楽斎は江戸城日比谷門外の屋敷(現在の有楽町)で風雅な送っている。
 でもネェ・・・その後大阪城に入って豊臣軍の謀主となって「大阪冬の陣」の和睦を成功させていることから、家康の意を汲んでの大阪城潜入だと思われるのだが・・・・どうだろうか?
 世間では「内股膏薬」と罵られている。本当に世渡りが上手かったのであろう。
 現代人も、ここまで恥と外聞を厭わなくなれば出世すること間違いないのだが・・・・結構いるって?・・・・
 
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                      織田長益(有楽斎)像    

 

 

織田信長の兄弟の軌跡

 天正10年(1582)、京都・本能寺に宿泊中の信長が明智光秀に襲撃され自決した時の年齢は49歳であった。
 現在からすれば若死なのだが、戦国時代としては年相応といってもいいのだろう。
 確かに秀吉や家康と比較すれば若くして亡くなっているのは紛れもない事実である。
 信長には12人の兄弟がいるのだが、長生きしているのはたった2人しかいないのだ。
 そこで今回は信長の兄弟について記してみたい。

 織田信広、織田信行、織田信包、織田信治、織田信時、織田信興、織田秀孝、織田秀成、織田信照、織田長益、織田長利
そして、信長を加えての12人だ。
 まだいたらしいのだが幼くして亡くなった者もいるらしいのではっきりとはしていない。
 そして、女子は10人程いたようなのだが詳細は今回省くことにした。
 次にこれらの兄弟がどのような生き様をしたのか簡記していきたい。

 ○ 織田信広
    織田信長の庶兄である。信長の兄に当たるのだがが庶兄に当たるため、家督の
  相続権はなかったといわれているらしい。信秀の死後は信長が後を継ぐこととなっ
  たので、信広は一時期、信長と対立したが、結局は信長の家臣となっている。
 ○ 織田信行
    織田信長の同母弟で末森城主。
    信長と跡目のことで確執があり、結局信長自身が清洲城に招いて殺害している。
 ○ 織田信包
    織田信秀の子で、織田信長の弟である。兄・信長の命で北伊勢を支配していた
  長野氏の養子として入っている。その後は兄に従って各地を転戦した。
   清廉な人物で、信長からの信任は厚く、織田一族衆として厚遇されたうえ、織田
  信忠の補佐を任されたという。本能寺の変の後髪を剃って「老犬斎」と称し、京都に
  閉居している。秀吉の勘気を蒙って蟄居するも、秀吉死後その遺命で秀頼の補佐役
  となって「大坂の陣」で西軍に属したものの合戦前72歳で亡くなっている。
   格別働いたという形跡はないものの、鳴かず飛ばずの生涯。
 ○ 織田信治
    織田信秀の五男で、織田信長の弟である。兄・信長に従って、野夫城(現在の
  一宮市)を与えられていた。1570年、森可成と共に浅井長政・朝倉義景の連合軍
  と近江国坂本城で戦ったが、衆寡敵せず可成と共に戦死した。
 ○ 織田信時~詳細不明
 〇 織田信興
    織田信秀の七男で、織田信長の弟である。兄・信長に早くから従い、尾張国
  小江木城(現在の海部郡弥富町)を与えられた。信長が足利義昭や石山本願寺
  など、信長包囲網に囲まれると、信興の小江木城も一向一揆衆によって囲まれ城は
  落城し、信興は天守で自害している。
 ○ 織田秀孝~詳細不明
 ○ 織田秀成~詳細不明
 ○ 織田信照~詳細不明
 〇 織田長益
    織田信長の実弟で、安土桃山時代から江戸時代初期の大名、茶人。
   末子で、幼名は源五(あるいは源五郎)。有楽斎如庵(うらくさいじょあん)と号し、
  後世では織田有楽、織田有楽斎と呼ばれることが多い。
   最も長生きした人物で、本能寺の変(1582)の時はまだ36歳だったという。
   元和7年(1621)に亡くなっているから75歳の生涯。
   長益には面白い逸話があるのだが、それは次回で述べたい。
 ○ 織田長利
    織田信秀の十二男で、織田信長の弟。津田姓を称していたため、津田長利と呼ば
  れることもある。1582年、明智光秀が本能寺の変を起こして兄・信長を殺したとき、
    長利は信忠と共に二条城で明智軍に攻められ、戦死している。

 以上だが、前記したように長命は信包と長益の2人で他の者は早くして逝っている。詳細不明とある者は、記録に残っていないことからも不慮の死であろうと思われる。




参勤交代に費消した金数はどのくらい?

