戦国武将の中でも哀れさを誘う武田勝頼

 戦国武将・武田勝頼を語る時、両極端に分かれる。
 一つ、勝頼は武田氏を滅ぼした無能な武将である。
 一つ、勝頼は有能だったが、偉大な父・信玄の残した負債に押し潰された不運な武将である。
と言ったような批評の分かれ方が多い。

 果たしてどちらだったのであろうか?
 今となれば証明のしようもないが、無責任な話をすれば両方とも云えるのであろう。

 しかし小生、この勝頼、戦国武将の中でも一際哀れさを誘う武将だと思う。

 偉大な武将・信玄の子として生まれるのだが、父・信玄亡き後武田の軍勢を率いることになる。
 信玄が「自分が死んだ後、死んだことを秘して3年間は動くな」と言ったというのだが・・・勝頼はこれを破るかのように国境を接していた徳川領に攻め入る。
 これも自分の力を誇示するためだったと専門家は言うのだが・・・
 攻められた徳川勢は一時防戦一方となっている。

 その勝頼の運命が大きく変わるのが天正3年(1575)の「長篠の合戦」である。
 この戦いで織田信長・徳川家康の連合軍と総力戦を演じるのだ。
 この戦、結果的に負けてしまうのだが、武田方の多くの武将と兵を失うことになる。
 
 勝頼はそれでも国力回復のために奮闘するのだが・・・時の流れには逆らうこともできなかったのだ。

 武田氏の没落が決定的となるのが天正9年(1581)から翌年のことであろう。
 この年、勝頼は新たな防御拠点として新府城(現在の韮崎市内)を築くのだが、徳川方との攻防地点であった高天神城が落城してしまった。
 それ以降地滑りを起こすが如く壊滅へと向かうのだ。
 それまで優勢だった対徳川相手に劣勢に立たされるは、家臣に見放されることにはなるは・・・俗な言葉で言えば「武田家はガタガタ」になってしまうのだ。

 この機を逃すはずがないのが織田信長だ。
 直ちに軍勢を甲斐、信濃に侵攻させる。
 すると武田家の家臣たちの多くは戦うこともせず、織田信長の軍門に降ってしまう。
 孤立してしまった勝頼は、完成途中の新府城を放棄せざるを得ず、東方へ逃走する。
 
 勝頼は、武田24将の一人である小山田信茂を頼って、抵抗を試みようとするも小山田信茂にも裏切られてしまうのだ。
 二進も三進もいかなくなった勝頼が選んだ最終決戦場が天目山棲雲時(現甲州市)なのである。
 そして、この天目山の戦いで武田氏は滅亡するのだ。
 これ、戦と言うほどのことはない小規模のものだ。
 だって、武田方のこの時の勢力は僅か40人ほどだったのだから・・・・
 
 絶対に勝てる戦いではないだろう。
 伝えるところによると「存分に武田武士の意地を見せる勇猛なものだった」となるのだが・・・討ち死にしてしまう。
 もちろん勝頼も最後には自刃して果てている。

 ということで武田勝頼の最後の地は「天目山」として語り継がれているわけだ。
 
 しかし、実際にはこれとは異なる場所が終焉地なのだという。
 勝頼は「天目山・棲雲寺」にたどり着くことはできなかったのだ。
 というのは、途中、勝頼達が落ち延びていることを知った農民等に行く手を阻まれたからだという。
 その時の勝頼達は、力は殆んど残っておらず、これら農民を蹴散らすこともできなかったという。
 勝頼たちは「天目山」まで後僅かな所で追ってきた織田方の大軍と戦うことになった。
 その場所こそが、今の甲州市田野であり、本当の武田氏終焉の地なのである。

 それにしても武田勝頼、最後は殆んどの家臣たちに見捨てられ一生を終えるとは・・・戦国の世とは言え哀れさを感じるのだ。

 
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                  武田勝頼像
 

 
 
 
 

 

 

 

 
 
 

 

 

 

 

上杉謙信は信玄に塩を送ったのかナァ

 前回は武田信玄のことをUPしたので今回は謙信のことについて思いを綴りたい。
 それは良く言われているように諺で「敵に塩を送る」という言葉だ。
 これは、争っている相手が苦しんでいるときに、争いの本質ではない分野については援助を与えることの例えだ。
 戦国時代、遠江の今川と相模の北条の両氏から武田信玄が、経済封鎖をされ塩不足で困窮していたとき、長年敵対関係にあった上杉謙信が武田信玄に塩を送って助けたという話が基で、美談として伝わっている話だ。
 
 この上杉謙信、皆様ご存知の通り武田信玄の宿敵として知られ、戦国時代屈指の名将として知られている。
 信玄が統治していた甲斐・信濃は山に囲まれた土地で、塩は産出しない地域だ。
 そういう地理的状況なため、信玄の領国の民達は、周辺からやってくる商人から塩を買わなくてはいけなかった。
 甲斐・信濃を取り囲む周辺国というのは、謙信の越後、今川氏真の駿河、北条氏康の相模などだ。

 戦国時代と言うこともあって、領国を巡っての争いは日常茶飯事ののことであった。
 そういう世情の中、信玄は今川氏真と対立することになる。
 氏真は、相模の北条氏康と連携し、商人達に武田領内への立ち入りを禁止してしまう。
 つまり、日常最も必要な塩を武田領内の民に行き渡らないよう画策したのだ。
 
 この塩を封鎖されたことによって信玄は窮することになる。
 それを見ていた上杉謙信は、信玄に塩を送る旨の書状を届ける。
 なぜそうしたのか?
 上杉謙信に言わせれば「戦いと言うものは弓矢で争うものであって、米や塩で争うものではない。今川や北条の行いは武士(もののふ)の道に背くものだ」ということになる。
 如何に武田信玄と宿敵関係であっても、救わないわけにはいかないというのだ。
 そして、謙信は、商人たちに命令する。
 「塩の価格は通常の半額にせよ」と・・・・

 以上は、謙信の人柄としての逸話であるのだが、疑問視する専門家は多い。
 
 ただ、今川、北条が塩を封鎖したことは史実として残っているのだが・・・謙信が信玄に手紙を書いて自ら進んで塩を送ったという話を証明する史料は存在していないことだけは事実である。

 ただし、今川と北条が塩封鎖を行った際、謙信が同意したという形跡も全くないというのだ。
 ということはどういうことか?

 越後からは、従来通り信玄の領国甲斐・信濃へ商人が行き来できたということだ。
 となると謙信の腹は、今川や北条のように塩封鎖をして信玄の領民を苦しめるつもりは毛頭なかったのではないか?

 その行動が、後に拡大解釈として尾ひれがつき、謙信が「信玄に塩を送った」と言うことになったのではないか・・・と言うのが専門家の考えだ。

 この逸話、戦国期のギスギスした世情の中の美談として語り伝わっているのだが、これは上杉謙信の生きざまが多分に影響しているものと思われるというのだ。
 謙信は「武と義を重んじる武将」と思われていたのは事実らしいので、この逸話が「謙信らしい」として伝わったのではないだろうか?

 謙信は手紙を信玄に送らないまでも、少なくとも塩封鎖は武士のやることではないとは思っていたのではないだろうか?
 だから、今川、北条からの協力依頼があったにも関わらず知らぬ顔をしていたのだろうと推測できるのだ。
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                上杉謙信像

 
 


 
 
 

武田信玄は本当に上洛しようとしたのかナァ

 今日は武田信玄のことについて記したい。
 とは言っても大したことではないのだが・・・元亀3年(1572)10月3日甲斐の武田信玄が西に向けて出立した。
 兵約27000人というから大掛かりな西上だろう。
 この西上を、信玄が上洛のためだったと言われていることに疑義があるのだ。
 本当に上洛のためだったのであろうか?
 とすると途中徳川、織田、浅井・朝倉、石山本願寺等を相手に戦いつつ京に向かうことになるのだが・・・
 特に台頭著しい織田信長を撃破するとなると、時の信玄ともいえども並大抵のことではなかったはずだ。
 あの慎重な信玄が、本当に上洛のことを考えたのであろうか?

