戦国武将の名言~上杉謙信・Part2

 ○ あゝ、名大将を殺したり
   前回も述べたのだが、謙信は信玄とは好敵手の間柄である。
   そして謙信は義理人情にも厚い武将だったことも良く知られている。
   そのようなことで謙信は一度請け負った事柄については、トコトン義理
  を全うすることを心掛けていたらしい。
   その好敵手同士が、川中島で5度も戦っていることも良く知られている。
   その中でも4回目の戦いが一番の激戦であった。
   ここで、「名言」を少し離れて、この4回目の戦いに触れてみたい。
   この戦いは、永禄4年(1561)に行われ、八幡原の戦いとも言われている。
   謙信は約13000人、信玄は約20000人である。
   謙信は妻女山に、信玄は8000人を率いて妻女山の西北にある茶臼山に陣
  を敷いた。
   信玄の残りの兵12000人は高坂弾正に指揮を執らせ謙信の陣取る妻女山の
  東側にある「海津城」に配した。
   信玄は軍師山本勘助の助言により、「啄木鳥戦法」をとることにし、12000人の兵
  に妻女山に陣を張る謙信を攻めさせた。
   この戦法は、謙信が戦い疲れて妻女山を下りて来た時に、信玄の本隊が叩く
  という思惑であったのだ。
   ところがである。謙信は武田軍の動きに不審を抱き、何か企んでいると察した
  のである。
   そして、謙信は別働隊が攻め寄せてくる前、夜陰に紛れて妻女山を降りて
  川中島において、油断している武田軍本隊を迎え撃ったのだ。
   この戦法、途中まで上手く言ったのだが、その後武田軍の別働隊が加わった
  ため引き分けに終わったことになっている。
   余談だが、この時武田軍の軍師「山本勘助」が戦死しているのはご存じのと
  おりである。
   こういった好敵手同士であったのだが、天正元年(1573)4月武田信玄が死んだ
  のだ。
   この時、謙信は自分の城で飯を食っていたという。
   家臣から信玄が死んだことを知らされた謙信は、持っていた箸を投げ捨て、食
  べていたモノを吐き出したというのだ。
   そして口にした言葉が「さてもさても残念だ。名大将を殺したり」と言って、涙を
  ハラハラと落とし、家臣に「三日間、歌舞音曲を禁ずる」と命令したという。
   この時の言葉が冒頭の言葉だ。
   その後の謙信は、魂が抜け落ちたように生きる張りを失ったといわれているのだ。
   
 ○ 手にする道具は得意とする業物でよい
   飛び道具を使っても、相手が死ねば死だ。鉄砲で撃っても、小太刀で斬っても、
  敵を討ったことには変わりはない。

 ○ 心に欲がないときは、人間は豊かに生きられる
   Part1でも述べたように、謙信は毘沙門を尊敬し崇拝していた。
   と、同時に読書についても様々な本を読んで知識を得ていたという。
   だから「人の道」というものには非常に厳しかったとも伝わっている。
   その中でも、謙信が特に重んじたのが「義理」だというのだ。
   しかし、この「義理」も「心に欲があり、驕(おご)り、邪(よこしま)な心、むさぼる心、
  諂(へつら)う心、怒り、曇った心、卑怯な心、卑しい心、不幸な心、慢心などの気持
  ちがあったときは、決して発揮できない。義理を立てるためには、まず自分の心から
  こういった諸々の嫌な心をさらせることが肝要だ」と云うのだ。
  
   マア、ここまで来るとこの大将の下では気分的に参ってしまうことは間違いあるまいが・・・・   
   

上杉謙信の名言・格言

 前回まで武田信玄の名言についてUPしてきたが、今回からその信玄の好敵手「上杉謙信」の名言をUPしていきたい。
 信玄と比較される謙信。
 信玄は、軍略、戦術を決める時、諸将の意見を聞くことが多かったという。
 対して謙信は、潔癖症で無欲であるが、物事を決める時は独断でやることが多かったという。
 好対照の二人なのだが、歴史ファンにはこれが面白いのである。
 そして謙信は、物事を決める時春日山城に造っていた「毘沙門童」こ籠って祈り、採決を下していたとも云う。
 そういう謙信だから、戦となると主だった武将達にも「毘沙門」に誓いをたてさせたというのだ。
 謙信の晩年だと思うのだが、有名な言葉がある。
 ○ 俺が毘沙門だ 
   ある時、急遽戦をしなければならなくなったとき、諸将が「お堂に入って毘沙門に
  戦勝祈願しましょう」と言った。
   言われた謙信は、首を振って「毘沙門はお前たちの前に居る」と答えたというのだ。
   諸将達が「エッ?」と不審な顔を向けると、謙信は「俺が毘沙門だ。奥の童まで行って
  いたのでは時間がかかる。それでは戦に間に合わないから俺に誓えば良い」という
  のだ。
   諸将は顔を見合わせ「殿はどうかしたのではないのか?」と思ったという。
   酒好きの謙信なので、この頃、神経が酒で犯されていたのではないかという専門家
  もいるくらいだ。
   それとは別に、謙信は心底、自分は毘沙門だと思っていたのかもしれない。
 ○ わしは国を取ることは考えず、後の勝利も考えず、
    目前に迫っている一戦を大事にするのみである

    北信濃の「村上義清」が信玄に破れ、謙信公を頼って越後にやってきた時に、
  村上義清に信玄の兵の用い方を聞いての返答である。
   謙信曰く、「 信玄の兵法に、のちの勝ちを大切にするのは、国を多くとりたいという
  気持ちからである。自分は国を取る考えはなく、のちの勝ちも考えない」というのだ。
   つまり、目の前に迫っている戦いに全力を尽くし、さしあたっての一戦に勝つことを
  心掛けているというのだ。
 ○ 酒のつまみは梅干しに限る
    先ほども述べたのだが、謙信は無類の酒好きだったという。
    謙信は女性を近づけることはなかったというから、酒だけが唯一の友だったと
  言っても良いくらいだ。
    そして、謙信は酒を飲むとき「つまみ」は殆ど口に入れなかったという。
    梅干しか、味噌をつまみにして酒をガバガバ飲んだのだ。
    その酒の相手を仰せつかったのが、直江兼続(山城守)だったという。
    謙信は、49歳の時、脳溢血で死んでいる。
    おそらく、碌なつまみも胃袋に入れることなく、大酒ばかり喰らっていたのが
  祟ったともいう。
    ということは、健康管理に全くルーズであったということになるのだろう。
    謙信が死んだ後、跡目相続争いで上杉家は揉めに揉めることになる。
    謙信は女房を娶らなかったので子供もは居なかった。
    しかし、養子は二人いたのだ。
    姉の子供「景勝」と北条家からの養子「景虎」だ。
    謙信は、厠で突然脳溢血でひっくり返り、そのまま意識不明で世を去ってしまう。
    ということは、後継者を決めずに世を去ったため、後は「景勝」と「景虎」が血で
   血を洗うという紛争が起きることになるのだ。
 
   
    

