絵本太閤記に見る明智光秀像

 今回も絵本太閤記からのブログなのだが、明智光秀のことに触れたい。
 この絵本太閤記に出てくる光秀は「武智光秀」と姓が変えられて登場して来るのだが、面倒なので「明智」として述べていきたいと思うのであしからず。

 皆さんもご存じのように、足利13代将軍義輝が松永・三好一党に殺されたことはご存じだろう。
 この義輝には2人の弟がいたのだが、いずれも仏門に入っていた。
 末の弟で16歳になる周嵩は北山鹿苑寺(ろくおんじ・金閣寺)にいたが、手近にあったため、先ず刺客を松永から向けられることになり殺されてしまう。

 次の番は奈良興福寺の一乗院にいる義輝とは1歳違いの弟角慶であるが、細川藤孝(後の幽斎)の機転で助けられて脱出。
 近江・若狭・越前と、伝手を頼ってたどり着き、還俗して義昭と名乗り、美濃にいた信長の庇護を受けることになるのだ。

 この仲介を果たしたのが当時義昭が身を寄せていた越前朝倉家に新参者として仕えていた明智光秀の支援ということになるわけだ。

 光秀の出自、素性は不明な点が多すぎていろいろ説はある。
 脚本家にとっては自分の推測を十分発揮させるところでもあるのだが、「麒麟が来る」ではいろんな展開に仕上げているようだ。

 それでは絵本太閤記ではどうだろうか?
 美濃の守護土岐氏の支族で、恵那郡明智城主・明智光綱の子だという。幼少の頃、父に先立たれ、斎藤道三に仕えた。
 道三がその子義龍と戦った時、道三に味方したため自分の城も落ち、美濃から追放されたとある。
 そうして武者修行を心差して諸国を遍歴したのだという。

 周防の山口に行って毛利元就の家来・桂能登守のもとに寄り、毛利家に仕えたいと申し出た。
 元就は散々その度量や人格を試して「光秀の容貌は狼が眠るに似たり。喜怒の骨相際だち、精神状態は常に静かならず。いわゆる外観は柔和に見えて内心は激しい気性の持ち主である」と将来の光秀を見据えたような発言をしている。

 その時の元就は、仕えた後の異変を恐れて、金銀を多く与えて早々に国外へ追放したとある。

 マァ、この辺りは後年書いたものだから面白くしているのでは? と思ってしまう。
 
 光秀はその後、豊後を経て薩摩まで行ったが、ここは伝統的に他国者に用心深い土地柄である。
 だから、仕方なく四国に渡り、紀州から伊勢路を経て越前に至ったとある。

 諸国遍歴のおかげで城攻め鉄砲・大砲の操法を身につけていて、それを買われたと記している。
 足利義昭が越前に来た頃は、光秀はその技術や射撃の妙技を認められ、朝倉義景に500貫文で召し抱えられたのだと描いている。

 義昭の本懐は三好・松永を討伐して将軍家を再興することであり、朝倉義景に頼ったのもそこにあるのだという。
 しかし、光秀は、毛利元就に見抜かれたように慧眼でもって、朝倉義景は足利将軍の助けにはならないと考えた。

 つまり、光秀も仕官がかなった朝倉家を見限ったことになる。
 ということは、後、信長に仕えた後本能寺の変を起こしたことと繋がるのでは?
 大体元就が見抜いたように光秀は物事を見抜く力に優れていたために、自分の考えが義景にしろ信長にしろ一致しないと判断、これが裏切るという形で現れたのでは? 
と思うわけだ。

 光秀は、せっかく仕官させてくれた朝倉義景を見限り、義昭と信長との間を取り持つ役を果たしたが義昭を見切った。
 そして、信長の家来となったものの信長まで裏切ってしまった。
 ということは、なぜだろうか?
 毛利元就が言っていたように主君を平気で裏切るような性格だったとは考えられないだろうか?
 だから本能寺の変を起こしたのも当然だったかもしれない。

 小生が考えるのは、光秀の性格が単純そのもので、損得がはっきりしており、自分の意に反する考えの持ち主には逆らうのは当然だったとの考えだ。
 だから、信長の横暴ぶりが許せず本能寺の変を起こした・・・とネ。
 これあくまでも私個人の解釈だから怒らないでいただきたい。


 

 

 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス

この記事へのコメント