徳川家を悩ませた真田昌幸のこと

 真田昌幸は父幸隆に似て、戦略・戦術に秀でた武将だと云われている。
 昌幸を「表裏比興の者」と評した文書が残っている。

 これは天正14年(1586)の上杉景勝の上洛を秀吉が労う内容の文書で、豊臣家奉行の石田三成・増田長盛が景勝へ宛てた添え書き状に記されているからだ。
 それには、家康上洛に際して家康と敵対していた昌幸の扱いが問題となって、家康の真田攻めを景勝が昌幸を後援することを禁じた際の表現に出てくる。
 「比興」というのは「卑怯」の当て字で用いられる言葉で、「くわせもの」とか「老獪」という言葉で、決して悪い表現ではなく、逆の意味での武将の褒め言葉なのである。
 つまり、昌幸が地方の小勢力に過ぎないのに、周囲の大勢力間を渡り歩きながら勢力を拡大させていった手腕と、時によっては徳川という大勢力を向こうに回しての衝突も辞さない手強さを併せ持った武将だということを言っているのだ。
 その証に、三成は「比興の者」と評した真田家と手を結んでいるのだ。
 
 話を戻すが、武田家が滅亡した後、昌幸は徳川家康に臣従していたのだが、天正13年(1585)突然家康から、上野国沼田の地を北条氏に譲り渡せという命令が来た。
 昌幸は拒否するのだが、家康は懲罰の為7000人の軍を真田氏が本拠としていた上田城に差し向けた。
 この時、真田軍は総勢2000人だったというから2.5倍の軍兵を迎え撃つことになる。

 戦闘が始まったのは閏8月2日のことで、小競り合いの後、真田昌幸は軍を城内に引き上げさせた。
 徳川軍は勝利を確信し、大手門を抜けて二の丸まで押し寄せたのだが、これが昌幸の作戦だったこにを気付いた徳川軍は時既に遅しだった。
 昌幸は徳川軍を十分引き付けたところで、その頭上に大木を落とすと共に、一斉に鉄砲を撃ちかけたのだ。
 徳川軍は散々打ち負かされ引き上げざるを得なくなるのだ。

 もう一つ有名な話がある。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いだ。
 昌幸は一家存亡の危機に直面する。
 豊臣家に付くか、徳川家に付くかだ。
 どちらかについた場合、負けた時には真田家は滅亡することになるのだ。
 そこで昌幸がとった行動が有名なのだ。
 昌幸自身は幸村と共に豊臣家側に付き、嫡男信幸を徳川家に付かせるという作戦?だ。 
 どちらに転んでも真田家の家名は続くことになる。
 つまりお家第一に考えたうえでの決断だったのだ。
 ちなみに、信幸は徳川四天王の一人「本多忠勝」の娘を正室にしており、幸村は石田三成の親友「大谷刑部」の娘を正室にしていたこともある。

 さて、関ヶ原の戦いなのだが、昌幸は再び上田城で籠城することとなる。
 寄せての大将は、ご存じ徳川二代将軍となる秀忠だ。
 軍勢は3万8000人といわれているが、迎える昌幸側は約2000人。
 前回と同様、徳川軍を引き付けておいて鉄砲を撃ちかけ、頃合いを見ると伏兵に襲わせるという縦横無尽の戦いぶりだった。
 これらの攻撃を受けた徳川軍は痛い目に遭い、関ヶ原の戦いに遅参するという大失態を演じるのだ。
  
 蛇足だが、秀忠の采配が拙かったのではなく、昌幸が図抜けた武将だったのではと思うのだ。 
 だから、秀忠以外の武将が大将になっていても、結果は同じようなものではあったろうと、後の歴史研究家の説だ。
画像

                       真田昌幸像

 
 



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