武田信玄の少年時代の逸話

 今まで、武田信玄の名言としてPart6までUPしてきたのだが、今回、閑話休題ではないが信玄が少年時代のころの逸話を述べていきたい。
 勿論、歴史好きの皆さんはご存じだと思いますが、そこのところは御了解を得たいと思います。
 こと、英雄的な人物ということになると、伝説的な逸話が数多くあるし、信玄もその一人であろう。
 信玄がまだ「太郎」と名乗っていた13歳の頃の話だ。
 そのころの2月のある日、太郎(信玄)は鷹狩に近臣を伴って出発したという。目的地は水鳥が多数集まってくる沼地であったというのだが、近臣たちは小石を投げて水鳥を飛び立たそうとして小石を探したが見当たらなかったという。
 
 見かねた太郎が、「近くの百姓家に行けばタニシがある筈じゃ。それを貰って来い」と云いつけたそうだ。
 近臣が百姓の家に行ってその旨を告げると、その百姓は気持ちよくタニシを分けてくれたという。
 近臣は、タニシを持ち帰り太郎に「どうして百姓家にタニシがあることが分かったのですか」と尋ねたという。
 すると太郎は「世は戦国だ。そうすると食べ物が必要になってくるから蓄えがある筈じゃ。しかも2月という季節はタニシの季節でもあるから、タニシを獲って蓄えていると思ったまでじゃ」と答えたので、近臣たちは太郎の非凡さに舌を巻いたのだというのだ。
 実際に信玄は、子どもの頃から孫子の兵法本を読み会得していたとも云われている。
 学問的な兵法で父・信虎をやり込めていたとも伝わるから、信虎の信玄嫌いはこれが因だとも伝わっているというのだ。
 そして、父・信虎は家臣たちの前で「武田家を継ぐのは弟の信繁だ」と公言して憚らなかったというから徹底して信玄を嫌っていたのだ。
 嫡男としての立場を失った信玄は、心底悩んだとも云われているのだが、信玄が考えた末の行動は「ダメな兄貴」を実践することだったというのだ。
 馬に乗ればわざと落馬して見せ、水泳をすれば深みに嵌っておぼれる真似をし、書道をすればへたくそな字を書いたとも云う。
 それらは、父・信虎が後継ぎと公言している弟信繁より、自らが劣るということを皆に見せたのだという。
 しかし、この信玄の虚(うつ)け振りが演技であることを見抜いていた家臣が沢山いたという。
 そして、独裁的で勝手な振る舞いをしている信虎は家臣達から段々と疎んじられていったというのだ。
 家臣たちは信玄を担ぎ、信虎を追放することを画策し、ついに駿府に追いやってしまったのだ。
 この時、信玄21歳の時だったという。
 信玄も、父・信虎との確執を忘れることはせず、最後の最後まで許すことはなかったという。
 
 
 
 
 

戦国武将の名言集~武田信玄Part6

○ 働く者には相方をつけることが大切だ 
   信玄は云う。「人間の能力は決して同じではない。性格も違うし、長所もあれば
  短所もある。そこで長所と短所をよくよく見抜いたうえで、甲と乙、乙と丙という
  ように相方として組み合わせることが大切になってくるのだ。こうすることによっ
  て、お互い相方の長所を学び、短所を改めるという切磋琢磨が生まれてくるの
  だ」と・・・・信玄はこれを実践している。
   無口な者にはお喋りのものを組ませ、短気な者には気の長い者を組み合わせ、
  考え事ばかりして動こうともしない者には、行動が先で動きながら考えたり、動い
  た後考える者を組ませたというのだ。
  又、勇ましく働くのだが人情をわきまえていない者には、人情脆くて臆病な侍を組ま
  せることもしていたという。
  相方として組み合わされた武士たちは、「なるほど、俺にはこのような欠点があった
  のか・・・」と悟り、組んだ相手を見て「この相方にはこんな長所があるのか」と認め合
  い、お互いが学んだのだというのだ。

〇 人間にとって大切なのは遠慮の二字だ
   信玄はこう言っている。
   人間は遠慮の気持ちさえあれば良い分別ができる。
    難しい問題に遭遇し、どうしたら良いか分からない時も、遠慮の気持ちがあれば、
   その解決策を知っている者に尋ねることもできるだろう。
    重要な位についている者は下の者に尋ね、下の者は親族や友に尋ねることもで
   きる。
    そうなるとその事柄の成功の度合いが強まり、失敗の度合いは少なくなる。
    たとえ失敗しても、それは自分だけの責任ではないから気が休まることになる。
    いずれにしても、どうするかという分別の基になるのは遠慮の二文字なのだ。
〇 神は郡村の鎮守、仏は三界の教主なり
    甲州(山梨県)というところは山が多くて耕作地が少ない所であった。
    第一次産業がその土地の富だった当時としては、相当不利であったことはこと
  は否めない。
   そのため、信玄は隣国に侵攻し領土拡大を図った。
   しかし、信玄は、占領した地域での扱い方を慎重にやっていたというのだ。
   そのやり方というのは、部下に対して項目を設けて戒めたと伝わっているが
  これもその一つである。
   【神は郡村の鎮守、貴賤上下の本居なり。また仏は三界の教主、一切習生の
  慈母なり】という言葉がある。
   つまり、神社と寺はその地域にとって住んでいる人達の心の拠り所なので、いま
  までの行事を怠るようなことはしてはならない。
   地域に根差した行事はそのまま守るようにしろと言っている。
   これが、信玄が占領した地域での配慮の仕方で、心憎い心配りということだろう。
   ということで、武田家(信玄)に制圧された地域での反乱は非常に少なかったという。
   (以上童門冬二書から引用させていただきました)  
       

戦国武将名言集~武田信玄Part5

 大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することが、最も重要である。

  日頃からこのような考えであるから、信玄の名言集には随所に関連した
 ものが出てくる。

〇 百人のうち九十九人に誉められる者は、決して良い人物ではない
  信玄は人を用いる際にも「少しくらい鈍い者の方がよい」と言っていたという。
  そして、又「皆に誉められるような者は、決して良い人間ではない」とも口にしていた
 というのだ。  
  このことについては中国地方の覇者「毛利元就」も言っていたと云われるから当時と
 してはそれが普通だったのかもしれない。
  信玄は、「武士で、百人の内九十九人に誉められるような者は、軽薄者か、才覚者
 か、盗人か、佞人(ねいじん)か、この四つのどれかだ」 と厳しく言っている。
  つまり皆から誉められるということは、その人間には多面性があって、
 八方美人であり自分の芯(核)を持っていないことだ。
  つまり、今の言葉で分かりやすく言えば「自分の考えを持っていない」ということで、
 調子が良くて誰にでも自分を合せてしまう者なのだ。
  だから、そういう人間はイザというときには役に立たないということなのだ。
※ 注~「佞人」とは、心がよこしまで人にへつらう人。
 (童門冬二氏著書から)
〇 戦は40前は勝つように、40すぎたら負けないようにするべきだ