 同年12月22日、「三方ケ原」で徳川・織田の連合軍と戦い圧勝している。
 この時徳川家康は、脱糞しながらホウホウのていで浜松城に逃げ帰って震えるという惨敗を期している。
 この姿を絵師に描かせ終生忘れないようにしたというからよほどのショックだったのであろう。

 信玄は浜松城に逃げ帰った家康には目もくれず、ひたすら西上を続けたことから上洛だったというのだが・・・

 翌元亀4年(1573)武田軍は急に足を止め、引き返すことになるのだが、途中信玄は死んでしまう。
 
 当時の織田信長は京都で覇を誇示していたが、足利義昭主導の反織田勢力に頭を悩ましていたから、信玄はその間隙を狙ったのでは・・・という専門家もいる。

 つまり、北からは浅井・朝倉連合、西には大阪石山本願寺が抵抗し、南では伊勢長島の一向一揆と周囲が敵だらけだったと言っても過言ではなかったから・・・その隙を・・・というわけだ。

 織田信長にとっては東・・・隣国は同盟関係の徳川家康が居り、武田の壁となっているから唯一平穏と言えば平穏だったのであろう。
 しかし、ついに信玄が立ち上がる。
 信玄が西上したのは、将軍足利義昭の要請に応じたのでは・・・というのが説としては最も高いようだ。
 信玄は義昭の要請に応じて信長をを滅ぼし、自らが天下人になろうとしたというのだが・・・・

 でも、近年この説には疑問が投げかけられているという。
 甲斐から織田信長の美濃の本拠である岐阜城を落とすとなると、相当な日数を要することになるだろう。
 あの信長でさえ、少しづつ国を奪取しながら上洛するしか手が無かったのにだ・・・

 如何に武田信玄が名将だったにしても、一気に上洛するには至難のわざだと思うのだ。

 ということで、信玄の西上目的は、徳川領の蚕食にあったというのが有力になっているのだが・・・
 つまり、専門家の見立ては「徳川を圧倒すれば、やがて徳川傘下の武将は武田方につくだろうというのだ。
 そうすれば必然的に徳川領を奪い取ることができるというのだが・・・

 そして、肝心の対織田作戦は、それから後に行うのだと言い、実際信玄の後を継いだ勝頼が徳川領に侵入して版図拡大を図ったのがその証だ・・・という。

 となると疑問が生じるのだが・・・それは後ほど。
 
 もう一つの説は、武田信玄が動けば、織田信長は手勢を徳川救援に向かわせなければならないから、その分織田勢が手薄になるから朝倉・浅井連合軍に勝気が生まれる。
 朝倉・浅井連合軍に信長が敗れるようなことになると、上洛は無理にしても、尾張・美濃を占領し、織田家を滅ぼすことも可能だというのだ。
 しかし、この説も幻に終わっている。
 肝心の朝倉氏が領国に戻ってしまったからだ。
 
 ということで、徳川の蚕食が主目的という説に戻るのだが・・・・
 だって、それが主目的であるならば、三方ケ原で圧勝した勢いで、浜松城に逃げ帰った家康を追撃し撃ち取ればよかったはずだ。
 主を倒せば家来は散り散りだ・・・
 家来が靡くもへちまもあったものではないだろう・・・と思うヨ。
 しかし、実際は見向きもしないで西上を急いでいるのだから、その説は消えるのではと小生は思っている。

 すると、信玄の西上の目的は何だったのであろうか?
 今となっては知るすべもないが、小生の勝手な判断は足利義昭へ向けたジェスチャーでは無かったのでは・・・と思うのだ。
 義昭から、しつこいほど信長打倒の要請が来るものだから格好だけにしたのでは・・・と思う(笑)
 信玄に、それだけの余裕があったとは思わないが、自身の体力や年齢を考えての行動では・・・というのが結論になってしまった(笑)
 どうもゴメンナサイね。
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                    武田信玄像
 

 

 
 

 
 

 

 
 
 
 

 

 
 

前田利家の死の直前

1/20に秀吉の死の間際をUPしたのだが、その秀吉の盟友と言われたのが前田利家だ。
 秀吉から五大老に推された利家だが、秀吉の死後にも豊臣家の嫡男「秀頼」のことを気に留めていたという。
 秀吉は慶長3年(1598)8月18日に亡くなるのだが、利家はそれから僅か半年後の慶長4年3月3日に大坂で亡くなっている。
 病名は不明だと伝わっている。
 利家は、秀吉から後継者である「秀頼」の守り役を仰せつかっている。 
 マァ、遺言なのだが、家康と三成の対立が深まってくる。
 利家は反家康派の中心に担がれていたため、調停工作に心を痛めていたのが死期を早めたという説もある。
 
 家康が見舞いに訪れた時利家は「儂はもう死ぬので、利長(嫡男)のことは頼む」と伝えたという逸話も残っている。

 それから1ケ月後、危篤の際には自ら経帷子を縫い、利家に着せようとするまつ(芳春院)が「あなたは若い頃より度々の戦に出、多くの人を殺めてきました。後生が恐ろしいものです。どうぞこの経帷子をお召しになってください」と言った。
 利家は、「儂はこれまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。だから地獄に落ちるはずが無い。もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、閻魔・牛頭馬頭どもを相手にひと戦してくれよう。その経帷子はお前が後から被って来い」と言って着るのを拒んだというのだ。(古心堂叢書利家公夜話首書)
 一説には死の床でのあまりの苦痛に腹を立て割腹自殺をしたともいうのだが・・・
 
 後に徳山則秀からこの話を聞いた家康は「天晴れ」と賞賛したという(富田景周の『越富賀三州志』)。

 加賀にはこのような歌が遺されている。
 
 「天下 葵よ 加賀様 梅よ 梅は葵の たかに咲く」

 「三葉葵紋の徳川家よ 剣梅鉢紋の前田家よ 梅の花は葵より高い所に咲く」という意味である。
 家康と利家は秀吉の時代、五大老の一番の上座に肩を並べて座っていたが秀吉が死ぬと徳川家が天下をおさめる大将軍となった。
 前田家は大々名であるとはいえ、徳川家の家来にならなければならなかった。その時の運に対し、加賀の人々はその口惜しさを歌ったと伝えられているのだ。

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                  前田利家

石田三成の逸話

 前回UPした明智光秀と同じく、歴史ファンにもあまり好印象を与えていないのが「石田三成」だろう。
 しかし、小生はちょいと違うと思うのだ。
 子供の時秀吉に仕官し、その後秀吉に取り立てられて一国一城の主に駆けあがった三成。
 他の武将と違って、秀吉に相当な恩義を感じていたのではと思っている。
 それが秀吉死後の「関ケ原の戦い」だと思うのだが・・・・

 そして今回は、その石田三成の逸話の話だ。
 二つほど記すがいずれも知られている話なので知っている方はスルーしてください。

〇 三献の茶(秀吉との出会いの話)
 三成の逸話の中でも、最も有名なのが、この逸話ではないだろうか?
 「砕玉話(武将感状記)」を要約すると・・・
  
  長浜城主となった秀吉は、ある日、領内で鷹狩をしていた。
  その帰途、喉の乾きを覚えたので、ある寺に立ち寄って茶を所望したという。
  対応した寺の小姓は、まず最初に大ぶりの茶碗にぬるめの茶を一杯に入れ
 て出した。
  喉の乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干したあと、もう一杯たのんだ。
  次に小姓は、やや小さめの碗に、やや熱めにした茶をだした。
  秀吉が「アレッ」と思い、試しにもう一杯所望したという。
  すると小姓は、今度は小ぶりの碗に熱く点てた茶を出したというのだ。
  『相手の様子を見て、その欲するものを出す』、この心働きに感じ入った秀吉は、
 その小姓を城に連れて帰り家来としたというのだ。
  この小姓が、その後累進し、五奉行の一人、石田三成となったという逸話である。

