最後の将軍「徳川慶喜」の明治時代の生活

 徳川幕府最後の将軍「慶喜」、大政奉還後、江戸を離れてしばらく水戸で生活(謹慎)していたことは良く知られている。
 その後はどのような生活であったのか、小和田哲男氏の著から見てみよう。

 水戸では東北地方での旧幕府と新政府との間で戦争が続いており、おちおちと生活できない状態となったのである。

 そのころ、徳川家の相続人となった田安亀之助(徳川家達・いえさと)に駿河・遠江その他で70万石が与えられるという決定があった。
 慶喜は、家達の居城が駿河に決まったということもあり、駿河で謹慎したいと申し出、それが認められたのであった。

 明治元年(1868)7月19日に船で水戸を出発した慶喜は、早くも23日には駿府に着き、宝台院に入り、翌2年9月まで謹慎生活を送っている。
 
 謹慎がとけると、旧駿府代官屋敷(現在の浮月楼)に入り、庭園造りに力を入れている。
 そののち、明治21年(1888)3月、近くを鉄道の東海道線が通ることになり、煩いという事で、静岡市内の西草深町に新しく屋敷を造って引越しをしたのである。

 慶喜はそこで明治30年(1897)11月まで暮らし、東京に戻ったのである。
 この静岡市在住の29年間に、2人の側室に20人の子供を生ませているのである。
 静岡在住時代の慶喜は、政治の世界からは全く離れ、趣味に徹した生活をおくっている。
 
 例えば、写真機を持って、写真を撮って回っており、明治初めの静岡周辺の人々の生活や風俗がそれによって良く分るのである。

 また、馬車に乗ったり、自転車に乗ったりして、静岡の人々を驚かせたともいわれている。
 慶喜は、大正2年(1913)東京で死去している。

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