〇 人間にとって学問は、木の枝に繁る葉と同じだ
   信玄は常々「学問せよ。武術だけが優れていても本当の武士ではない」と言って
  いたという。
   しかしまた、「だからといって学問倒れになってはならない。人間はそれぞれ木の
  幹のようなもので、学問は幹から伸びた枝や葉のようなものだ。その辺の区別を
  はっきりしておくことだ」というのだ。
   また「学問というものは、何も書物を読むだけではない。自分より優れた人に色々
  な話を聞くことも生きた学問となる。一日一つのことを学べば、月に30学べる。そして
  1年間には365も学べることになる。こういうように、毎日毎日を大事にして送れば
  その人間の木に繁る枝葉はいよいよ多くなるだろう」ともいっているのだ。
   さらに、「自分の学んだことを人にひけらかしたり、自慢することはない。そういう
  心構えを持って生きている人間を、自分は知者といって尊敬している」とも言っ
  ている。(童門冬二氏著書から)

〇 晴信(信玄)が定めや法度以下において、違反しているようなことが
  あったなれば、身分の高い低いを問わず、目安(投書)をもって申すべし。
   時と場合によって自らその覚悟をする。


   法を家臣や領民だけに押し付けるのではなく、国主である自分もまた、その束縛
 を受けることを、明文化して世間に告知したのだ。

戦国武将名言集~武田信玄・Part4

〇 一日ひとつずつの教訓を聞いていったとしても、ひと月で三十か条になるのだ。
  これを一年にすれば、三百六十か条ものことを知ることになるのではないか。

  つまり、事を成就させるのは、コツコツと積み重ねることだ
〇  渋柿は渋柿として使え。
   柿が渋いからと言って接ぎ木するのは容易いことだ。
   継木をして甘くすることなど小細工である。人間も同じで、使いようである。

〇  戦に勝つということは、五分を上とし、
   七分を中とし、十分を下とする

   五分の勝ちであれば今後に対して励みの気持ちが生じ、七分の勝ちなら怠り心
 が生じ、十分つまり完璧に勝ってしまうと、敵を侮り驕(おご)りの気持ちが生まれる。

〇 仇が多ければ結局は国を滅ぼす事になる。
  敵や民に恨まれるような所業が多ければ何れは国が亡びることになる。

 これと関連する瑠と思うのだが、信玄の奥深さを表す言葉がある。
〇 人情、皆昔を恋い、初めを慕うのが習わし也
  信玄は、自分の国・甲斐が山ばかりで生産性が低いことから他国を侵略している。
  しかし、他国で奪い取った土地を直ぐに部下に与えることはなかった。
  信玄はこういうのだ。
  「どのような地域にも、必ずや特性というものが存在するものだ。
  その特性を無視して、いきなり武田流の管理の仕方をすれば、そこに長年
 住んでいる者は反発するであろう。
  人間というものは、どうしても保守的になり、今の生活が変わることを極端
 に嫌がるのだ。
  もし武田軍が弾圧的な態度で臨めば、すぐに心が離れてしまうだろう。
  人間という者は、皆昔を恋、初めを慕う気持ちを持っているからだ。
  武田軍が少しでも乱暴なことをすれば、これを針小棒大に伝えられ、前の
 領主が良かったということになるだろう。
  人の心を掴むということは、、やはり地域に伝わってきた特性を重んじるこ
 とが大切なのだ。
  このような考え方で、所有権を留保したまま、管理面で心温まるてを差し
 伸べたので、信玄が制圧した地域の反乱は少なかったというのだ。

〇 為せば成る、為さねば成らぬ 成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ
   信頼してこそ 人は尽くしてくれるものだ。

〇  一人働きは無用である。
   独りよがりの行動をとれば、組の者は組頭をなくし、味方の勝利を失
  うことになるからだ。

戦国武将名言集~Part3

○ もう一押しこそ慎重になれ。
  これはもうことばのとおりだ。
○ 負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家の亡ぶるを、人みな天命と言う。
  それがしに於いては天命とは思はず、みな仕様の悪しきが故と思うなり。
  負けることのない戦に負け、亡ぶことのない家が亡ぶのを、人はみな天命と言っ
  ている。
   自分は天命とは思わず、みなそのやり方が悪いためであると思う。
   つねづねやり方をよくしておれば、負けることはあるまい。
 
〇 我、人を使うにあらず。その業を使うにあり。
   武田信玄は大変情け深い武将であったと伝わっている。が、反面、
  非情さも持ち合わせていたのだ。
   そのようにしなければ生産性の低い甲斐の国では管理や運営が上手い具合
  にいかなかったというのだ。
   この言葉がまさにそれである。
   人格なんぞは斟酌しない。その人間が身に付けている技術を活用するというのだ。
   ハッキリ言えば、活用すべき技術が無くなればそれまでで、捨ててしまうという事も
  あるわけだ。
   しかし、信玄は「政治も技術だ。自分は人間を使うのではなく、その人間の技術を
  使うのだ」という。
   そして「・・・といっても、良い面だけを見出すように努力をしている。
  欠点があっても、それは悪い面であって、そんなところは黙殺するという考え方をし
  ている」とも言っているのだ。
   事実、信玄はそれを実践していたようだ。
   相手の長所を見抜いてそれを極力延ばすよう仕向け、その努力をしていたようだ。
   だから皆が従っていたということだ。
   
〇  自分のしたいことより、嫌なことを先にせよ。
   この心構えさえあれば、道の途中で挫折したり、身を滅ぼしたりするようなことは
  ないはずだ

戦国武将の名言集~武田信玄・part2

 戦国武将の中でも武田信玄ほど畏怖され畏敬の念で見られた武将も少ないであろう。
 あの信長さえ信玄の動静には常に関心を持ち、贈り物をするなどのゴマすりもしているのだ。
 後世にも、信玄公の名で格言・名言なるものが相当数残っているのだが、真偽の程はどうだろうか?
 実際に信玄が口にしたのかどうかは、今となっては証明することは出来ないと思う。
 前回分で信玄公の名言は終わるつもりだったのだが、周りから他にもある筈だから続けろと助言されたので、小生のメモ帳に記載されている物だけを絞ってUPしたいと思う。

 歴史に詳しい方には素通りして頂きたいですネ。
 疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、
   侵略すること火の如く、動かざること山の如し。
 
 これほど有名な言葉は類をみないほどだ。
  武田軍の軍旗に掲げられていた言葉であるが、孫子の軍争篇第七で軍隊の進退について書いた部分にある文章を、部分的に引用したものだという。

〇 三度ものをいって三度言葉の変わる人間は、嘘をつく人間である
 これはもう言葉の通りであろう。

〇  甘柿も渋柿も、ともに役立てよ
  人はその性質に沿って使うことが大事である。
  人は使いようだと云いたいのだ。

〇 晴信(信玄)の弓矢は欲のためではなく、民百姓を安楽にするためだと民に知らせれば、わしが軍を進めるのを待ち望むようになる。
  欲のためではなく民百姓のために戦をするのだということ。

