平家所縁の地を探訪(通盛神社)・その2

 前回に続いて「平家谷」を探訪することにしましょう。
 赤旗神社からさらに平家谷を奥の方に進みますが、車は十分通行でき心配はありません。

 道なりに進みますが、途中「福泉坊」の入口があるもののこれを素通りして、まず「通盛神社を案内します。

 花菖蒲園入口につきますが、右手に「通盛神社」への石段があるのですぐ分かります。
 車も普通車であれば、細い道になっているものの、約100m程行くと道がV字になっているのでそこを右後方に上ります。
 すると、駐車場がありますからここに駐車します。

 「通盛神社」という名がついているように、平家と所縁のある人物を祀ってあります。
 「通盛」とは、清盛の弟・敦盛の長男で、久安6年(1150)頃に生まれています。
 能登守教経は弟にあたります。
 通盛が、妻・小宰相への恋歌に
 「わが恋は 細谷川の丸木橋 踏み返されて 濡るゝ袖かな」と詠んでいます。

 この通盛神社の創建は、建久3年(1192)で、平三位越前守通盛を祀り、御神体には通盛公の自彫りと称する、通盛・小宰相の局が座した木像を祀っているのです。

 当初、この神社は、南へ200mの喜勢と呼ばれる地にあったものを、度重なる水害から守るため、江戸時代に遷宮されたものです。

 その昔、この宮の祭り(旧暦8月13日)には、常石や千年の海岸から、平家蟹が参拝したとの伝えも残っています。

 足利義満公の詩に「よるべなき 身は今蟹と生まれきて 波の哀れに しづむ墓なき」と詠まれている。
 また、スボカズキといわれ、カヤを頭よりかむり踊っていたものです。

 現在の御殿は明治33年に建て替えられ、欅(ケヤキ)材は伊予の国(愛媛県)より運ばれ、松材はこの谷の系列神社貴船神社境内のものが使用されている。

 この宮は、「平家さん」と呼ばれており、男女仲を好くする神社として親しまれている。
 (以上案内文)

 もう少し詳しく記しますと、この通盛神社は、平家谷の南端に聳える万力山の中腹にあります。
 地元の人からは「平家の宮」と呼ばれているのです。

 それでは、何故この横倉地区に通盛神社が祀られることになったのでしょうか?
 寿永3年(1184)の源平合戦で、平通盛は一の谷で討死したのですが、妻の小宰相は讃岐の屋島へ落ちていく途中、亡き夫への思慕のあまり、小鳴門の海に身を投じて19の花を散らします。

 そこで通盛の家来は遺児秀盛を擁して能登守教経の軍勢に加わり、屋島合戦のあと、備後の能登原に陣をしいたものの破れてしまいます。

 そのため、能登原から山越えに横倉地区まで逃げてきたといいます。
 秀盛主従はここに通盛夫妻を祀り、境内に郎党達の墓をつくって、その霊を慰めたのです。
 今は、社殿の南端に苔むす自然石は、その墓石群です。

 拝殿の正面と神殿の屋根に掲げられている揚羽蝶の紋が心に響くのである。

                  拝本殿に至る石段
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                     拝 殿
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                     本 殿
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                  家来たちの墓石群
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 次回は福泉坊を紹介します。

 
 
 
 

 

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