安土城を焼失させた犯人は誰?

 今回も明智光秀に絡む話だ。
 織田信長が建てた安土城、絢爛豪華の造りでそれは見事にものであったと言われているが今一ピンとこない。
 築城の開始は天正4年(1576)のことで、完成したのが天正7年(1579)のことだったという。

 以後、信長はここに居住することになる。
 当時の資料遺跡から推測すると天守閣の高さは約37Mの5層7階建てであり、各部屋の壁は狩野永徳等によって花鳥図、中国の故事を記した画などだという。
 絶頂期だった織田信長に相応しい豪華絢爛たる城だったようだ。

 しかし、残念ながらその城の姿を見ることはできないのは残念ではある。
 
 信長は本能寺に宿泊していた時、明智光秀に急襲され亡くなるのだが、この安土城も間もなく焼け落ちてしまったからだ。
 誰かが火をつけたことは間違いないのだが、誰が・・・ということになると判明していないのだ。

 京都にある「本能寺」と近江に建てられた「安土城」は距離も離れており、全く別だと考えた方が妥当だろうが、いったい誰なんだろう?

 実はこの安土城、明智光秀が本能寺の変、三日後の6月5日に安土城に入っていると言われている。
 間違いなく明智光秀は、信長の居城に入ることで天下に己の権勢を誇示しようと思ったものと思われる。

 ところがどっこいだ、毛利家が支配する備中高松城を攻めていたはずの羽柴秀吉が、引き返したとの報を聞いた光秀は慌ただしく出城し山崎において秀吉と相対することになった。

 しかし、天正10年6月13日、いともあっさりと秀吉に負け、敗走中土民に殺されてしまった。安土城が炎上したのが天正10年6月14日または15日ではといわれている。

 その時安土城を守っていたのは誰かと言うと、明智光秀の娘婿「明智秀満」であった。
 その秀満が、義父の光秀が山崎で秀吉に敗れたとの報を受け敗走したことで安土城を出る決心をする。その際、火を放ったとの説があるのだが・・・どうだろうか?
 この説、はっきりそうだという確証はないようだ。

 秀満は、安土城を出て何処に行ったかというと坂本城に入っている。そして15日には坂本城に火を放って自害してしまう。
 この秀満が安土城に火を放っていたとすると、この男2つの城を焼いたことになる。
 でも、坂本城が15日に焼失したのであれば秀満は既に坂本城に入っていたのだから、15日に安土城が消失したのだとすれば秀満が火をつけたとは考えられない。
 マァ、安土城の焼失が14日なのか15日なのかはっきりすれば明らかになると思うのだが・・・

 他の書物『兼見卿記』の記述も気になる。これには15日に安土城が放火されたとあるからだ。
 それには、出火元は安土城ではなく、安土の町から出火したのが安土の城に延焼したとあり、天守閣もこの時類焼したという。
 でも、この時焼失したのは天守閣と黒金門付近だけで、二の丸は焼けていないのだという。
 そして、安土城の天守閣が焼失した後、信長の孫・秀信が安土城に入っている。
 しばらくはそこに居住していたとあるのだから、二の丸が焼け残ったという説は可笑しいと思わざるを得ない。
 だって、城下町と天守閣の間に二の丸があるのだから、二の丸は燃えず天守閣と黒金門が燃えたというのはどうだろうか?

 となると、この説も眉唾では?と思ってしまう。

 もう一つ、宣教師ルイス・フロイスの書簡だ。
 この書簡には、信長の次男・信雄が天守閣に放火したと記されているのだ。専門家はこちらの方が真説だろうという。

 番外的推測で、安土城周辺の土民達が略奪目的で放火したという説もあるというが、小生はこちらの説は「無い」と思いたい。
 だって夢が壊れるのだから・・・
 
 
 

  
 




 

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この記事へのコメント

2020年03月12日 01:06
犯人は帰蝶
万屋満載
2020年04月13日 07:37
帰蝶だったとするのは面白いのだが、本能寺の変後安土城に入ったのは光秀の娘婿秀満、となると帰蝶は安土城に居たと仮定すると秀満の入場前に脱出しているでしょうネェ。
 安土城が炎上したのは14日か15日なのだから少し無理があると思います。