 江戸時代の参勤交代の目的は、各藩の財政が潤って謀反を起こさないように浪費させることなのだが、藩にとってはこれほど無駄な浪費もないと考えたとしても仕方あるまい。
 しかし、幕府という巨大な命令者では逆らう事も出来ず、従う事しかできなかった。
 なにしろ、いかに小さな藩でも格式通りやるとなると、共揃いは100人は必要だったからさぞ大変であったろうと推測できる。
 大藩ともなれば1000人を超す人数を仕立てなければならないのだから金がいくらあっても足りない筈だろう。
 
 そこで江戸から最遠の薩摩藩ともなればどのくらいの経費がかがったのだろうか心配になる。
 江戸まで約20泊の長旅を1000人以上の行列を仕立てて行進することになるから気の遠くなる経費だったろう。
 調べたところ、現在の金に換算すると約2億円だったというから大変だったであろうことは間違いない。
 この費用が2年に一度かかるわけだから薩摩藩にとってどれだけの負担だったかは想像はできるのだ。

 薩摩藩も出費を抑える為に、旅の速度を上げて泊数を減らしたり、食事代も値切りに値切ったりしていた。
 そのため、東海道筋の各宿屋では薩摩藩の評判は非常に悪かったらしい。
 
 蛇足だが、幕末に薩摩藩が幕府に対して猛烈な敵愾心を抱いた一因?とも云われている位だ。
                  参勤交代図・園部藩の行列図
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戦国時代に伝来した火縄銃の射程距離は?

 火縄銃は、天文12年(1543)に種子島に漂着したポルトガル船によって伝わっている。
 その30年後には織田信長の鉄砲隊が戦場で活躍しているから、伝播の勢いは凄まじいものであったことが分かる。
 ということは日本の歴史上の出来事が塗り替わることになるのだ。
 それまでの戦いというものは、武士同士の一騎打ちが主流だから、遠方から放たれた小さな鉄砲玉がいかに威力があったかということだ。
 しかし、現代から考えればまだ幼稚さはあったのだが、それでも当時の火縄銃は推定約700m飛んだというからかなりのものだろう。
 ただし、有効な射程距離は約100mであったが、有効距離を過ぎると弾はどちらの方向に進むか分からなかったと云われている。
 しかし、それでも弓矢や槍、刀の時代からすれば相当の威力だろう。

 だから、それまでの一騎打ちの戦いをやっていたのでは、通用しないことは理の当然だろう。
 当時最強と云われていた武田軍の騎馬軍団でも、敵陣に切り込もうとしても遥か手前から弾が飛んでくるのだから手の施しようが無かったというのが本当だろう。
 弾の速度は弓矢の速度より数段早く、威力も数倍だから始末に負えないよねぇ。

 そうなれば、鉄砲を如何に活用するかという戦法に替わってくるのも必然だ。
 ということは、鉄砲を持った足軽が主体となる集団戦ということだ。
 そして、鉄砲の登場以前の城というものは山城がが主で、この山城に籠城されると、武器が弓とか槍、刀では陥落させるのが不可能と云う事だ。
 それが因で各地に群雄割拠という、まさにどうにもならない世の中になっていたのだ。
 
 それが、鉄砲の流行だ。
 遠方といっても「たかが約100m、されど100m」だ。その威力は絶大なものがあり、山城でも落とすのは容易となってしまった。
 この鉄砲を一早く上手く使いこなしたのが信長で、天下統一の速度が一段とあがっとともいえるのだ。
 
 その後、鉄砲の技術は年々進歩し続け、当初は弾や火薬を込めるのに、かなりの時間がかかっていたのだが、鉛の弾と黒色火薬を一緒に包みこむ紙まで開発された。
 つまり、現在の薬莢に類似したものが開発され、操作するのが簡単になっていくのだ。
 人間、戦うこととなると進歩も早くなることの証でもあるのだろうか?
 