 喉の乾いている相手に、まずは飲みやすい温めの茶をたっぷり出し、渇きが癒えた後は熱い茶を味わってもらう・・・この逸話は気配りの進めとして、広く語られている。

三献茶の舞台となった「ある寺」とはどこか、ということなのだが、現在のところ大原・観音寺と古橋・法華寺が有力であるというのだが、観音寺の方には「三成茶汲みの井戸」がある。

 ただし、この逸話が真実か?創作か?、ということになると大いに疑義があるという。
 逸話が載っている史料が、いずれも江戸期の俗書の類であること、三成の息子が記した寿聖院「霊牌日鑑」では三成が秀吉に仕えたのは、十八才の時に姫路で、となっており、この逸話とは符合しないからだ。
 この逸話は、江戸期に創られた他の多くの三成の話と同じく、三成の出自を寺の小僧と貶めるためで創られたという説もあるというのだ・・・

 滋賀県の長浜駅前には、この三献茶に因んだ三成と秀吉の像がある。

〇 一文無しになった話
  一つ目の逸話として「三献の茶」を記したのだが、気配り上手の三成の印象は強い。
 幼少のころから人並み優れた才知と機知きがあったのであろうが、金遣いという
 ことになると上手くはなかったようである。
  島左近を高録で召し抱えた時、「さすが治部少よ」と評判になったものの、盟友の
 「大谷吉継」だけは「高録を給すれば良いと思ったら大間違いだ。むしろ少ない方が、
 主人の心が通じ、一命を投げ出そうという気持ちになるものだ」と苦言を呈したという。
  
  関ヶ原の戦いの直前、三成は財務に強かった「増田長盛」に手紙を書き窮状を訴え
 たという。
  「金銀を遣うのは今である。自分は手元にある金は全部使ってしまい困っている。
 なんとかできぬか」という内容だったという。

 三成の言葉には偽りはなかったという。
 それは西軍が敗れ、東軍が三成の居城「佐和山城」を接収し、城中をくまなく探した
 ものの一銭の蓄えもなかったといのだ。
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       石田三成
  
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長浜駅前に立つ、秀吉三成「出会いの像」

明智光秀の連歌の話

 先日、知人等と一杯飲みながら俳句の話をしていた。
 俳句につてはそれほど興味はないのだが、次第に話が逸れ始めて、光秀が本能寺の変を起こす前に「連歌」を通じてそれらしきことを口にしていたという方向に行ってしまった。
 みんな歴史が好きな連中なので自ずからその方向にいったのであろうが、それにしても皆博学なのには驚いたのだ。
 そこで今回は、この光秀の「連歌」のことについてUPしたいと思う。

 明智光秀の信長に対する謀反は色々と推測されているのだが、後年一番多く語られている私恨によるものとの説だ。

 この「連歌」のことなのだが、出陣の前に行う儀式みたいなものだと言われている。
 そして、光秀が「本能寺の変」で信長を討つ前に呼んだとされる「連歌」があまりにも有名なのである。
 だから歴史ファンは小生が改めて言うほどのことはない位良くご存じだろうと思う。

 天正10年(1582)に光秀は信長から「秀吉の援護をせよ!」と命令を受けた。
 当時の秀吉は中国の毛利氏と対峙していたのだが、攻略は困難を極め再々再四信長の出馬を要請してきていた。
 だが当時の信長も全国各地に手を広げていたので、おいそれと動くわけにはいかず、たまたま空いていた光秀に援軍に行けと命令したらしい。
 しかし、命令された光秀にとっては気分が良かろうはずはなかった。
 それは、秀吉が自分より身分として下位にいたことだ。
 その下位の秀吉の援軍だと言われたことは、秀吉の指揮を受けるということに繋がるので、光秀の気分は最悪だったに違いない。
 当時の武士にとって、これほど自尊心を気付付けられることは無かったろうと推察される。
 
 そして、この頃の信長の光秀に対するイビリ方が尋常ではなかったというのだ。
 例えば、信長が武田氏を滅ぼし時のことだ。
 信長は、武田氏滅ぼしたことで甲州と信州を治めることとなったのだが、その祝賀の時光秀が信長に対して「めでたいことです。われら年来の苦労が身を結びましたなぁ」と祝いの言葉を述べたことがあった。
 しかし、これが信長の燗に障ったらしく、「何を言うか!お前がどこで骨をおり、手柄を立てたのか!うぬぼれるのもいい加減にしろ!」と一座に居並んでいた家来集の前で散々殴ったというのだ。
 その他信長が光秀に対するイビリは相当あったということだが・・・今回は省く。

 光秀にとっては堪ったものではない。
 お世辞の一つでも言いたくなる状況でもあったのだが・・・逆の目に出てしまったのだ。
 だから秀吉の援軍命令とも重なって我慢の限界が来たと言っても良いのでは・・・と思うのだ。
 そして、本能寺に宿泊している信長を討つ決意を固めるようになる。

 光秀は出陣の準備をしながらも、頭の中で「信長を討つ」との思いが段々と募り、一応儀式である「連歌」会を催すことにする。
 場所は愛宕山の西の坊・威徳院であったが、招かれたのが連歌の第一人者と言われていた「里村紹巴(さとむらじょうは)、院生の行祐であった。

 そこで歌われたのが
    光秀の 「時は今 天が下しる五月哉」
    行祐は 「水上まさる 庭の夏山」
    紹巴は 「花落つる 流れの末をせきとめて」
 
から始まり、百句まで詠まれたという。

 この反逆は「愛宕山百韻の事件」とも呼ばれたという。
 
 光秀の句の、「時」とは土岐を示し、光秀が土岐氏の出であることから、光秀自身を指しているという。
 そして「天が下しる」は。天下を治めることだというのだ。
 ということは、゛土岐氏の光秀が、信長に代わって今こそ天下をとるときだ゛と歌ていると言うのだ。
 
 これから大きな戦いを控えている光秀の士気の高さと、納めるであろう獲物の大きさが良く表れているという解釈だ。

 ちなみにこの歌を聞いた紹巴は、光秀の決意を知り驚いたというが・・・さてその真相は?・・・如何なものか。

 マァ、小生の思いは、後世の後付けではないかと思っているのだが・・・・

 
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                     明智光秀
 
 
 
 



 
 
 

豊臣秀吉の死の直前は秀頼の心配だけだった

 小生が子供の頃の戦国時代の英雄と言えば羽柴秀吉であった。
 なぜ豊臣秀吉ではないのか?と問われれば、「天下人になるまでの秀吉が好きだから」と答えることにしている。
 天下を取るまでの秀吉は信頼する主君信長を一途に頼り、誠心誠意忠誠をつくし、自分の持てる能力を発揮しているところに興味があったからだ。
 豊臣性を名乗った秀吉はどうしても好きになれないのだ。
 特に晩年の秀吉は「狂っていた」と言っても過言ではないような気がする。
 これ、あくまでも小生の気持ちなので秀吉ファンの皆さんには許していただきたい。
 
 前置きが長くなったが・・・さて晩年の秀吉のことだが、この頃の秀吉は幼子の「秀頼」のことで頭がいっぱいだったようだ。
 マァ、このことが秀吉を狂わせていたかもしれない。

 慶長3年(1598)8月10日頃から秀吉は意識が朦朧となり、その後混濁状態が続いたという。
 そして18日に伏見城で死亡している。このとき年齢62歳だったという。
 その頃から遡ること2月頃から秀吉は体調が怪しくなり、体の変調が度々襲うようになる。
 失禁や神経痛で腰が立たなくなったというから相当の衰弱振りだ。
 甥の秀次を切腹させた頃から秀吉の判断力は弱くなっていたのではと言われている。

 秀吉は晩年伏見城で生活(養生)していたが、体調を崩した時は、当時の名医と呼ばれた医師達が常駐して看病している。
 そして、来日していた宣教師のロドリゲスは「秀吉は衰弱しきっていて、もはや人間とは思えなかった」と書き記していることから、俗にいう「骨川筋衛門」状態だったのであろう。