○ 武将が陥りやすい三大失観。
 一、分別あるものを悪人と見ること
 一、遠慮あるものを臆病と見ること
 一、軽躁なるものを勇剛と見ること


 これに関連する話で次のような逸話があるという。
 『褒貶(ほうへん)ばかりする者は悪人である』
 信玄の家臣で「只来五左衛門(ただらいござえもん)」という者がいた。
 何度も大きな戦に参戦しているのだが、この男目ぼしい働きは一切していなかったというのだ。
 それなのに、平時の時の戦の話になってくると自慢話をしだすという。
 その話だけを聞いていると、この五左衛門は経験豊かで立派な侍に見えるのだ。
 そして、この五左衛門、「他人の噂話」になるとより熱心だったともいう。
 つまり、自分の事は棚に上げて、あの男は戦いには強いが猪武者だとか、女の癖は並みではないとか、強いが無学だとか・・・そういった悪口ばかり言っていたという。
 この男信玄の近習で側に仕えていたので、信玄もそのような話は良く耳にしていたのだ。
 しかし、信玄は耳に入っているのだが…ある考えがあって聞こえぬふりをして知らん顔をしていたという。
 そして、その実態を見極めるためジッと観察していたのだ。
 其の後、武田軍は信州上田塩田で徳川軍と一戦を交えることになった。
 武田軍はこの戦で家臣の多くを失うことになるのだが、なぜか五左衛門は手傷を負うこともなく無事だったという。
 信玄は、宿老の一人日向大和守を呼び、初めて五左衛門のことを口にしたという。
 信玄は「十度合戦に出て、九度は討ち外したにせよ、せめて一度の手柄でもあれば、人を批判するのも許される。侍というものは、他人の批判がなければ努力を怠りがちになるだろう。しかし、五左衛門は旗本でありながら、かつて一度も手柄を立てることなしに人の批判ばかりしている。このような男は、人々の怒りを招く悪人である。直ちに処罰せよ」と命じたという。
 日向大和守は、早速五左衛門を捕え処刑したというのだ。
 
 マァ、「口は災いの元」とはよく言ったもので、現代でも通ずることだろう。
 以降、Part3に続く。
    
 

戦国武将の名言集~武田信玄

 今回は戦国武将の中でも超有名な武将「武田信玄」の名言について述べたいのだが、戦国歴史に興味のある方は既に知っておられることと思いますのでご理解ください。

 信玄が生まれたのは、大永元年11月3日(1521年)
 亡くなったのは、元亀4年4月12日(1573年)
 幼名・太郎(通称)、晴信、機山(道号)、徳栄軒信玄(法号・法名)
 父「信虎」、母は「大井夫人」。
 『甲陽軍鑑』の中にある『人は石垣 人は城 人は堀 情けは味方 仇は敵なり』
 であろう。
 どんな立派な城を築いても、国持ちの主将としては無駄である。領国の人民や民こそが城であり、石垣であり、堀である。国を守るのは人なのだ。情けを持ち、あだし心を捨て、人の和を大事にしなくては国を保つことはできない」ということなのだ。
 民を慈しむということは北条早雲にも通じると思う。
 人の上に立つということは民を大切にすると言うことだろう。

 これは『甲陽軍鑑品第卅九』に所蔵され、『或人の云、信玄公御哥に』とされている古歌である。
 この古歌は「人間管理の標語としても有名なのである。
 
 これを捕捉する文章がある。
 それは『名称言行録』というのだが、その文を要約すると「信玄は生涯甲斐の国に城郭を築いていない。」とある。
 そして「住居の溝は狭いうえに堀の深さも浅いので、老臣にそのことを注意された」とある。
 しかし、信玄は、「城を持っているから運が開けるわけでもない。」といって老臣の注意に見む気もしなかったというのである。
 そして「主人をもっている武将は、城を築くことが必要ではあるが、その前に大将たるものは発度(はっと)や軍法を定めたりすることの方が城をつくるより大切だ」というのである。
 マア、最近の研究では、信玄が父信虎以来居住していた「躑躅ケ崎館」は天然の要塞が周囲にあるようなもので、べつに城を築かなくとも大丈夫だったようだといっている。

 もう一つ信玄の逸話を述べたい。
 『意表に出てこそ大将というものだ』 
 これは
 ある夜、信玄の家臣たちが雑談をしており、話が駿河の「今川義元」にうつったという。
 家臣たちは、義元の接客振りを誉めて次のように言ったという。
 「義元殿は器用な大将である。客人に刀や馬など、皆が欲しがっている物をズバッと贈られるのであるから・・・・」というのだ。
 すると信玄は「フン」といってそして嘲るように「それは器用というのではなく、不器用というものだ。器用というのは、皆が刀と思う時に小袖を、馬と思う時は一貫文の銭をという具合にするものである。戦も同じことが云えるのだ。敵の気付かないところに出て行ってこそ真の戦法といえよう。大将とは意表に出て、敵を疲れさせ、心を推し量れないような振る舞いをするものなのだ」と諭したというのだ。
 家臣は下を向いて黙ってしまったという。 
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                          武田信玄像

戦国武将の名言集~北条早雲

 戦国武将達はどのような信条をもって生きていたのだろうか?
 武将たち本人も中々気づかないものと思うのだが、後世の歴史家たちは色々調べているようではある。
 ということで、今回から一寸気になる名将たちの「名言集」について述べたい。
 まず「北条早雲」なのだが、最初に持ってきた理由は、「戦国時代」と云われる時代には、必ずと言っていいほど、最初に出てくる武将だからである。

 生誕についてはこれまたいろいろと説があるのだが
 生誕は、永享4年(1432年)又は康正2年(1456年)であると伝わる。
 亡くなったのは、永正16年8月15日(1519年)だという。
 盛時?と呼ばれているが号は 早雲庵宗瑞で、別名、通称:新九郎といい、諱は長氏、氏茂、氏盛、長茂、貞藤、貞辰である。
 堀越御所の夜襲に成功して伊豆一国を手中に収めた北条早雲。
 この時伊豆地方の領主31家をそのまま重臣にとりたてるという仁政を施している。
 普通に考えれば、何時寝返るかと警戒をし、並みの者では考えられない人事なのだ。
 しかし、早雲は余程自身があったのであろう、これと併せて「後北条の四公六民」といわれる「農民保護政策を実施して人心も掌握している。
 そのことは、『北条五代記』に
 「守護する百姓、前世の因縁なくして生まれあひがたし。願はくは民豊かにあれかし」とあるのだ。 
 
 「後北条の四公六民「というのは、それまでの「五公五民」を改め、加えてそのほかの労役等も負担させないというものなのだ。
 そんな仁政を行ったものだから、他国の百姓たちは非常に羨ましがったという。
 そして「我らが国も、新九郎(早雲)殿の国にならばや」と口々に言い合ったのだという。

 百姓は喜んだが、知行主である侍たちはそうはいかない。
 自分たちの取り分が減るのだから不満タラタラである。
 しかし、早雲はそれを見て、「国主のために民は子なり、民の為には地頭は親なり。・・・・地頭と百姓和合し水魚の思いをなすべし」と諭したという。
 「我が領地の百姓は、前世からの因縁があってのもの。彼らの暮らしが豊かであれと願っている」と言う言葉なのである。
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                         北条早雲像

織田信長の子孫(男子)たち

 天下統一を目前にして、時の風雲児織田信長が、京・本能寺で明智光秀に討たれたのが天正10年(1582)のことだ。
 それから433年経つ。
 今日まで織田信長に関する芝居・映画、TVドラマ等は数知れないほどであろう。
 信長の兄弟の事は過去にもUPしているのだが、それでは信長の子孫はと云えばあまりお目にかかったことはないと思う。
 ということで、今回はその信長の子孫について、小生が調べた範囲で述べていきたいと思うのだが、ここで取り上げるのは江戸時代をも生き残った者としたい。

