年号の起源と決め方

 最近は新聞の日付も西暦を使い元号は( )中に閉じ込められているが、つい最近までは元号が表面に出ていた。
 
 西暦使用は世界的なもので「ケチ」をつけるつもりは毛頭ないのであるが、疑問に感じることはある。

 西暦は「キリスト」誕生を起源としていると思うのだが、クリスチャンでもない仏教国の日本人が西暦を当たり前として使用していることに疑問を感じるのである。

 そこで古来から伝わってきた「元号」の起源なるものを知っておくのも損は無いと思う。
 今回は京都産業大学所功教授の書から紹介しよう。

 年号(元号)は、前漢の武帝時代(紀元前二世紀後半)に始まり、それが漢字文化の一つとして日本に伝えられた。
 ただ、日本独自の年号が初めて公式に建てられたのは「大化」(645)からであり、それが、永続的な制度とされたのは“大宝律令”の制定時(701年)からである。

 この年号(元号)を改める改元の理由には、大別して4つ上げられている。
 1 新帝の即位を祝う御代の始めの代始改元(平安初期以降、即位の翌年が
  多い)
 2 珍しい勝瑞(しょうずい・吉兆)出現を喜ぶ祥瑞改元(飛鳥・奈良朝に多い)
 3 反対に災異(凶兆)現象を天の戒めとする災異改元(平安前期以降に多い)
 4 讖緯(しんい)の説で変革年にあたるという辛酉(かのととり)と甲子(きのえ
  ね)の革年改元(平安中期以降はほとんど励行)である。 

 古来このような理由が生ずると、まず朝廷では天皇が大臣を介して儒学者(式部輔、大学頭・しきぶのすけ、だいがくのかみ)に新年号の文字案を漢籍(経書、史書など)から選びださせる。

 次いで、その候補案を公卿(今の閣僚)、十数名の会議にかけて、全員で一つ一つの長所短所を論難・陳弁し(これを難陣論議という)、もっとも適当な案を天皇に奉上するのである。

 そこで天皇は、ほとんどの場合、その最善策をそのまま認める形で勅定(ちょくじょう)されるのである。
 というのが王朝時代の改元方法であった。

 しかし武家時代に入ると、改元の理由や時期などが、幕府の要請で左右されるケースも現れ始めた。
 特に江戸時代には、京都で文字案が出揃うと、それをまず幕府に送らせ、将軍の御前で老中や林家の儒官が一つ一つ検討し、最善策を選んで京都へ送り返すことが慣例となり、それから朝廷で公卿の会議を開き、幕府案に合わせて結論を出し、それを天皇が認めて勅定されたのである。

 こうして新元号が決定されると、すでに大宝令によ「およそ公文に年を記すべくんば、皆年号を用ひよ」と明記されて以来、朝廷では詔書(国家の最高意思を伝える文書)によって、中央、地方の官庁に改元を公布し、一斉に施行したのである。

 室町時代には、関東などで散発的に「私年号」の流行をみたが、公文書類には必ず公式の年号が使われた。
 ただ、江戸時代には、京都の公家社会では改元と同時にただちに新元号を用いても、それ以外では、数日後に江戸へ新元号が知らされると、幕府から諸大名に新年号を伝達する儀式があり、その日から新元号を用いるのである。



















 
 

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