 8月9日に、朝鮮徴兵についての遺言を徳川家康と前田利家にした後、秀吉は錯乱状態に陥ったという。
 家康を含む五大老と言われる面々は「今後秀吉が何を言っても一切無視しよう。そして、以前の取り決め通り行うことにしよう」と決定したというのだ。
 秀吉の面前では「ハイ、ハイ」と聞いておいて、回復してから確かめることも決めたというから相当酷い状態だったのであろう。
 この頃の秀吉の頭の中は、嫡子「秀頼」のことしかなく、将来の「秀頼」がどうなるか・・・という一点のみが心配で心配でたまらなかったようだ。
 はっきり言えば「秀頼」のことしか頭になかったのでは・・・と思うほどだ。
 その表れが「秀頼」が何者かに襲われて殺されるのでは・・・という思いで、大阪城の城壁の補強工事に着手している。
 そのことを口にしたその日から工事を着手させ、直ちに1万7千戸の商家や民家を立ち退かせているのだ。

 このときの状況を宣教師パシオがイエズス会総長に送った書簡(報告書)では「秀吉は狂乱状態となってバカげたことをあれこれ言っている。しかし、秀頼のことだけは意識がはっきりしている」とある。

 秀吉は、数万人もの人を投入して突貫工事で押し進めたが、結局新しい大阪城を見ることもなくこの世を去っているのだ。
 秀吉の死亡原因については諸説あって、どれが当てはまるのか判然としないが、ヒョッとして噂になったすべてが要因では・・・と思われる。
 「肺結核」、「気管支炎」、「赤痢」、「老衰」等々である。
 マァ衰弱が激しかったことだけは事実であろう7.
 『太閤様が危ないらしい』という噂は世間に広まっており、騒然としていたというから相当あたふたとしていたことは間違いないだろう。
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信玄VS謙信の違い 戦は結果なのか経緯なのか?

 久しぶりのUPです。
 休んでいる間に次の題材は何にしようかと考えることが多かったのだが、最後には謙信か信玄にたどり着いてしまう。
 小生にとっての戦国時代を象徴する武将は、武田信玄と上杉謙信に絞られてしまう。
 それほど武名高い二人なのであるが、性格や戦法は両極端の二人でもある。
 
 二人に関しては次のような話が伝わっているという。
 北信の雄と謳われていた「村上義清」という武将がいた。
 この義清の領地を武田信玄が奪ったのだ。
 義清は他の豪族と共に信玄のライバルである上杉謙信に助けを求めた。

 謙信は村上義清や豪族に対して、信玄との戦況を尋ねた。
 尋ねられるままに状況を話したところ、謙信は次のようなことを言ったというのだ。
 「そうか、信玄は初戦や二度目の戦には負けても差し支えない思っているようだ。そして、最後は己が勝てばいいと思っているやり方のようだ。だが俺の戦のやり方はは違うのだ。
 最初から勝って勝って勝ちまくらなければならないのだ。そうでなければ戦の意味がないのだ」と言い放ったという。
 
 これは、勝ったという結果を大事にする信玄と、勝つまでの経過にこだわる謙信・・・相反する二人の性格が表れていると専門家は言うのだ。
 
 そして、戦争絵巻に出てくる「川中島の戦い」が始まるのだ。
 都合五たび戦っているが、その都度信玄は謙信の攻撃を巧みにかわし続け、決戦までとは至っていない。
 
 
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                     信玄VS謙信一騎打ちの像
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                       戦国甲信越

戦国時代に合戦で使用された小道具

 戦国時代、合戦に使用された必要な小道具は種々雑多であった。
 特に大将の小道具は「大将の六具」と言われる位大事なものとされたらしい。
 身に着ける「鎧」、「太刀」、「采配」、「軍配」、「鞭」、「扇」を指している。
 
 「合図の六具」とは、「鉄砲」、「のろし」、「旗」、「法螺貝」、「鐘」、「太鼓」だと言われている。
 
 これらは、いわば影の主役なのだが、合戦の勝敗にも関係するものなので、武将たちは大切に取り扱ったという。
 中には縁起担ぎの武将もいたらしい。
 
○ 采配、軍配
   采配はご存知のように、棒の先に短冊状の布を何枚も取り付けてヒラヒラさせたものである。
   端に紐が付いていて、鎧の鐶(かん)に通して手から離しても落ちないようにしていた。
  
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 軍配は、采配の代わりにも使われた。
 大相撲の行司が持っているのがそれだ。
 正式な呼び名は、「軍配団扇」という。
 薄い鉄や皮で作られているので、敵の太刀や矢玉をも避けることに役立ったという。
 また日取り図や、潮の満ち引きの時刻を書き込んだりして、戦場での即座の戦略に活用したともいう。
 軍配に関して特に有名なのが、川中島の戦いだろう。
 武田信玄と上杉謙信の戦いだが、信玄が謙信の振り下ろす三太刀を軍配で防いだ伝説だ。
 
 余談だが、謙信はもっぱら三尺の青竹を采配代わりに使用していたという。
 青竹で鞍の前輪を激しく叩きながら軍兵を指揮したが、これは謙信自身の足が若干不自由だったので、杖代わりに使っていた青竹がイザというときの指揮棒になっただけだという説もある。
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○ 陣太鼓、陣鐘、法螺貝
  合戦中は指示を与えるために声を振り絞って命令しても、兵には伝わりにくかった。
  喧噪でそうなるのだが、そんな時重宝されたのが「陣太鼓、陣鐘、法螺貝」である。
  つまり、高い音が出て鳴り響くので戦っている兵士たちには伝わり易かったと
 いうことだ。
  兵士たちは、あらかじめ打ち合わされている音の出し方で、大将がどのような指示
 を出しているかを受け取めるのだ。
  兵士たちは、それを聞き分けて次の行動に移るというわけだ。
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               陣貝(法螺貝)・長野市の真田宝物館所蔵

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               陣鐘、長野市の真田宝物館所蔵

○ 旗
  合戦場での「旗」は大将や軍そのものの象徴であって、「わが軍の大将はここにあり!」を明示する必需品ということだ。
  「出兵」のことを「旗を出す」と言われているのもこれからきているという。
  前回もUPしたが、信玄の「風林火山」や謙信の「毘」、真田の「六文銭」、家康の「葵」等々、大将の哲学、人生観が溢れているのが旗であった。

 (以上、奈良本辰也先生監修の“戦国武将ものしり辞典”などから) 

信玄・謙信の軍旗「風林火山」と「毘」

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 武田信玄の軍旗。
 あまりにも有名な旗である。
 これはご存知「孫子」の書から『疾如風徐如林侵 掠如火不動如山』という一句をとり、紺地に金で染めた旗印だ。
 他にも、戦勝祈願を行った神社の名前「諏方南宮上下大明神」などと記したものがある。

○ 其疾如風~(その疾きこと風の如く)
○ 其徐如林~(その徐なること林の如く)
○ 侵掠如火~(侵掠すること火の如く)
○ 不動如山~(動かざること山の如く)
○ 難知如陰~(知りがたきこと陰の如く)
○ 動如雷震~(動くこと雷の震うが如し)








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 上杉謙信の軍旗
 「毘」の一字を記した軍旗でこれまた信玄と同様有名である。
 謙信が深く信仰していた“毘沙門天”の一字を引用したもので、「毘」の旗の守護を仰ぎながら、戦場に臨んだのだ。
 このほかにも、謙信は「龍」一字を記した軍旗もつくっている。
 これは「かかり乱れ龍」の旗と呼ばれるもので、総攻撃の際にはこれを押し立てて突撃命令の合図としたという。

