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zoom RSS 織田信長の残酷非道の話

<<   作成日時 : 2016/01/17 11:57   >>

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 新年初めての投稿です。今後ともよろしくお願いします。
 ミスもょこチョコありますが大目に見ていただきたいと思います。
 
 今まで、信長にも慈悲心があることを述べてきたが、今回は語られている「残酷」な面について少し述べたい。
 歴史ファンであれば知っていることなので、詳しい方はスルーしてください。
 歴史好きの方達は、信長が浅井親子の頭骨を金箔にして、杯代わりに飲み回しをしたとか、長政の母親の指を数日かけて一本一本切断したとか伝わっていることを知っていると思う。
 信長の残虐非道な面は他にも沢山あるのだが、今回は信長に背いた「荒木村重」のことについて述べたいと思う。

 巷間言われている言葉に「泣かぬなら、殺してくれようほととぎす」と言われている信長だ。
 このように伝わる性格だから、数々の残酷面での逸話も多い。
 しかし、考えれば「殺し殺される」戦国の世の中だから、やらねば自分がやられるわけだから仕方のない時代でもあったということは間違いあるまい。
 そんな世の中でも「残虐非道」と言われた信長ということになると、いかに凄まじいことをやっているのか・・・なのだが・・・・
 
 天正7年(1579)、摂津伊丹城の城主荒木村重が信長に背いた。
 信長は、荒木家に出入りする従者を持つ武将の妻子を全て人質として拘束していた。
 当時、人質を取るのは日常茶飯事で、どんどん人質を出させてもいたし,出しもしていた。
 その人質は、出した相手が裏切れば残酷な殺し方をし、見せしめにしていたのだ。 
 
 だから村重が謀反を起こしたとき、約120人といわれる婦女子を尼崎で磔にしている。
 そして、後で捕らえた約500人を火炙りの刑に処し、荒木一族の者約30人は京都の六条河原で車裂きという極刑中の中でも極刑に処した。
 信長は、村重が憎かったのであろうが、家中の者に対しても「俺に背いたらこのようになるのだぞ」と言いたかったのでは・・・・と推測できる。

 史実によれば、まず天正7年(1579)12月13日に尼崎近くの七松で、村重とともに逃亡した家臣らの女房衆120人が処刑された。
 磔(はりつけ)にされ、鉄砲や長刀で殺される姿、家屋に押し込められて焼き殺される様は凄惨なものだったとある。

 村重の妻・だしの処刑が行われたのはその3日後、12月16日のことである。
 京の六条河原に護送された村重一族と重臣の家族約30人が大八車に縛り付けられ洛中を引き回された後、車裂きされたりした。

 この時、村重の妻「だし」はなんとまだ21歳だったというが、今楊貴妃と言われている位の絶世の美女といわれていたらしい。
 処刑時の「だし」は白い経帷子の上に色鮮やかな小袖を着た姿で、毅然とした態度で最期を迎えたと伝えられている。
 
 逃亡した村重は、本能寺の変で信長が死んだ後は秀吉に許され、茶人として人生を終えているのは承知の通りです。
画像

                    荒木村重像
 
 
 
 

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