 
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                        種子島銃

 

 

 
 

 
  

「太閤記」などの史記物は江戸時代に入ってから

 現在でも豊臣秀吉の人気は強い。
 徳川家は秀吉に関するモノは否定したかったらしいのだが、どっこい庶民の中では密かな人気を博していたらしい。
 徳川方にとっては、敵である豊臣家に人気の出るのが気に食わないため、この種の本は幾度も発禁にしているのだが、庶民にとっては関係ないとばかり密かに出回っていたらしい。
 
 秀吉自身は、大村由己に命じて『天正記』を著させ、これが最も古い秀吉の一代記であると考えられている。
 そして、秀吉の死後太田牛一の『大かうさまくんきのうち(太閤軍記)』、川角三郎右衛門の『川角太閤記』などが著されている。
 その中でもブームの先兵役となったのが、川角三郎右衛門が元和9年(1623)までに完成させた『川角太閤記』であった。
 次いで、秀吉の軍師として名の高い「竹中半兵衛」の子孫「竹中重門」による『豊鏡』で、この両著は大評判になったという。
 さらに、方広寺の鐘銘にケチをつけ、豊臣家滅亡の引き金になった儒学者「林羅山」の『豊臣秀吉譜』もヒットしている。
 
 そういった中での『太閤記』もののうち最も有名なものは儒学者・小瀬甫庵による『太閤記』であり、江戸時代には、幾度か発禁にされたが、寛永3年 (1626) から版を重ねて、全20巻もあるのだ。
 
 これだけ『太閤記』が評判になったのは、身分の低い家に生まれた秀吉が、天下を取ったことに庶民が憧れ夢を託したことにあるのだろう。
 これは現代にも通じることで、総理大臣になった「田中角栄」が「今太閤」ともてはやされたことと重なるのでは・・・と思う。
 田中角栄も高等小学校卒業で社会に飛び出し大出世した男だからである。

 当時の庶民としては、幕府に不満があるわけで、秀吉の出世物語を読むことで気を紛らしたかったのであろう。
 ということで、江戸の初期、太閤記ブームとなった本は、いずれも秀吉と関係の深い人々が描いた物語で、比較的史実に基づいたところが受けたのでは?と思われる。
 そして、その後に出版された「太閤」ものは色んな創作が加筆され、面白おかしく描かれている。
 つまり、史書というより娯楽雑誌的なものだといわれる。
 その決定版と云われるのが『絵本太閤記』だろう。
 この著で、秀吉と蜂須賀小六が出会う「矢作川橋上の有名な場面だ。
 秀吉の時代、矢作川には橋は架かっていなかったことは証明されている。
 まさに物語を面白くしたくて作者が作り上げた創作場面だ。
 
 

秀吉の「刀狩」の方法は一種のペテン

 豊臣秀吉が天下統一を果たしたのは天正14年(1886)12月に、朝廷から「太政大臣」をを任ぜられ、「豊臣姓」を賜ったときということらしいのだが、小生は、翌年の天正15年(1587)島津義久が降伏した時だと思う?
 でも、これで世の中が安定したとは秀吉も思っていなかったであろう。
 その証が「刀狩」であろう。
 この時代の百姓と云うものは、並みの百姓ではないのだ。
 普段は百姓仕事をしているが、イザ戦となると戦場に駆り出されて戦う・・・いわば準プロ戦士というわけで気性も激しかったものと推測できる。
 石山本願寺に立て籠もって信長を手こずらせたり、各地で一揆を起こして領主を追い出したりしている時代の百姓だから、
いつ反乱が起きてもおかしくないのだ。
 秀吉もそれを考えたであろう策が「刀狩」なのだ。
 しかし、秀吉の「刀狩」命令に百姓たちは何故、刀・弓・鉄砲・槍等の武器を容易に差し出したのであろうか?

 ここが秀吉の油断ならないところだ。
 それは百姓達に対して「大仏建立の釘に使う」と宣伝したのだ。
 当時の民は信仰心に篤く、大仏建立という大嘘にまんまと引っかかったのである。
 秀吉の思いとしてもう一つ理由があるらしいのだが、それは奈良・東大寺の大仏様を見てその大きさにぶったまげたという。
 そしてここが他人と違うのだが、秀吉は、それじゃあこの大仏よりは大きな大仏を造ろうと考えたというのだが・・・マァどちらも当たっているのだろう。

 しかし、時期としては、朝鮮出兵中のため先立つ金が無かったのである。
 そこで考え出したのが、百姓たちを騙して金物類を集めてやろうということだ。
 秀吉は、木造の大仏様を造るということにして、百姓が差し出す刀、槍、弓等を大仏建立の釘に使うと宣伝したのである。
 そして、百姓たちがそういう功徳を積めば、来世における幸せが約束できるとも宣伝したのである。
 これにコロッと騙されたのが、真宗系の門徒たちなのであった。