戦国時代の軍旗・指物・馬印など

 映画やTVドラマでの戦国時代の戦場。
 ちょいと想像すれば賑やかに感じるほどの場面が浮かぶことであろう。
 旗印があれば馬印もあり旗指物まである。
 実際に戦せず対峙しているだけであれば何かの祭りの如くの場面ではなかろうか?
 つまり殺伐とした戦場を華やかにしているのは「軍旗」「指物」「馬印」があるからだと云っても良いくらいだ。
 しかし、これらは決して飾り物ではないのだ。
 
○ 家紋というものは、その家をあらわす印だから武将が誰かが分かる。
○ 旗印というものは、だれが軍勢を率いているのかがひと目でわかる印だ。
○ 馬印というものは、その軍勢の大将の居場所をあらわす印だ。
○ 旗指物というものは、軍旗や幟の総称で、旗印も含まれるが武将が誰かも
 一目で理解できる。
 
 このように自分の存在を示すための「印」なのだが、決めるのは自由で別に定義づけはなかったようだ。
 武将が気に入ったものを使用したものだから個性的なものも多い。

 ではなぜそのようなものを使用したのか?
 戦国時代というものは「下剋上」の時代だ。
 槍一本、刀一振りで、ひょっとすると一国一城の主になれるかもしれない世の中だ。
 家柄にとらわれることなく、個人の力や能力で城の主になれるのだから「男の血が騒ぐ」というものだった。
 豊臣秀吉はその中でも筆頭株であろあろう。

 だから「戦働き」で活躍したものが誰かを、周囲の武将たちに印象付けるためにシンボルが欲しかったに違いない。
 そのシンボルが指物だったのだ。
 
 それまでは、一騎打ちの戦いが多かったら勝てば誰かがすぐわかる。
 しかし、集団戦法になってくると戦場そのものが広がり、誰が誰だかわからなくなったのだ。
 いくら手柄を立てても目立たないわけだから「自分」というものを売り込むしかないというわけだ。

 戦場というものは鎧兜を身に纏(まと)っているので、大体が地味なものが多いのだから目立とうとしても並みの努力ではなかったことであろうことも言える。
 しかし、戦場では死ぬか生きるかの場でもある。
 男として死ぬ時も華々しく目立って死にたいというのもあったと思われる。
 だから武将たちは自分の姿を美しく飾り、自分自身の士気を高めるるためにも必要だったのではないだろうか?
 もし戦功でも上げれば一国一城の可能性があるのだから・・・より引き立てようとしての知恵ではないだろうか?

 軍旗は源平の時代から存在した。
 平家はご存知の通り、「赤旗に経文」、源氏が「白旗に八幡神の神号」である。
 これは敵味方の区別から来ているのだが、だんだん付加価値がつくようになった。
 神仏の加護を得ることによって、味方の士気を高め、敵方を威嚇するのである。
 そうしたことから、戦国時代、様々な軍旗、旗幟が登場することになる。
 
 指物とは、具足の背中に設けられている指筒の中に差し込む旗のことで、あまり大きくはなかった。
 大半は正方形を半分にした「四半」と呼ばれた小形の旗が用いれられたという。
 自己宣伝が目的なので邪魔にならない限り最良の工夫がなされたようだ。

 磔、ドクロ、位牌型まであった。
 
 馬印は、馬に乗った大将や侍大将のお供の足軽が持った。
 主人用のもう一つの旗である。
 旗と言うより飾りとしての印象が強く、形態や素材も種々雑多だ。
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       鳥居強右衛門磔姿の旗指物(落合左平次道久背旗)

 
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戦国時代の剣豪~上泉信綱

 来春、剣術「新陰流」の創始者で戦国時代の兵法家、上泉信綱を主人公とした特別ドラマ「剣聖上泉伊勢守信綱物語(仮称)」が放映されるという。
 BS放送で、信綱役は村上弘明だというが、さてどんな仕上がりになるのだろうか?
 上泉信綱は剣豪というより「剣聖」と言った方が相応しい人物であり、TVドラマも「剣聖」と付けられている。

 上泉信綱は、戦国時代の剣豪だが、史料上には、山科言継の日記『言継卿記』に、永禄12年(1569)1月15日 - 元亀2年(1571)7月21日まで32回みえているといわれる。
 これによると「大胡武蔵守」として多く現れ、「上泉武蔵守(信綱)」などとあるか、現在でも言われている「伊勢守」とはみえないという。

 上州の大胡氏の一族である上泉家に生まれているというのだが(生年は推測で良くわかっていない。
 没年には天正10年(1582)などの諸説があるがこれまた判然としないらしい。
 名前の読みは「かみいずみ」または「こういずみ」と云うのだが・・・本姓は藤原氏で、藤原秀郷を祖とするとされる。
 初めのうちは「秀綱」と言っていたらしいが後に「信綱」と改名したとされる。

 上泉信綱は「伊勢守」を称したとされているのだが、資料ではその事実はなく、『言継卿記』には「武蔵守」の記述があり、本人も武蔵守を称していたらしい。

 兵法は「神道流・陰流」を学び、その奥義に達し陰流から「奇妙を抽出して」、新陰流を興したといわれている。
 また、「ふくろしない」という割った竹を束ねたものに、獣のなめした皮を貼り付けた、稽古道具を開発している。
 これが現在の竹刀の原型と言われているのだ。
 これ以前は稽古でも木刀を使うのが一般的であったため、けがや死亡するという事故が絶えなかったらしいが、この袋竹刀の導入によって稽古中の大怪我や死亡事故などの問題が改善されることになったという。
 
 若いころ、関東一円を遍歴して剣術の修行をしたと伝わるのだが・・・
 先に記したように、新陰流と呼ばれる新しい兵法を創始しているが、後に高弟の柳生宗厳・その息子宗矩に伝わる。

 上泉信綱の伝説的話がある。
 信綱一行が尾張のとある村に着いた時、賊が村の子供を人質に取って立て篭もっている現場に遭遇した。
 村人たちは子供を助けようとするものの、下手に動けば子供は興奮した賊に殺されかねず、手を出しかねていた。
 これを見た信綱は、居合わせた僧侶から袈裟を借り、自身の髪の毛を剃り、握り飯しを手に持った僧の姿で賊の前に進み、「そなたも子供も腹がすいているだろう。
 どうかこの握り飯しを食べてはくれぬか」と言い、にぎりめしを賊に向かって放り投げたという。
 賊が握り飯しに気を取られると、すかさず信綱は男に駆け寄りと、あっというまに賊を取り押さえた。
 これを見ていた僧は感動し、貸した袈裟をそのまま信綱に贈ったと言う。

 先述のように剣術の修行のため関東一円を歩きまわっているが、後に上野(こうづけ)の長野業正の家臣となっている。
 十数年に渡って武田信玄との戦いで活躍したという。
 その時信玄は、信綱の力強い働きに感服し、武田家への士官を勧めたかこれを固辞している。
 その後、上洛し、正親町天皇の前で剣の妙技を披露し、名声を高めたというのだ。
 時の将軍足利義昭に召され「天下一」の称号を貰ったという。
 信綱の高弟に当たるのが先述した柳生宗厳である。
 彼・宗巌は徳川家康に新陰流の秘伝を教えたという。
 家康は宗巌に徳川家の兵法師範になるよう求めるのだが、高齢を理由に断り代わりに息子の宗矩を推し、これが認められることになる。
 
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        前橋市・上泉自治会館前の上泉信綱像・東京新聞から
 
 
 

戦国時代の豪傑・剣豪~塙団右衛門

 出自については正確には分かっていないと言われており不詳である。
 尾張国の人で、同姓であるため、織田氏の家臣・塙直政の一族か縁者とする説もあるが、遠州横須賀衆で浪人となった須田次郎左衛門という人物が本人であるという説や、上総国養老の里の出身で千葉氏の家来だったが、小田原北条氏家臣で「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成に仕えたという説、相州玉縄の住人で玉縄城主となった北条左衛門大夫の徒士となったという説もあり、出身地や素性も定かではない。