 信長の子供は、長男「信忠」、次男「信雄」~母は生駒吉乃、三男「信孝」=母は華屋院(坂氏)、四男「(羽柴)秀勝」、五男「勝長」~母は不詳、六男「信秀」~母は稲葉氏と伝わる、七男「信高」、八男「信吉」~母は興雲院(お鍋の方)と伝わる、九男「信貞」~土方雄久の娘と伝わる、十男「信好」~母は不詳、11男「長次」、もう一人「信正」という子が居るのだが庶子の子で母は原田直と伝わっている。
 と云う事で信長の血筋をひいた男子は12人いることになるが、そのうち先ほど云った江戸時代も生き残って子孫を残したのは3人しかいないのだ。
 次男「信雄」、七男「信高」、九男「信貞」だ。
 
 長男の「信忠」は本能寺の変の時に自刃している。
 後に、織田家の跡目相続で有名になった信忠の子三法師は、秀吉に利用されて後継者になるのだが、後に「秀信」と名乗り、岐阜13万3千石の城主となるも、関ヶ原の戦いで西軍に与したため敗北後家康に領地を召し上げられ、剃髪して高野山にこもり後26歳の若さで亡くなっている。

 次男「信雄」は、秀吉健在の時表面上は秀吉(豊臣家)と手を組んでいるように装いつつ、秀吉死後の関ヶ原の合戦前には裏からセッセと家康に情報を送っていたという。
 これもあって、豊臣氏滅亡後は徳川幕府から大和と上野で5万石を与えられている。
 この「信雄」の所領の内、上野の2万石は、信雄の三男に分与されたが、約150年後、家督を継いだ信浮(のぶちか)は出羽の高畠へ転封されている。
 其の後、この子孫は天童に移り住み、明治維新で子爵を授けられている。
 もう一つ、大和の遺領3万1200石を受け継いだ信雄の五男は松山に移り住んでいる。
 ところがである。その子孫が理由もないのに家臣2人を殺害し自刃するという事件を起こした。
 時の幕府はその子への相続は認めたものの兵庫県氷上郡内2万石への減封を命ぜられている。
 しかし、明治維新後子爵を授けられている。
 2万石というのは大名級では最低クラスなので、信長の時代家来だった前田家や細川家と比較すると、織田家のその凋落ぶりは哀れそのものだろう。

 子孫を残した七男「信高」は近江の神埼郡等で2千石、九男「信貞」は同じ国内で700石を与えられていたにすぎないのだ。
 はっきり言えば江戸時代、ごく普通の武士として過ごしていたということだ。

 ちなみにフィギュアスケートで有名な「織田信成」は信長の子孫だと云われ、本人もそのように云っているが、世間は眉唾だと言っているとか・・・
 その織田信成の家系図だが、次のようになっているという
 初代:織田信長 - 2代:信高(七男) - 3代:高重 - 4代:一之 - 5代:信門 = 6代:信倉(養子) = 7代:信直(養子) - 8代:長孺 -9代:長裕 - 10代:(省略) - 11代:(省略) - 12代:(省略) - 13代:(豊春)- 14代:重治 - 15代:信義 - 16代・長男(信成は次男)
 ということだ。
 途中省略部分があるため疑義ありと云われているが・・・・さてどっちだろうか?
 信成が云うように系図が正しいとしても、それは9代までで、10、11、12代が不明だということは一寸信じられないと思う。
 そして、知識人が調査したところ、明治時代以前の旗本織田家と織田信成の家の家系が繋がらないため、旗本家の直系であるとする根拠が存在しないというのだ。
 だからこちらの方が真実ではないだろうか?
 推測で申し訳ないが、曾祖父の代に細工をしたのではと推察するのだ・・・・
 マァ、それはどうでも良いことではある。
 

武田信玄の弟「武田信廉」のこと

 前回に続き、今回は信玄の弟「信廉(のぶかど)」のことだ。
 歴史の中ではこの二人、よく対比されるのだが、対照的に生きたと評されている。
 
 武田 信廉は、天文元年(1532年) - 天正10年3月7日(1582年3月30日)?) 戦国時代の武将である。
 武田信虎の四男であり、武田信玄、武田信繁とは同腹の兄弟。幼名は孫六という。
 信玄とは7歳違いだ。
 後に「逍遥軒」と称しているが、こちらの方が世に知られているかもしれない。
 他には、信綱とか信連ともいわれている。
 
 兄信玄が戦、戦で明け暮れているのに、信廉は文学的な教養を十分身に付けていたようだ。
 歌道や漢詩、彫刻、絵画も学んだといわれる。
 特に画才は優れていたようで、生母大井夫人画像は有名で甲府市の「長禅寺」に保存されている。
 それ以外の絵については、父・信虎の画像も有名で、甲府市・「大泉寺」に保存されている。

 また、兄信玄を模したと伝わる「鎧不動尊画像」(塩山・恵林寺)もある。
 特に信廉で有名なのは、信玄の影武者になったことだろう。
 これは、容貌が信玄にそっくりだったということから伝わっているもので、川中島の合戦では有名だ。
 この時の謙信との一騎打ちは、この信廉だったと云われているのだが・・・・今となれば証明のしようもあるまい。

 元亀4年(1573)4月に信玄が死去した後は、一族の重鎮として飯田城代や大島城代などの要職を任されている。
 父の信虎が信玄が亡くなった後に帰国を望んだため、信廉が信虎の身柄を引き取り、居城である高遠城に住まわせている。
 このときに「信虎像」を作成したという。
 天正3年(1575)、長篠の戦いに参戦したが、5月21日の設楽原合戦のときには、穴山信君らと共にいち早く戦線を離脱してしまった。
 この戦は、武田家の御親族衆として戦場に駆り出されているのだが、残念ながら戦の経験に乏しい信廉にとっては戦うことが出来なかったと云われている。
 
 そして、天正10年(1582)の織田・徳川勢による甲州征伐では、織田信忠を先鋒とする織田勢が南信濃から侵攻した時、信廉は大した抵抗もすることなく・・・というより一戦も交えることなく大島城を放棄して甲斐へ退却するのだ。
 戦後、織田軍による執拗な残党狩りによって捕らえられ、勝頼が天目山麓で自刃してから13日を経た3月24日、甲斐府中の立石相川左岸にて森長可配下の各務元正、豊前采女によって捕えられ斬首されたのだ。
 
 この時も必死に逃げ回ったと云い伝えられているのだが、兄信繁が壮烈な戦死を遂げていることから比較される。
 享年51歳であった。
 墓所は甲府市桜井町の「逍遥院」にある。
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                       武田信廉像

 

 
 
 

武田信玄の弟信繁のこと

 前回信長のことについてUPしたのだが、そこで大チョンボして申し訳ありませんでした。
 弁解になるのですが、其の時次は何をUPしようかと考えながら信玄の兄弟の事を考えていた。
 そして信長の父「信秀」と、信玄の父「信虎」を混同してしまい、チェックもせずに公開を押してしまった。
 まことに申し訳なかったと思っています。
 今後はチェックを十分にやっていきたいと思っていますがどうなることやら・・・・

