吉岡一門は宮本武蔵に倒されたから断絶した?

 宮本武蔵といえば、ご存知のように江戸初期(戦国末期?)に活躍した剣豪で知られ、二天一流の創始者で佐々木小次郎と巌流島で対決し、勝利したことでも有名である。

 宮本武蔵の決闘ということになると、慶長9年(1604)の京都での「吉岡一門」も同様であろう。

 吉岡一門は、京都の兵法家・吉岡憲法(けんぽう)を開祖とする剣法の一派で、足利将軍家の兵法で師範を務めた名門なのである。

 通説によると、武蔵は、憲法の子供で当時吉岡流の頭だった吉岡清十郎を蓮台野(れんだいの)で、その弟の伝七郎を三十三間堂で破り、さらに一乗寺下がり松(左京区)では、数十人とも数百人(『小倉碑文』)ともいわれる吉岡一門を相手に一人で闘い、勝利を収めたとされる。
 その結果、名門である吉岡家が断絶したのだといわれている。
 
 しかし、その話は本当であろうか?
 さっきの話しは、武蔵本人が晩年に記した『五輪書』や、養子の宮本伊織が残した『小倉碑文』、武蔵が晩年に身を寄せた細川藩筆頭家老の家臣がまとめた『二天記』等から読み取れる逸話である。

 要するに、これらの話しは、武蔵に近い者たちが残した記録に基づいているのである。

 ここで一寸脇道に逸れるが、慶長9年という時代はどんな年だったのであろうか?

 7月には、徳川秀忠と小賢(おごう)との間に竹千代(後の家光)が生まれている。
 秀忠が将軍職につくのは翌年のことになる。

 12月には、関東から九州にかけて大規模の地震が発生し、多大な被害が出ている。
 使者は1万人を超え、八丈島では10m以上の津波も発生し、相当数の家屋が流されている。
 東日本大震災に匹敵する災害もあった年なのである。

 話を本題に戻すが、さっき記したのは、武蔵寄りの史料からなのだが、これが吉岡側の史料『吉岡伝』には全然違う話しが書かれている。

 吉岡流と武蔵の試合は、京都所司代の屋敷でおこなわれているという点である。
 そして結果であるが、「相打ち」となっているのだ。

 しかも、武蔵に敗れて剃髪した筈の清十郎や、即死した筈の伝七郎の兄弟は、その10年後の「大阪冬の陣」にしっかりと参陣しているのである。

 また、この大阪の陣の後、吉岡家は道場をたたんで「染物屋」を営むようになったというが、それは武蔵との決闘とは関係のない話しなのである。 
 吉岡兄弟の従兄弟(弟ともいわれている)の清次郎が宮中で抜刀騒ぎを起こし、逆に切り殺されるという事件があってからだともいわれているのだ。

 以上のとおり、『吉岡伝』に記載された内容は、何から何まで我々が知っている通説とは違っているのだ。
 勿論、吉岡びいきが目立つこの史料をそのまま鵜呑みすることは出来ないが、それは武蔵側の史料にもいえることなのである。

 どちらか一方が史実を歪めているのか、あるいは双方の話しに嘘があるのか?判断するには難しいところはあるが、どちらの側にも立っていない名古屋の逸話集『昔咄』(元文3年・1738)には、「吉岡家の子孫がいまた統を伝えている」という記述があるということを最後に締めくくることにする。
 (参考~歴史の謎研究会書他)
                      宮本武蔵像
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