 前歴についても不詳であり謎に包まれた武将である。
 猟夫より身を起して織田家臣の坂井政尚の馬卒となり、功をあげて織田信長に士分として取り立てられたが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖のために人を殺めてしまって放逐され、浪人となって諸国放浪したという説もあれば、前述のように北条綱成の家臣であったが、小田原合戦の後に浪人となったとする説もある。
 小早川隆景の家臣瀧権右衛門に仕えて200石の知行を得ていたが、浪人となって貧窮し、豊臣秀次の家臣木村重茲の小姓達が憐れに思い、衣類を揃えてやって次の雇先加藤氏に口添えしたという説もある。
 伝説的な話も多い武将なのだが、小生は後に講釈師が面白おかしく語ったものにさらに尾ひれがついて伝わったのでは・・・と勝手に解釈している。

 話を戻して生活に困窮していた塙団右衛門は、四国伊予松山の城主加藤嘉明に仕えることになる。
 与えられた役職は鉄砲大将であったという。
 しかし、この団右衛門、自己中心的で独りよがりのところもあってか同僚と暫し衝突する面も多々あったという。
 そして、手柄を得ることが常に頭にあったようで出過ぎた振る舞いも多かったという。
 それが後の関ケ原の戦いのときに出てしまった。
 戦場で一番乗りを果たしたいばかりに足軽に命令を下した後、自身も槍を持って一騎掛けに敵陣に駆け行って大暴れしたのだが、嘉明に命令違反で叱責されるや頭に血が上り出奔してしまうのだ。

 以来一匹狼で浪人生活を余儀なくされて放浪していたのだが、大阪冬の陣で豊臣方に加担することになる。
 徳川方に夜襲をかけるのが得意で「夜討大将塙団右衛門」という木札をばら撒いて引き上げたことで、一躍有名になったのだが、大阪夏の陣で討ち死にしてしまう。

 後藤又兵衛といい塙団右衛門といい、力はあるのだが残念ながら同僚と仲良くという気持ちが薄かったことで、これが致命傷となり同僚に疎まれたのであろうと思う。
 それが一国一城の主としてではなく、豪傑扱いで後世に伝わったのであろう・・・と・・・小生は勝手に思っている。
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戦国時代の豪傑、剣豪と云えば?

 戦国時代と言えば一国一城の主となるべく腕自慢、力自慢の豪の者が割拠した時代でもある。
 小生の頭の中にある豪傑で思い出すのは、後藤又兵衛、塙団右衛門、可児歳三、上泉信綱、柳生宗厳・宗矩親子、塚原卜伝等々いる。
 剣術の技を磨いて諸国放浪していた宮本武蔵や佐々木小次郎などもいる。
 その他にもいると思うが割愛させて頂くとして、今回は後藤又兵衛基次ついて簡記したい。

○ 後藤又兵衛(基次)
  後藤家の先祖は播磨国の地侍で又兵衛はそこで生まれている。
  又兵衛は幼いころ黒田如水に養われたと言われているのだが、実際は人質だった
 との説もある。
  その後、如水の息子長政に仕え、侍大将として秀吉の九州征伐、文禄の役、関ケ
 原の戦いなどに従軍している。その功もあって大隈1万5千石の城主になっている。
  その後主君との折り合いが悪くなってすべてなげうって出奔してしまう。
   ~これには諸説があってよく分かっていないといった方が良いようだ~
  基次は中々仕えることができなかったが、これも主君長政が全国に協力状(基次を
 召し抱えないこと~奉公構といって再仕官の妨害行為)でもって妨害したとの説もある。
  このため基次は京都に引きこもったと言われているが、やがて豊臣家と徳川家の
 対立が深まると、基次は豊臣家に誘われて大坂城に入城する。
  豊臣秀頼に信頼された基次は牢人衆の筆頭として豊臣軍を指揮し、徳川幕府軍と
 激しく戦っている。
  基次は智勇に優れ、大坂方の将兵の信望を集めた。
  翌年、夏の陣でも基次は活躍するも、迎撃のために出陣した後藤勢は、運悪く発生
 した濃霧のせいで友軍の到着が遅れたため孤立してしまうのだ。
 基次は徳川方の水野勝成や伊達政宗等の大軍を相手に奮戦、壮絶な討死を遂げ
 てしまった。
  家臣が記した史料によると体格の良い大男だったという。
  武具や服装には拘りを持っていて、家臣や与力たちが真似をしたともいう。
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                  後藤又兵衛(基次)
 

織田信長が黒人を家臣にした話

 信長の逸話の中でも有名なのが黒人を家臣にした話のことだ。
 天正9年(1581)にイエズス会の大物ヴァリニャーノが日本巡察にやってきた。
 彼は織田信長に謁見しようとして京にやってきたのだが、そのとき彼が連れていたのが黒人の奴隷であった。
 信長は京の本能寺に宿泊していたのだが、京の町は大騒ぎとなったという。
 当時の日本はどうにか白人の免疫はできつつあったのだが、黒人となるとそうはいかず、一目でも肌の色の違う人間を見たいとの思いから見物に押し掛けたのだ。

 この噂は本能寺にいた信長にも伝わった。
 好奇心旺盛な信長は一目見たいものと、ヴァリニアーノに黒人もつれてくるように命じた。
 信長は一目見たとき、この黒人は身体中墨でも塗りたくっているのではないのか?と疑った。
 そこで家臣に命じ、洗い場において体を洗うよう言いつけた。
 信長は家臣の洗っている黒人の肌がますます黒光りしてくるのを目の当たりにして、初めて肌の色が黒いことを信じたのだ。
 新しいものに興味を示す信長がこのまま見逃すことはない。
 当時のイエズス会では、奴隷を持てるという人物は高い地位にある者に限られていたらしいのだが、信長に譲るよう言われたヴァリアーノは仕方なく信長に献上することになる。
 信長は黒人の名前を「ヤスケ」と名付け、どこに行くのにも引き連れて行ったという。
 勿論戦場にも連れていったという。

 本能寺の変のころには信長も「ヤスケ」にはあまり興味を示さないようになっており、嫡男信忠に譲られていたという。
 そして、「本能寺の変」になるのだが、信忠の居た二条御所も明智光秀に襲われることになる。
 「ヤスケ」も主君信忠を守って勇敢に戦ったらしいのだが、捕らえられてしまう。
 光秀は「ヤスケ」には興味を示さなかったようで、寛大な裁きで「ヤスケ」は死罪を免れ市中に赦免させられる。
 「ヤスケ」のその後については記録が全く残っていないようで不明である。
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             南蛮屏風・宣教師に従う黒人も描かれている。
         織田信長の黒人家臣「ヤスケ」もこのようにして日本に来たのだろうか。

宣教師ルイス・フロイスから見た信長像

 日本人にとっての戦国武将・織田信長像は「傲岸で自分以外の者は信用しない」と云われるほど尊大だったとの印象が強いと思っている方が多いと思う。
 そして、事実そのような武将だったらしい。
 それでは外国人から見た信長像はどうだろうか?
 今回はポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが見た信長について述べたい。
 これらの話は有名なものなので、詳しい方はスルーしてください。
 信長は、フロイス以外にもイタリア人のオルガンチーノ、ワリニャーノといった宣教師達ともよく合っていたという。
 彼ら宣教師たちは書簡や報告書で信長のことを本国に伝えているのだが今回はフロイスに絞って簡記したいと思う。
  
 織田信長に初めて会った外語人がポルトガル人宣教師ルイス・フロイスである。
 彼は、信長に最も頻繁に会った宣教師でもあるのだ。

 フロイスは永禄12年(1569)に初めて織田信長に対面している。
 これは日本でのキリスト教の布教を認めてもらうために謁見したのだが、対面した場所はその時普請中だった二条城の現場だったというのも興味深い。
 同年6月1日付で書かれた彼の書翰で、信長を次のように伝えている。

