水戸黄門は全国漫遊はしていないが、その本質を知る

 TV放送で依然人気のある「水戸黄門」。
 実際には、全国漫遊をしていないことは周知のとおりであるが、何故このように全国を漫遊する物語が出来たのであろうか?
 中央学院大学重松一義教授書から紹介することにしよう。

 ズハリ言って、日光・潮来・房総・伊豆・鎌倉等関東一円の小さな旅はあるが、全国を漫遊したことは一度もないのである。
 ただ、このなうな筋書きの話しが、後の世になってできるそれなりの理由と人柄があったといえる。
 水戸黄門は9歳で元服して光国(のち光圀)というが、「桃源遺事」(とうげんいじ)という水戸藩の史書では、ヤンチャで勇気ある少年であったことが記されている。
 特に13歳から17歳ごろまでは、当時江戸で流行る「かぶき者」(異様な風体の遊び人風)の仕草を真似、夜遊びに出かけ、三味線を弾いたりで、『小野諫草』(おのいさめぐさ)でしられるように、家臣小野角右衛門言員(ときかず)がこれを強く諌めたが、効き目がなかったといわれている。

 このため「権現様(家康)の御孫様とは思われぬ」と、悪い噂の非行少年のようなものであった。

 しかし18歳のとき、司馬遷の『史記』の『伯夷伝』(はくい)に感銘、父子の道・聖賢の道が何であるかにハッと目覚め、深い反省とともに学問の道へと大きな変身をみせているのである。
 
 30歳となった明暦3年(1657)のとき、駒込に彰考館(しょうこうかん)と名付ける歴史の編纂所を設け、、『大日本史』の編纂を始め、「歴史を通じて正邪のけじめ、君臣のけじめをつける」という考え方を一層固めていっている。

 光圀は34歳のとき、父頼房(よりふさ)の跡を継ぎ、第二代の水戸藩主となり、約30年間水戸藩を治めているが、この間も『大日本史』の編纂継続のほか、民情をよく察知し、今に残る笠原水道を城下に引き入れたことは、水戸の人が永く讃えている功積なのである。
 このほか、いかがわしい寺社の取り壊しや、率先して節約に励んだことも知られている。

 晩年、隠居して「黄門」「こ゜老公」などと呼ばれ、今日のTVにも「天下の副将軍水戸光圀公なるぞ」と格さんが葵のご紋が入った印籠を掲げ、悪代官を懲らしめ、哀れな農民や身売り娘を助けなど、『水戸黄門諸国漫遊記』として画面で大活躍しているが、これは隠居の光圀を水戸天神林の百姓爺とし、従者の佐々木助三郎・渥美格之進を「助さん」「格さん」とした、明治21年(1888)ごろの大阪講談師玉田玉智(たまだぎょくち)の作とも、明治37年(1904)ごろの同じく大阪の講談師日本亭丸勝の作ともいわれるものなのである。

 それはいうまでもなく『大日本史』の編纂を手伝い、諸国に史料の収集に出かけた人をモデルに、庶民が期待する名君像、“正義の味方光国”らしい善を勧め悪を懲らしめる理想のご政道を、漫遊記とした作り話なのである。

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  • 徳川 光圀(水戸黄門)の名言

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