今川義元が桶狭間に出張る 絵本太閤記では・・・

 5/31のNHK大河ドラマ「麒麟が来る」は観なかった。
 新聞の予告記事では義元がいよいよ尾張を攻めるらしいと描かれてはいたが・・・

 今川義元と言えば当時東方にデンと構えている北条氏、北方の雄武田信玄と縁組をし、三国同盟を結んでいた。
 これで後方の憂いは少なくなっている状況だったので尾張攻めを決意するというのが定説。

 義元は後顧の憂いを無くし、それでもって上洛することによって、将軍足利義輝に拝謁して天下に己の威風を示そうとしたという。

 絵本太閤記では、永禄3年(1560)5月1日、全軍出発の大号令を下し、義元自身は同月12日に府中(現在の静岡)を出発する。
 総勢2万5千、号して4万と称している。

 義元は「足短く胴長く」といわれる体つきで、沓掛で具足をつけ出陣したところ、途中で落馬してこれこそ不吉の前兆と評判されたと描いている。
 実際はどうであったのだろうか? 公家風の立ち居振る舞いをしていたともいうのだが・・・絵本太閤記ではそこまでは描かれてはいない。

 義元はこの沓掛で全軍の陣容を固めたという。
 織田方の前線基地「丸根」「鷲津」の砦が差し当たっての攻撃目標であった。

 「丸根」に向かったのが松平元康(徳川家康)で19日の夜明けとともに砦内に攻め入って主な武将の首7つを挙げ、本陣の義元にまで届けた。

 続いて午前10時頃、鷲津も火を放たれ陥落したとある。

 また、鳴海方面へ進出していた織田方武将3人も討たれ、其の首も田楽狭間(桶狭間の北方に位置する)で休んでいた義元のところに届けられた。
 義元は「我が旗の向かうところ、鬼神もこれを避ける」と大喜びし、近在の神官や僧侶が戦勝祝いとして持ち込んできた酒肴で、大いに盃を挙げたとある。

 決戦の前夜、信長はどうしていたかということについて、絵本太閤記は、今川軍進出の続報相次いだが、信長は軍議を開く気配もない。
 しかし、信長は、「天下の英雄を見るところ、籠城で運が開けたという例は知らず」と言い、明朝城を出て一戦して勝敗を決すべし、自分に従わんとする者は続けと覚悟を示した。
 とある。

 開けて19日の午前2時頃、今川の軍勢迫るとの報告を丸根・鷲津の砦から受けた信長は、急に立ち上がって広間に出て、湯漬けを用意せよ、馬に鞍置けと命じて具足をつけた。そうして、昆布と勝ち栗を前に盃を上げ、「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生をうけて滅せぬ者のあるべきや」
 小鼓を打ちながら、幸若舞の『敦盛』を謳い、三度舞い終わると、本庄正宗の太刀を腰に帯、貝鳴らせ、馬引けと大声に叫び、栗毛の飛び乗って「続け!」と一鞭くれて駆け出した。

 このあたりの描写、今でもドラマ・映画では必ず描かれる場面ではあるが、知ってはいても力が入る場面ではある。

 城内を出たときは従う者は小姓の5騎であったが、大手口では、今や遅しと森可成(もりよしなり)柴田勝家等300騎が待ち構えていた。

 となるわけだ。以降は次で・・・
 
 

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