 この尾張の国王[織田信長]は、37歳長身痩せ型で、髭はほとんどない。
 声はよく通り、大変勇敢にして、不撓不屈であり、軍事訓練に励んでいる。
 正義や慈悲を重んじ、尊大で名誉欲が強い。
 秘密裏に決断し、戦略においては抜け目がない武将だ。
 規律や家臣の進言にはわずかか、若しくは殆んどまったく耳を傾けず、諸人からきわめて畏敬されている。
 酒は飲まず、誰にも盃を与えるようなこともほとんどない。
 家臣の待遇については厳格で、日本のすべての国王・領主を見下しており、自分の家人や家臣であるかのように肩の上から彼らに話をする。
 
 全ての者が絶対君主に対するかのように彼に従っている。
 優れた理解力と明晰な判断力によって、神仏やすべての異教的占いを軽蔑している。
 名目上、法華宗徒であるように見せているが、宇宙の創造者や霊魂の不滅はなく、死後には何も存在しないと公言している。
 彼は大変に清潔で、自身の事業の采配とその完璧さに対して思慮深くある。
 話をする際には、冗漫や長い前置きを嫌い、領主であれ何人も、彼の面前では刀を携えることは決してない。
 また、常に二千名もの小姓とそれ以上の騎馬を引き連れ、身分の低い家臣と話をし、冗談も言っている。
 彼の父は尾張国の領主にすぎなかったが、彼は極めて巧妙な策謀により、四年のうちに17、8ヶ国を支配下におき、この五畿内及び他の隣国を7、8日で征服した。

 ということだが、このフロイスの信長評で、我々日本人は信長の容貌や性格までも知ることができるのである。
 痩せ型で髭が少ないあたりは、今に残る信長の肖像画[織田信長像(長興寺蔵や神戸市立博物館蔵)]によく当てはまっていると思うのだ。
 また、信長の独裁者ぶりが窺える反面、如才ない部分もあったようで、信長の人となりがよく伝わる記事であると思うのだがいかがだろうか?
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戦国時代の「城」は武将の象徴と政務の中心

 織田信長のことについて何度かUPしたのだが、今回は先月発生した熊本地震のおかげでひどい損害を受けた「熊本城」に関連して「城」についてUPしたい。
 その前に「この熊本城」のことなのだが、別名「銀杏城」という愛称があり市民から親しまれていたという。
 銀杏城」という名の由来になっているのは、城内に植えられた銀杏の木である。
 これは、籠城戦になった時の食料確保のため、築城時に加藤清正がこの銀杏を植えたという伝えがあることからきている。

 この熊本城は、加藤清正が慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、7年の歳月をかけて同12年(1607)に完成した城である。
 城の規模は東西1.6km、南北1.2km、周囲5.3km、城域約76万平方メートルある。
 北から西へは坪井川を引いて堀とし、東と南は数層の石垣をめぐらし、その複雑で堅固な構造は、清正の実戦体験から生み出されたものといわれている名城だ。
 しかし、天守閣、櫓、石垣等などが大規模に損壊したことは残念であるが、復元には数十年を要するのではと言われている。

 本題に入るのだが、古代から城が築かれ始めその数4万ともいわれているぐらい多いのだ。
 そして、その殆どが戦国時代に築かれている。
 戦国武将たちが競って築城した目的はただ一つ「軍事拠点」をつくることにあった。
 防御機能を最大限に発揮するためにはどこに築くのが良かったかというと、それは山の頂上だということだ。
 ここならば、攻撃されにくくて守りやすく、手っ取り早く作れるということだ。
 だから戦国時代の初期までは「山城」が多かった。
 これは谷が周囲にあり、頂上まで急峻になっていて、その峰に作る城こそが理想だったということだ。

 しかし、武将が常時頂上の城に居住していたわけではなく、平穏な時は麓の屋敷で生活していたことはご承知の通りだ。
 だから城郭といっても、大したことはなく築城のための土地とその周囲の土地、それにささやかな建物であった。
 そして、戦国時代も後期になってくると、「山城」は少なくなってきた。
 徐々に丘陵地や平野に作られる「平山城」が多くなったのだ。
 理由としてはいろいろあるそうだが、戦火が全国に拡大して、山頂にある軍事要塞と麓にある居館を往き来していたのでは即応できなくなったというのが本音だろう。

 おかげで「城」そのものは巨大化してきたのだ。
 軍事的要塞と大名としての居館、それに威厳を備えようとすると自ずから巨大化せざるを得なかったことだろうことは推測できる。
 威厳という意味では天守閣を作って近隣諸国の大名、領民への示威行動だったことも頷けるのだ。
 
 話は戻るが熊本城の甚大な被害について、復旧は数十年だ十数年だ・・・とやかましいが、果たしてどのくらいの年数と金で復旧できるのか・・・・他人事ながら心配ではある。
 石垣積みは「穴太衆」が有名だが、現代でも石組みについての匠がおられるようなのでその点は心配はなさそうではある。

 穴太衆とは?――石組みのプロ集団で、近江一円で活躍していた。
 戦国時代以降、石垣のある城が一般的となり、穴太衆は織田信長の安土城をはじめ、 豊臣秀吉、徳川家康、加藤清正ら全国の大名から石垣づくりの要請を受けている。

 
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                      在りし日の熊本城・HPから

※  なお、熊本城HP上で「一口城主」ということで寄付を募っています。
【お願い】
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織田信長の戦への取り組み方

 織田信長といえば一生のうち100回近い戦をやっていることは述べたのだが、この信長、戦のことについては普段からいろいろ考えていたという。
 武将の子供だけあって当時の遊びは、ほとんどが「戦」と関係のある遊びだったという。
 棒ふりから始まって水遊び、木登り、駆けっこから石投げ等々・・・・「戦」と絡ませたといわれている。
 槍の長短の争いもそうだ。
 そのような時、種子島に鉄砲が伝来した。
 その噂を聞いた信長は、将来の戦はこの鉄砲での争いが主体になると考え、さっそく取り寄せるとともに自ら「橋本一巴」に師事して鉄砲の技術を会得しようとしている。
 
※ この橋本一巴のことだが、信長公記』によると、信長が16,7歳のころ、弓を市川大介、鉄砲を橋本一巴、兵法を平田三位に付いて稽古したとある。
 この情報は、尾張の味鏡村の天永寺に住む天台宗の僧・天沢が甲斐を訪れた際、彼を通じて武田信玄にも伝えられているのだという。
 同時代の史料ではないのだが、寛永10年(1633)に記された『国友鉄炮記』によれば、一巴は天文18年(1549)に鉄砲撃ちとして世上に名高いことが信長の耳に達して召抱えられ、同年7月18日に、信長の命で国友村の鉄砲鍛冶・国友善兵衛らに六匁玉鉄砲500挺を注文したという。

 この鉄砲500挺というものは、当時としては桁外れの挺数だったといわれてもいる。
 種子島銃が伝来した当初は1挺が現在の価格からすると5000万円とも1億円ともいわれていたというが、その後普及とともに信長の時代は6、70万円位ではなかったかと言う。
 だから500挺ともなれば・・・相当な金額だったことは想像できる。 

 しかし、信長は種子島銃の弱点もよく知っていた。
 鉄砲は威力は強大なものがあるのだが、雨に弱いという欠点もあり、弾込めに時間がかかることも勿論知っていた。。
 だから信長はその欠点を補うためにはどのような方法があるのか・・・と、日ごろから考え思案していた節がある。
 そこで編み出したのが「三段構え」というやり方だ。
 これは武田勝頼との「長篠・設楽ケ原の戦い」で存分に発揮されているから歴史ファンなら周知のとおりだろう。
 マァ、この戦法、信長が直接編み出した戦法だと一概に言えないところもあるのだが・・・ここでは信ずることにしたい。
 この戦い、武田の騎馬武者に立ち向かうための戦法で、約半里(2Km)に渡って馬防柵を設け、その内側に鉄砲隊を横三列に並べたという。
 その数約3000挺だったというからすさまじい数だろう。
 3000挺を3組に分けたわけだ。
 武田の騎馬軍団が押し寄せてきたとき前列から前に出て撃ち浴びせ、終わったら中段、後段と順番に打ち続けたのだ。
 それまで弾込めに数十秒かかっていたのが3分の1にまで短縮したことになるから、攻める武田方にすれば限りなく撃ち込んでくる攻撃に戸惑ったことであろうし、結局全滅してしまった。
 信長の、日ごろから「戦」というものへの取り組み方法の模索が実を結んだ結果といえよう。
 