 そこで今回は武田信玄の弟達のことだ。
 信玄の弟というと史実に残っているのは7人だといわれている。
 
 信繁、信廉(のぶかど・逍遥軒)、信是、宗智、信実(のぶざね)、信竜、信友の7人だ。
 世に良く知られているのは信繁と信廉なのだが、この2人について述べていきたいと思う。
 ということで今回の弟は信繁についてUPしたい。
 
 信繁は大永5年(1525)に、甲斐国主・武田信虎の次男として生まれている。
 初名は次郎といい、母は、兄・晴信(信玄)と同じ大井夫人で、晴信とは4歳違いだ。
 次郎はその容姿と風格、そして器量と従順さを父・信虎に愛されたとされ、晴信を差し置いて新年の杯を1番目に受けるなど、寵愛されていたのだ。
 初陣の時期は定かではないが、少なくとも信虎時代には甲斐甲府で留守居を命じられていたため、戦陣へ出る機会はなかったといわれている。

 父・信虎は利発で自己主張の強い信玄を疎み、彼を廃嫡して信繁を次期当主にするつもりだったと伝わっており、歴史書にもそのようなものが多い。
 これに反発した信玄は天文10年(1541)に信虎を計略にかけ、今川義元の下へ追放する。
 この時、信繁は自身を信頼してくれている父と兄の間で板挟みとなったが、甲陽軍鑑によるとこの時、信繁は信玄に味方し、信虎追放に一役買ったという。

 先にも述べたように、信繁は晴信(信玄)より4歳下である。
 父・信虎が追放された時、信繁は17歳だった。
 晴信は父・信虎を追報した時、信繁にも影響を及ぼすことも視野に入れていたようだが、其の時はその時だと敢えて追及することはしなかったという。
 小生が思うには、信繁は跡目は長男が次ぐものだと割り切っていたのでは・・・と考えていたのではと推察するのだ。
 良く言われているのは、信繁を救ったのは信繁その人の人柄だといわれているのだ。
 それを示すのが、後に「文アリ武アリ礼アリ義アリ」と称賛されていることからも分かる。
 晴信もそこのところは高く評価していたのだろうと思うのだ。

 信繁は左馬助(さまのすけ)と称していたので、この唐名が「展厩」と呼ばれていたので、一般には「展厩信繁」と呼ばれていた。
 注・典厩(てんきゅう)とは. 馬寮の長官を務める官職で、左馬頭・右馬頭(従五位下)の唐での 名称のことである。
 
 江戸時代の儒者である室鳩巣(むろきゅうそ)は、信繁を次のように賛辞している。
 『展厩公こそは天文・永禄の間に賢と称すべき武将であった。兄信玄に仕えて人臣の節を失うことなく、その忠信、誠実は人の心に通じ、加えて武威武略に長じ、智剛知柔、真の武将とは信繁のごとき人物をいう』と・・・・・

 実際、信玄の補佐役として秀でた手腕を発揮し、信玄を引き立たせている。
 その中でも、上杉謙信との「川中島の戦い」では、信玄の窮地を死を持って守り抜いた話は有名だろう。

 永禄四年(1561)九月十日の、史上名高い川中島第四回の合戦が起こったときだ。
 この合戦は武田方の敗け戦であったのだが、味方の陣営の崩れを見てとった信繁は、家臣の春日源之丞を呼び寄せ自らの母衣をはずし、鬢髪を添えて一子信豊へ手渡してくれるよう頼んだ。
 そして、弟の信廉にはよい弟であったと伝えてくれるように伝え、三尺の大太刀を高々と天空に突き上げて敵中へ姿を消した。
 齢三十七歳、壮烈な討死であったという。

 この時、信玄の小姓役であった「真田昌幸」が信繁の武勇にいたく共鳴し、次男に信繁(幸村のことで、幸村というのは俗名)と命名しているほどだ。
 もう一つ云わせてもらえれば、昌幸の長男である真田信之は、この信繁の菩提を弔うため、川中島に「展厩寺」を建立している。
 信繁は、弟信廉と良く対比されるのだが、信廉よりは勇猛果敢に死んでいった信繁の方が向こう受けが良い。
 次は「信廉」について述べたい。

 
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                         武田信繁像

 

 

信長の「うつけ振り」を列挙・パート4

 信長の「うつけ振り」をパート1からパート3まで云ってきたのだが、今回はその信長の実態を見抜いた男・・・そうご存じの斉藤道三のことである。
 信長が道三と面会した後、巷ではその「うつけ振り」は信長の演技ではなかったのか?と囁かれだすのだ。

 それではその面会のことについて簡単に述べていきたい。
 道三にとっては隣国織田家に嫁いだ「濃姫」のことも気になるのだが、織田家の嫡男が本当に「うつけ」であるならば織田領を分捕ってやろうとの思いは十分あったことだろうことは推察できる。
 そこで信長に面会を申し出、信長が本当に噂通り「うつけ」かどうかを見定めてやろうとしたというのである。

 道三にとっては信長が何時もの通りの装束で面会場に現れると思っていたらしい。
 ところが信長は一旦控室に入ったものの、其の後現れた時の装束は道三の予想をはるかに超えていたのだ。
  茶筅髷でなく、キッチリと定められた髷に縫い直し、折りまげた褐色の長袴、小刀をキッチリと腰に差した正装であったのだ。
 信長は元々色白で好男子であったので道三の驚きは相当なものであったと云い伝えられている。
 それは斉藤家の者だけでなく、信長の家来衆も驚き、目を見張るほどの男ぶりだったのである。

 しかし、道三だけは別の所を見ていたという。
 それは、信長が所持していた太刀と脇差のことだ。
 両刀とも柄が長く、三五縄(みごなわ・藁の芯で編んだ縄)で巻いてあったのだ。
 もし戦いで血を流した場合でも、太い三五縄を巻いていれば滑り止めにもなるし、柄の部分が割れることも防ぐことになる。
 そして道三がさらに目を見張ったのが、刀に腕抜きがついていたことだという。
 もし万が一、刀が飛ばされるようなことがあっても、腕抜きに手を通していれば、刀を落とすこともないというのだ。
 さらに驚いたのは、獣の皮で作った袴であったという。
 これは、馬上では足が弱点となるのだが、その弱点を補ってくれるのだという。
 
 つまり、信長は舅の道三に会う時、何時でも戦闘に応じられる装束で会いまみえたということだ。
 道三は、肝をつぶす思いで信長を見、世間のうつけという風評がいかにいい加減だったかとの思いであったともいう。
 後日、道三が自分の子供たちは、将来信長の膝下にひれ伏すだろうと嘆いたというのだ。
 
 
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                        織田信長像
 
  

信長の「うつけ振り」を列挙・パート3

 信長のうつけ振りでもっとも有名な伝えが父信秀の死去の際の所業だろう。
 今回はそのことについて述べていくことにしたい。
 その前にひと言云っておきたいのだが、、信長15歳の時結婚している。
 マァ、結婚させられたという方が正しいのであろう。
 その前年の天文16年(1547)に初陣しているから、一人前の武士と云うこともあって結婚しているのだ。
 その相手と云うのが、皆さんご存知の美濃の斉藤道三の娘(濃姫)である。
 ということは政略結婚と云う事だ。隣国と云う事もあって父信秀は道三と誼を通じておきたいという重いであろうが、これは道三も一緒だという事だろう。

