江戸時代の豪遊伝説

 豪遊というと「紀伊国屋文左衛門」と「奈良茂」を思い出す方々も大勢居られるであろう。

 その豪奢(ごうしゃ)な暮らしぶりで数々の逸話を残した者の一人が、商人を代表する「紀伊国屋文左衛門」であろう。
 明暦3年(1657)の振袖火事で大儲けした材木商を初代とすると、40箱の千両箱を持って深川へ引越したのが2代目、享保19年(1734)に死んだのが3代目となるが、紀文大尽の話しはこの3代が入り混じって、話しそのものも巷説の域を出ないものばかりであるが、その生活がいかに派手派手しいものだったか、の証拠になるのである。

 紀文が吉原の大松屋で月見をしていると、その友達が饅頭の大きいのを一つ差し上げると言って、若い衆大勢に担がせてきた。
 見るとその大きいこと、とても入口からは入らない。
 そこで塀を壊し、二階の手すりを外し、障子も全部取り払ってようやく紀文の前へ据えたのである。
 人々はただ呆れて見ていたが、やがて大勢でこの饅頭を割ったところ、その中から並の大きさの饅頭が何百何千と出てきて一同びっくりした。
 並の釜や蒸篭(せいろ)ではとてもできないので、すべて特別注文で作らせたというのである。

 その後この友だちが吉原で遊んでいると、そこへ紀文ガ来て、この間の御礼にと蒔絵の箱を一つ置いていったのである。
 それを開けると、中から小さな豆蟹が数百匹、四方へぞろぞろ這い出して花魁(おいらん)はじめ一同びっくりして逃げ回る始末であった。
 良く見るとその蟹の背に一つ一つ客と馴染みの遊女の紋が金で書いてあったそうである。

 また紀文と張り合った「奈良茂」という材木商がいたが、この人も吉原で豪遊した一人である。

 ある時、吉原で遊んでいる友達に呼ばれたから、といって供の者に蕎麦二箱持たせて出かけていった。
 大勢いる所へ持ってくるには余りにも軽少なので、友達は蕎麦をさらにあつらえようとしたが、何とその日一日、吉原5町、山谷、田町、その他吉原近くの町の蕎麦屋は「奈良茂」がすべて買い上げ、この二箱のほかは全部捨ててしまっていた、という話があるのである。
 (参考~北村鮭彦書より)

 

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