 当時の百姓は仏教に深く帰依していたこともあって、一発で騙されたということになるのだ。
 でも、これ、真っ赤な大嘘で、刀は鋼鉄だから粘りがないので、強く打ちつけると直ぐ折れてしまう。
 これなんぞ、釘にできないことぐらい最初から分かっていることなのだ。
 秀吉は、集めた刀で良いモノは家臣達に与え、使えないモノは廃棄処分にしてしまったのだ。
 ただし、言っておくが、秀吉は実際に大仏を造って百姓たちを信用させている。
 もう一言付け加えると、大仏様は其の後の地震で跡形もなく崩れ去っている。
 
 
 
 


 
 

幻の「安土城」

 天正4年(1576)1月、織田信長が滋賀県の琵琶湖の畔に新城を築き始めた。
 云われるところの「安土城」だ。
 信長が自分の力を天下に誇示するために、精魂を傾けて建てた名城なのだが・・・勿論現代人はその姿を見たことはないわけで、模型等でその姿を知ることしかできない。
 この城は、城主信長と同じく短命で終わっている。
 安土城は創建されて僅か3年で炎上し、この世から姿を消しているが遺構は残っており、密かな「安土城」ブームになっているともいう。
 この炎上焼失なのだが、皮肉にも織田軍の手によって火を点けられたのである。
 
 着工以来3年目に「二の丸」と「三の丸」完成し、信長はこの時点で移り住んでいる。
 そして、その2年後に本丸が完成したのである。
 ところが、ご存じの「本能寺の変」が勃発する。
 信長は、其の時「本能寺」に宿泊していたが、明智光秀の謀反と知り「是非もなし」とのセリフ?を残して自害する。
 「安土城」は光秀が占領することになるが、数日後羽柴秀吉が、俗に云われている「中国大返し」と云われる予期せぬ反転で大阪に引き返した。
 光秀はこれを迎え撃つため、娘婿の明智秀満に安土城を預け、京都に戻ることになる。
 
 そして、9日後「山崎の合戦」で光秀は秀吉に敗れることになるが、その敗北を知らされた秀満は急いで「安土城」を退去する。
 だが前後して織田信雄が安土に入り、明智軍の残党狩りを始めるのだが、城下に火を放ってしまうのだ。
 こういうところは、信雄の度量の無さが残念だよネェ。
 この火の勢いで、城下町は勿論の事、110メートルの高さの頂きにあった「安土城」まで焼け落ちることととになってしまった。
 現在は、その遺構だけが残っているが、記録によると、焼失前の「安土城」は外国人宣教師も驚く絢爛豪華な城だったという。
 この安土城の姿は、18世紀のパリで出版された「日本紹介本」の挿絵に美しい姿が描かれているという。
 勿体ないよネェ・・・・余計に信雄に腹が立ちますネェ。
 もっとも華麗だったのは、七重の天守閣であったといい、外壁は、最上階が金箔で覆われ、六重は朱と金等で施されていたという。
 これは現代のプラモデル制作の参考とする上での「基」となっている。(写真参照)
 
 さらに、後に図面が発見されているが、それによると、天守閣の底面は不等辺八角形で、左右が非対称となっている。
 そして、内部は一番下に多宝塔が置かれ、その一重から三重にかけて吹き抜けになっている。
 四重に廊下が架かるという前衛的と言って良い構造だったというから、信長の頭の中は、やはり常人では考えもつかない何かが潜んでいたのであろう。
 説によると、信長がキリスト教に理解を示したこともあって、吹き抜け等の空間を設けたのでは・・・とも云われている。
 それにしても、織田信雄にもう少し幅広い視野があればと思うのだが・・・・重ね重ね残念ではありますナァ・・・・
 
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                          模型の安土城 
 
 
 

 

 
 

江戸時代の参勤交代、大名行列がすれ違ったら?