 信長にとって、結婚したからと云って一挙に生活振りが替わるわけでもなく、相変わらずの奇人振りを見せている。
 傳役の平手政秀の苦悩ぶりが小説では紹介される場面なのだが、相当悩んだようである。
 マァ、政秀は、いつの日かこの「うつけ」と云われている信長が、将来立派な武将になるであろうという気持ちを捨てきれずにいた。
 そして、天文20年(1551)3月、父信秀が病に倒れそのまま世を去る。

 その葬儀は盛大なものであったが、信長は最高の「うつけ振り」を参会者に見せつける場面となる。
 参会者の誰もが礼装でしめやかな雰囲気の中、焼香に現れた信長といえば、着ているモノも履いている草履もいつもの姿であったという。
 信長は霊前に進みよると目の前に置いてある抹香を鷲掴みにするや父信秀の位牌に向かってバッーと投げつけたというのだ。
 参会者が驚いたことも十分推察できる。
 信長はそのまま踵を返すや足早に式場を去ったというから、参会者の中で「あれがうつけの正体じゃ。あれではノォ」とざわついたと云われているのだ。
 この場面、信長を語る上で欠かせない逸話だろう。
 その後、政秀は割腹して命を絶つのだが、死して信長に武将としての心構えを説いたと伝わっている。
 続きはパート4へ
 
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                       織田信長像

信長の「うつけ振り」を列挙・パート2

 バート1で列挙したとおり「うつけ振り」も徹底していたわけで、とてもではないが「武士」の威厳などあったものではないだろう。
 ましてや領主信秀の後継者なのだから、信頼しろという方が所詮無理な話だろう。
 今でいえば頭の血管がブッツリと切れていると思われても仕方があるまいし、陰で「とんだうつけ者よ」と罵られても仕方はあるまい。
 しかしである。信長の「うつけ振り」は云ってきたように並はずれた所業なのだが、武道にも普通人では考えも及ばないことをやっている。
 ここが並みの武将とは違うし、将来天下統一寸前まで上り詰めたことにも通ずるのではないだろうか?

 朝夕の乗馬の稽古は欠かさないし、気候が良くなると川で水泳の稽古をしたりしている。
 そして、弓・鉄砲の稽古から、槍に至っては師について教わっているのだ。

 ○ 鹿狩り、鷹狩、イノシシ狩り等も熱心にやっている。
 ○ 河原に若侍を招集して「戦ごっこ」もしている。
    この時は槍を持たせて実戦さながらのこともしているのだが、「槍が短い
  のは不利だ」と長槍に代えさせているとも云われている。
  (これから秀吉の長短槍が生まれたのでは?と思われるのだが・・・どうだろうか?) 
  普通槍と云うものは、三間(5.5m)なのだが、三間半(6.4m)の長さにしていたという。
 この稽古だけを見ると立派な武者になると思うのだが、信長の場合は普段の生活が並みではないので、「所詮バカの一つ覚えよ」と悪口を云われ冷たい目で見られていたとも云う。
 続きはパート3へ
 
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                          織田信長像

織田信長の「うつけ振り」を列挙・パート1

 今回は小説や映画でお馴染みの信長の「うつけ」の逸話を列挙したいと思う。
 これはもう皆さんご存知の話なのですが、今一度述べたいと思う。

 大体が「天才だ」「秀才だ」と語り継がれている人物ほど、幼少時代の逸話は多いと思う。
 徳川家康しかり伊達政宗もそうだろう。
 と云う事で今回は天下に知れ渡っている織田信長の「うつけ振り」を列挙することにした。

 信長がこの世に生まれてきたのは天文3年(1534)のことで、尾張の大名「織田信秀」の嫡男としてだ。
 生まれたのは那古屋城で幼名は「吉法師」という。
 この時から信長は異常な行動をしていたと伝わる。
 ○ 吉法師に乳母がつくのだが、何とマァこの乳母の乳首を噛み破ったという。
    何人も乳母が替わっているのだが悉く噛み破ったという。
    しかし、池田常利の後室(養徳院)が乳母になった途端、その悪癖がビタッと止んだと伝わっている。
   余程あやし方が良かったのであろう。
信長は、天文15年(1546)古渡城(父・信秀の居城)で元服する。
 その後の信長の「うつけ振り」は徹底している。
 ○ 城中のあらゆる作法や形式、秩序をことごとく無視している。
    知っていてこれらを破るのだから家来衆にとっては堪ったものではなかった
   はずだ。
    那古屋の町を歩いてもその様子は異端児そのものであったという。
    つまり、頭はボサボサ、結び目を紅や萌黄色の紐を使っていたというから並み
  ではない。
    着ているモノは、湯帷子(ゆかた)で片肌を出していたというのだ。
    そして、虎や豹の皮を繋いだ半袴を履き腰には火打石を入れる袋や瓢箪を下
  げていたという。
    足には百姓が履く足半(足の半分しかない草履)だから目立つなと云っても目
  立ってしまう。
    そして行儀の悪さだから周りの者が愛想を尽かすのも無理は無かっただろう
  ことは容易に想像はできる。
 ○ その行儀の悪さだが、歩きながら柿や栗、瓜を噛み砕き、人目を全く気にして
  いなかったのだという。  
 そして歩く際、人の肩に寄りかかって歩いていたというのだから周囲の者に尊敬し
 ろと云ってもそれは無理だろう。
  
 このように、織田家の嫡男ともあろう信長がこの様だから、町の者や百姓に信頼されないのは当然と言ったところだろう。
 まして、家来衆はどう思っていたのかと想像すると、結果ははっきりしているだろう。
 続きはパート2へ・・・・
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                       織田信長像

戦国時代の武将の系図なんていい加減なものだった?

 新年あけましておめでとうございます。
 今年も私感を混じえた歴史をお届けしたいと思いますのでよろしくお願いします。

 本年初めてのブログなので祖先様のことについてUPしたいと思います。
 と云っても、そんな大袈裟なものでは無く、皆さんも良くご存じの内容です。
 マァ、この世に生を受けた人々は皆ルーツと云うものがあるわけで、この世に「ボン」と誕生したわけではないことは言うまでもありません。
 そして、大体の人は自分のルーツはどうなっているかと関心は持っている筈ですよネェ・・・・
 といことで、戦国時代の武将も一緒だと思います。

 代々、名将と呼ばれている名門ともなれば、祖先様が残してくれた系図というものが残っている筈だから、出生というものはある程度分かるし信用も出来るというものだ。
 それでも都合の良い系図を書くこともあるわけだ。
 ということは、出生がはっきりしない者や、公家、武将の出でない者は、祖先が何処の誰か特定できないことが多いのだ。
 それどころか、武将としての力が付いてくると、当時の戦国時代のことだ、勝手に祖先様を捏造してしまうことはザラだったという。
 その代表格が皆さんご存知の「豊臣秀吉」だろう。

 木下弥右衛門という百姓(足軽ともいわれている)の子供として生まれているのだが、晩年は天皇の子孫だと云っているのだ。
 百姓だったということは、天下万民に知れ渡っていたというのにネェ・・・・
 