 
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                     長篠合戦図屏風 

信長の小姓「森蘭丸」の逸話

 前回に続き森蘭丸の逸話としたい。
 皆さんには申し訳ないないのだが、小生は、逸話というものは事実もあるのだろうが、後年の人々がこうではなかったのか?との願望と期待が入り混じった創作ものが多いと思っている。
 信じる人もいるだろうが信じない人もいるのでは・・・と思うのだ。
 だから、逸話というものは話として知っておく程度で良いと小生は考えている。
 それを前提に、以下読み進んでいただきたいと思います。

○ 鞘当て問答
  ある日あるとき、信長が小姓たちに「この刀に模様があるが、その数を当て
 た者に刀をやる。どうだ・・・」と尋ねた。
  周りの小姓たちは口々に数を言っていたのだが、蘭丸だけは黙っていた。
  そこで信長が「蘭、お前は一切答えないがどうした?」と尋ねた。
  蘭丸は「殿が用を足すとき刀を預かります。その時に数えていますので、数は
 知っています」と正直に答えた。
  信長はその正直さに感心し、蘭丸に刀を与えた。

○ 信長が見た夢の話 
  天正10年のある夜のことだ。
  信長が昨晩こんな夢を見た。それは「馬の腹をネズミが食い破る夢だ」
  蘭丸は「その夢は凶夢です!上様はウマ年、明智はネズミ年生まれですから
  その夢は上様が光秀のせいで切腹なさるという凶兆です。
  明智様の動向に気をつけられませ!!」
  信長は「ハッハッハッ、そんな夢占いを真に受けることができるか」と一蹴した
  のだという。

 信長は森乱丸の夢占いを一笑に付したというのだが、本能寺の変が起きる
10日前のことであったというが・・・・
 あまりにもできすぎた話しではないか・・・・これ間違いなく創作だと思うネェ。
 信じている人があれば「ゴメンナサイ」。

 そして話はこれだけでは終わらないのであしからず。

○ 欲しいものを言ってみろ
  ある日、信長が蘭丸に言った。
  「欲しいものを書いてみよ。儂がお前の欲しがっているものを当ててみよう」と
  言い、書いたものをお互い見せあったというのだ。
  それは見事に同じ内容だったという。
  信長と蘭丸はそれほど気心が通じあっていたというのだが・・・
  蘭丸が書いた欲しいものとは何だったのか・・・それは亡父の旧領であったという。
  信長が本当に当てたかとどうかは疑問なのだが、蘭丸の父の旧領・坂本城を
 蘭丸が所望したとしても不思議ではないのだ。
  この坂本城はその時、明智光秀の居城であったのだ。
  蘭丸と光秀は相当仲が悪かったといわれているから、この話、そういったところ
で生まれた逸話ではないだろうか?
  
 常時信長の身辺にいて奉公している蘭丸。
 信長の命令で各地で戦働きをしている光秀。
 ふたりの思惑はそれぞれあったと推測はできるのだ。
 小姓は、武将の命運を左右するほどの影響力があったことも容易に想像はつく。
  光秀は秀吉の備中高松城攻めの応援を命令されるのだが、そのとき現所領を召し上げられ、中国で攻め取った出雲と岩見を所領として与えると言われたときに、腹を括ったのではないだろうか?
 中国攻略がならなければ流浪の身に戻ってしまうのだから・・・・
 
 その召し上げられる所領というのは丹波一国と近江なのである。
 蘭丸が欲しがっている坂本城を取られたと・・・・も思ったことであろう。
 それが本能寺の変に至ったのではないのかと思うし、一番有力なのではないだろうか?・・・・
 マァ、この推測は専門家の方々も一番正しいと仰っているからほぼ間違いのないところだと思いますネェ。
 
 光秀謀反の話が長くなりましたが、本能寺の変の時蘭丸は17歳で信長に殉じた。
 そして、弟の力丸、坊丸もこの変で蘭丸と運命を共にしている。
                      森 蘭丸
 
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織田信長の小姓「森蘭丸」のこと

 前回少し述べたのだが、信長の小姓「森蘭丸」のことだ。
 
 その前に小姓のことだが・・・
 武家の社会では亭主(武将)の身の回り、つまり雑事のことなのだが、正室、側室等の女房達は一切しなかったといわれている。
 それでは誰がやったのかというと小姓と呼ばれる少年たちだ。
 亭主つまり武将の食事から身支度、掃除、外出する時の供までありとあらゆることをやっていたというから大変な仕事だ。
 武将の夜の相手までさせられたのだから並みの神経ではもたなかっただろう。

 その当時、武将が「男色」相手を傍に置いていたのは武将の「たしなみ」の一つであったといわれているのだが、現代でも「同性婚」云々といわれている時代だから批判はできないだろう。

 しかし、小姓の務めはお伽だけではなく身辺の世話や機転だけでもなく武勇にも優れていなければならなかったのだ。

 話を信長に戻すが、信長は側室も数多く抱えていたというのは述べてきたが、小姓たちも数多く周りに置いていた。
 先に述べたが小姓の務めは並みのことではない。
 特に信長の小姓ともなると大変だっただろうと想像はつくのだ。
 いかんせん信長の気性は激しすぎるくらい激しいものだったから余計にそう思う。
 非情な信長のことだ、自分の気に入らない小姓を手討ちにしたことは数多かったというのだから、小姓たちも命がけで信長の身の回りの世話をしたことだろう。

 そうした中で、信長晩年のお気に入りの小姓が「森蘭丸」であったという。
 側近NO. 1 と言った方がよいのだろう。
 蘭丸の父は「可成(よしなり)」で、勇猛果敢な武将として知られている。
 可成は土木技術にも長けていたとので重宝がられていたと伝わっている。

 蘭丸は容姿美麗でありながら父親のDNAも継いでおり文武とも傑出した子供だったという。
 そんな子供を信長が放っておくわけはあるまい。
 蘭丸が13歳の時小姓として傍に置くようになった。

 そんな蘭丸に関する逸話が数多く残っているので紹介したい。
○ 蘭丸の機転さを物語る「障子」の話
  これは有名な話なのでよく知られている逸話だ。
  ある日、信長は蘭丸に対して「障子を開けたままにしてきた。閉めてこい」と
 指示した。
  蘭丸が行ってみると、障子は閉まっていた。
  そこで蘭丸は閉まっていた障子をいったん開け放ち、改めて閉め直し戻っ
 て来た。
  信長は障子が閉まったままであることは承知していたのだが、蘭丸を試す
 つもりで 「閉めてこい」と言いつけていたのだ。 
  信長は帰ってきた蘭丸に「開いていたか」と尋ねたのだが、蘭丸は「閉まっ
 ておりました。しかし、主君が開けたままだと仰 せられましたが大勢の者達
 が聞いています。そのままでは信長様の思い違いだったことになります。
 それで一度開けた後、また 閉めました」と答えたというのだ。
 信長は「なんと気の利く子供だ」と感心したという。

 もう一つ紹介するがこれまた有名な話だ。

○ 故意に転倒した話
  ある日ある時、ある僧が信長に献上するため大量のミカンを持ってきた。
  蘭丸はこのミカンを信長に披露しようと台に載せて運んでいた。
  見ていた信長が「その方の力では危ない。倒れるぞ」と注意した。
  すると、信長の言葉通り部屋の真ん中で物の見事に転倒してしまった。
  翌日、他の小姓たちに同情された蘭丸は「主君に恥をかかせず、判断が
 正しかったことを示すために、わざと転倒したのだ」と答えたという。

まだ逸話はあるのだが、続きは次回で・・・
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                    太平記英雄伝の森蘭丸