 今回は戦国時代を離れて江戸時代のことを述べたい。
 現在、「超高速!参勤交代」という映画が公開されている。
 この映画は、宣伝文によると「優秀な映画向けの脚本に与えられる城戸賞に輝き、小説化されるやベストセラーとなった土橋章宏の同名作を映画化したコミカルな時代ドラマ。幕府から無理難題を押しつけられた小藩の藩主が藩と領民を守るため、知恵を絞って、逆境に立ち向かっていくさまが描かれる。藩主を佐々木蔵之介が務めるほか、個性派俳優が多数顔を揃えている。」と謳っている。

 内容は省略するが、小生が思ったのは、途中で大名同士の行列がすれ違う時は大変だナァとの思いだ。
 そして、当時の大名行列のすれ違いについて調べてみたので簡単に述べることにしたのだ。

 我々が知っている参勤交代は、江戸と国元を2年に一回行き来することで、石高によって大名行列の編成が替わり、経費も大変だったろうという感覚しかない。
 そして、これは大名達にとっては一大行事だから、大変な負担だったことも理解できる。
 しかし、今回はそこのところは省いて、大名行列が道ですれ違った時の事を述べたい。

 江戸時代、大名の数は約270家あったのだが、石高というものがあるわけだから数百人から数千人規模の大名達が江戸と国元を往来を行き来することになる。
 しかも、参勤交代の時期が4月から6月に集中するのだから、大きな街道は行列で大渋滞ということになる。
 当然何処かで擦れ違うこともあるわけで、その時の「しきたり(作法)」は?ということになる。
 
 その「しきたり」とは、まず格下の大名が自分たちの行列を止めて、格上の大名を通らせるのだ。
 そして殿様の籠同士が同位置に来た時、格上の行列も止まって籠を下すのだ。
 さらに籠の戸を開いて挨拶を交わすというわけだが、ここでも「しきたり」がある。
 その方法だが、格下の大名は片足だけ籠から出すのだが、格上の大名は籠の中から軽く会釈を返すだけなのだ。
 その後は何事もなかったかのように擦れ違うのである。
 
 ちなみに、籠から片足だけだすという挨拶の仕方は、平安時代、馬で擦れ違った者どうしが、片足の鐙(あぶみ)を外して礼を交わした習慣からきているという。
 でもネェ、実際に街道で擦れ違うということは大変な事だったので、宿場宿場で事前にお互いの出発時間等を調整して、なるべく街道では擦れ違う事のないように配慮していたらしい。
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                   「超高速!参勤交代」の宣伝写真から
 
 

 
 
 
 
 

徳川家康の女性選びは実用型

 今まで、信長と秀吉の好みの女性について述べてきたが、次は徳川家康の場合について述べたい。
 前回の秀吉と比べると家康は、下級武士や町人の娘が多いことに気付く。
 つまり身分の低い女性たちをズラリと並べているのだ。
 伝えるところの側室15人の内、3人が元使用人なのだ。
 早く言えば自分の身近にいる女性をちょいとつまんだというのが正解かもしれない。
 そして、5人が後家なのだ。
 美人は少なく、俗に言う女中顔が多かったという。
 女中顔というのはどんな顔かというとはっきりしないのだが、美人ではないことは確かなようだ。
 これは、家康が健康で丈夫な子供を産んでくれる・・・と、思われる女性たちに手を出したのだという説が圧倒的に多いらしいから、まず間違いはないのだろう。

 特に子持ちの未亡人は「元気な子供を産んでくれる」とばかりに手を出しているとも伝わっている。
 もう一つは家康独特の考え方があるというのだ。
 それは、身分の低い女性の方が金が掛からず、男に良く仕えてくれるとの思いがあったのだともいう。
 高貴な者や外見(美人か否か)には一切こだわらず、家康が判断する良品(女性には失礼と思うが・・・)を選んだという事か?
 
 以上が家康の若かりしころの女性観なのだが、50歳を過ぎるころから女性観がガラッと変わっているのだ。
 つまり、ピチピチの十代の女性を侍(はべ)らせるようになるのだ。
 史料に出てくる5人の側室は全て12歳から17歳の若さなのだ。
 政権が安定し、ようやく若い女性を侍らせる余裕が出たともいえるのだが、男として若い女性相手は願望だったのかもしれない?
 しかし、家康ほど正室に恵まれていない武将も珍しいのだ。
 最初の正室は「築山殿」だが、この女性は今川義元の姪で、陰謀を企てたとして信長に追い詰められ、殺害している。
 その次が「旭日姫」で、秀吉の妹なのだが(義理の妹ともいわれている)、秀吉が徳川家康を懐柔するために強制的に夫と離縁させられ、家康の継室として嫁がされた。
 その後、天正16年(1588年)に母大政所の病気の見舞いを理由に上洛し、京都の聚楽第に住んで、そのまま別居状態が続きそこで亡くなっている。
 家康も元々乗り気があった結婚ではないわけで、名ばかりの夫婦ということだ。
 旭日姫は「駿河御前」とも呼ばれていたという。
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                      徳川家康像