 話が逸れるが、戦国時代「戸籍」と云うものはあったのだろうか?答えは「否」である。
 当時、百姓に課せられた棟別銭(むなべちせん)の台帳が現在でいう戸籍の役割だったという。
 その台帳には一応家族構成が記載されていたというのだが、何処まで正確であったのかはハッキリしていない。
 でもネェ、支配者そのものがこの台帳に無関心だったらしく、戸籍は無いに等しかったというのだ。
 コメの生産そのもので社会が成り立っている当時、シッカリと把握しておかなければならない百姓がこの程度なのだから、武将の戸籍ともなるとネェ・・・もう云わなくとも分かるだろう。

 現在は「一夫一婦」制度が確立されているから良いようなものだが、当時は複数の女性に子供を産ませるのは当たり前のことの世だ・・・・
 また政略的に養子養女を出す、迎えるは頻繁に行われていたのだ。
 もし仮に「戸籍」と云うものが確立されていたらその整理は誰が行うのだろうか?
 行っていたとしたら、もうそれだけで疲労困憊となるだろうことは予測できる。
 マァ、戸籍が無かったに等しいのだから、親兄弟が死亡しようが不明であろうが、勝手に系図を作ろうが誰からも、何処からも文句を言われることはなかったのだということだろう。

 極端なことを言いましたが、正当な系図もあったことも事実ですから最後に附け加えておきます。

 
 
 
 
 
 
 

戦国武将吉川元春のこと

 前々回「吉川元春」のことをUPしたのだが、紙面の関係で簡略していた。
 今回は続きという意味で書き残していたことについてUPしたい。
 
 吉川元春勇猛な武将として有名だと思うが、研鑚(けんさん)する姿も見せている。
 それは出雲の尼子氏を攻めた時、「太平記」を陣中で読んでいたと記録に残っているからだといわれているのだ。
 勇猛なところもあり繊細なところもある武将が吉川元春という専門家も多いという。
 
 その吉川元春が新庄局との間に授かったのが「吉川広家(経言・つねこと)」であるのだが、その広家に『教訓状(これは天正9年・1581年ころ)』とか『吉川家法度』なるものを残している。
 それは、この広家、幼少時から「うつけ」と云われ父元春を嘆かせていたという逸話が残っているからだ。

 例えば、杯を受ける際の礼儀作法がなっていないと注意されたり、長じてからも所領が少ないことを理由として勝手に石見小笠原氏・小笠原長旌の養子になろうと画策したりしたことで元春が怒っているのだ。

 それは先ほど言った『教訓状』とか『吉川家法度』としてあるのだが、その中には元春の優しさを表す言葉がそのまま記されているのだ。
 その認(したた)め方も、頭ごなしにやっておらず、懇切丁寧に、我が息子を諭しているのだ。
 その『教訓状』の中にある三項目は
 ○ 流行の身なりをしてはいけません、あなたは幸いにも五体満足の体を
  持っているのだから、身なりで人から悪く思われては両親に対して不幸ですよ。
 ○ 外出する場合も、注意してきちんとした服装をしなさい。その際にも商人が着
  るように着たり、首に巻き付けるような恰好はをしてはいけません。 
 ○ 座敷内での杯の頂き方ですが、あなたは目や鼻の高さで頂いているようですね。
   身分の高い人からの杯は、目の上の高さで頂きなさい。
   また、礼を受ける時の挨拶も、目でやるのではなく、もう少し屈んでやってほしい
  ものです。
と言う具合だ。
 元春の優しさあふれる養育のやりかただろう。
 
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                     吉川元春像

戦国武将小早川隆景のこと

 前回は毛利元就の次男「吉川元春」のことをUPしたが、今回は三男「小早川隆景」について簡記したいと思う。
 隆景は、天文2年(1533)、毛利元就と妙玖夫人の三男として生まれている。幼名は徳寿丸である。

 毛利元就は「家」のことについて深く考えていた節があるのだが、子どもの行く末にも十分配慮していたと思われる。
 子供や家来衆が不満を持たないよう結束するにはどうすべきかと常々考えていたのだろう。
 だから幕末まで毛利家は存続できたものと、小生は思うのだ。

 これらのことは、いろんな書物で語られているので省略するが、元就は、毛利家が一体となって生き残るのはどうあるべきかを常々考えていたと推測すできる。
 次男元春を「吉川家」を継がせ、三男「隆景」をどうするかを考えていた。
 
 そのような時、天文11年(1541)に竹原小早川氏の当主・小早川興景が死去したのだ。
 この時小早川家の重臣たちは、小早川家の後継者が無かったため、元就に対し子の徳寿丸(当時8歳)に跡を継がせるよう求めている。(通説だが、ここに元就が働きかけていたと推測できる)
 元就は、当時大内義隆の配下に居たわけであるが、この義隆の強い勧めもあり元就は承諾している(ことになっている?)。
 元就の腹の中は渡りに船だった違いないのだ。

 義隆の偏諱を賜い隆景と称させ大内義隆を納得させたことからも上手い処世術だろう。
 元就の姪(毛利興元の娘で隆景の従姉)が興景の妻だった縁もあり、この養子縁組は小早川家中でも平和裏に進み、天文14年(1544)に隆景は竹原小早川氏の当主となるのだ。

 隆景は、天文16年(1547)、大内義隆が備後神辺城(現福山市)を攻めたときに従軍し、11歳で初陣を飾っている。
 詳しい記録は残っていないのだが、この時、隆景は神辺城の支城である龍王山砦を小早川軍単独で落とすという功を挙げ、義隆から賞賛されている。

 途中省略するが、隆景の逸話について簡略すると・・・
 ○ 備中高松城が秀吉に水攻めにあい、秀吉との和睦を受け入れることになる。
    この和睦が成立した際、秀吉から酒樽が届けられた。
    家臣は毒が入っている事を恐れたが、隆景は「既に誓書を取り交わして和睦した
  上で、そんな事はあり得ぬ。和睦の盟約を賀す酒を飲まぬのは、かえって非礼であ
  ろう」と言って3杯飲んだという。
  そして届けた秀吉の使者に引き出物を渡して、謝辞を述べてから帰らせたという。
  このことを知った秀吉は隆景を心から信用するようになる。
 
 ○ 黒田如水に対し、「貴殿はあまりに頭がよく、物事を即断即決してしまうことから、
  後悔することも多いだろう。
  私は、貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、
  後悔することが少ない。」と指摘したという。
  如水は隆景の訃報に接し、「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆じたという。

 ○ 「分別とは何か」と質問した黒田長政に対し、「長く思案して遅く決断する。分別
  の肝要は仁愛で、仁愛を本として分別すれば、万一思慮が外れてもそう大きくは
  間違わない」と答えた。

 ○ 甥の吉川広家に対して、「高松城の際、羽柴との誓約を守ったからこそ、毛利家
  が豊臣政権下で安泰でいられる」と語って聞かせたという記述が吉川家文書にある。

 じっくりと腰を据えて物事を判断する性格だったようで、家康も一歩引いた接遇をしている。
 もし隆景が家康と同様、長命であったならば後の天下はどうなっていたかは分からなかったように思う。
 慶長2年(1599)6月12日享年64歳。
 
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                     小早川隆景像