京都・本願寺が東西に別れたのは?

 京都には本願寺が2つあるのはご存じのとおりである。
 それでは何故東西に別れてあるのだろうか?おおよその見当はつくのだが素人にはなかなか理解できない。
 一つは浄土真宗本願寺派本山と云われているのが西本願寺である。
 もう一つは浄土真宗大谷派本山といわれている東本願寺である。

 このように二つに分かれてあるのだが、東西二つに分裂した原因といえば遡ること433年近くである。
 そう、織田信長の存在である。
 “石山戦争”の終結まで歴史をも戻さないといけないのだ。
 天正8年(1580)、正親町天皇の斡旋で織田信長と本願寺は講和することになる。
 第11世法主顕如は、石山を退去して紀伊の鷺森(さぎのもり)に移った。
 しかし、この時顕如の長男教如が信長との徹底抗戦を主張するのだ。
 そして、石山本願寺に籠城するのだが、宗門の絶滅を恐れた顕如が教如を義絶し、教如の弟准如を嗣子と定めてしまった。
 それに怒ったのが教如ということになるのだが、教如は結局、数か月籠城するものの降伏してしまう。
 
 天正19年(1591)に、時の天下人秀吉が七条堀川の寺地を顕如に寄進して本願寺は再興されることになる。
 しかし、天正20年(文禄元年・1592年)顕如が死ぬのだが後を継いだのが教如で12世法主となるのだ。
 
 其の後、教如が翌文禄2年、母の如泰尼の意志と豊臣秀吉の命令によって隠退を余儀なくされる。
 そして、正式に准如に12世法主を譲ることになる。

 准如を12世法主にすることは秀吉の既定路線であったのだが、ここに徳川家康が介入することになるのだ。
 家康は、秀吉が生存中は表面的には従順さを装っていたが、裏では色々と画策し、秀吉に対抗していた。
 その秀吉が亡くなった後は、その遺産を潰すことに専念していたのが徳川家康なのである。

 その家康が本願寺問題に介入したのだから、まともになる筈はあるまい。
 家康は、秀吉が隠退させた教如に六条烏丸の寺地を寄進し、そこに慶長7年(1602)教如が堂宇を建立することになる。
 これが東本願寺で、教如が12世法主として復職してしまったのだ。

 かくして、西本願寺の12世法主准如、東本願寺の12世法主教如と、浄土真宗本願寺派は、二つの本願寺、二人の法主のもとに完全に分裂してしまったのだ。
 時の権力者によって操られた本願寺。 
 一向一揆全盛時には考えられないことであったのだが、時代は確実に変わっていたのである。

                     東本願寺
 
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                     西本願寺
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