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戦国時代の豪傑・剣豪〜塙団右衛門
戦国時代の豪傑・剣豪〜塙団右衛門  出自については正確には分かっていないと言われており不詳である。  尾張国の人で、同姓であるため、織田氏の家臣・塙直政の一族か縁者とする説もあるが、遠州横須賀衆で浪人となった須田次郎左衛門という人物が本人であるという説や、上総国養老の里の出身で千葉氏の家来だったが、小田原北条氏家臣で「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成に仕えたという説、相州玉縄の住人で玉縄城主となった北条左衛門大夫の徒士となったという説もあり、出身地や素性も定かではない。 ...続きを見る

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2016/08/06 17:11
戦国時代の豪傑、剣豪と云えば?
戦国時代の豪傑、剣豪と云えば?  戦国時代と言えば一国一城の主となるべく腕自慢、力自慢の豪の者が割拠した時代でもある。  小生の頭の中にある豪傑で思い出すのは、後藤又兵衛、塙団右衛門、可児歳三、上泉信綱、柳生宗厳・宗矩親子、塚原卜伝等々いる。  剣術の技を磨いて諸国放浪していた宮本武蔵や佐々木小次郎などもいる。  その他にもいると思うが割愛させて頂くとして、今回は後藤又兵衛基次ついて簡記したい。 ...続きを見る

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2016/07/20 10:15
織田信長が黒人を家臣にした話
織田信長が黒人を家臣にした話  信長の逸話の中でも有名なのが黒人を家臣にした話のことだ。  天正9年(1581)にイエズス会の大物ヴァリニャーノが日本巡察にやってきた。  彼は織田信長に謁見しようとして京にやってきたのだが、そのとき彼が連れていたのが黒人の奴隷であった。  信長は京の本能寺に宿泊していたのだが、京の町は大騒ぎとなったという。  当時の日本はどうにか白人の免疫はできつつあったのだが、黒人となるとそうはいかず、一目でも肌の色の違う人間を見たいとの思いから見物に押し掛けたのだ。 ...続きを見る

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2016/06/23 15:52
宣教師ルイス・フロイスから見た信長像
宣教師ルイス・フロイスから見た信長像  日本人にとっての戦国武将・織田信長像は「傲岸で自分以外の者は信用しない」と云われるほど尊大だったとの印象が強いと思っている方が多いと思う。  そして、事実そのような武将だったらしい。  それでは外国人から見た信長像はどうだろうか?  今回はポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが見た信長について述べたい。  これらの話は有名なものなので、詳しい方はスルーしてください。  信長は、フロイス以外にもイタリア人のオルガンチーノ、ワリニャーノといった宣教師達ともよく合っていたという。  彼ら宣... ...続きを見る

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2016/06/16 15:56
戦国時代の「城」は武将の象徴と政務の中心
戦国時代の「城」は武将の象徴と政務の中心  織田信長のことについて何度かUPしたのだが、今回は先月発生した熊本地震のおかげでひどい損害を受けた「熊本城」に関連して「城」についてUPしたい。  その前に「この熊本城」のことなのだが、別名「銀杏城」という愛称があり市民から親しまれていたという。  銀杏城」という名の由来になっているのは、城内に植えられた銀杏の木である。  これは、籠城戦になった時の食料確保のため、築城時に加藤清正がこの銀杏を植えたという伝えがあることからきている。 ...続きを見る

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2016/05/20 10:15
織田信長の戦への取り組み方
織田信長の戦への取り組み方  織田信長といえば一生のうち100回近い戦をやっていることは述べたのだが、この信長、戦のことについては普段からいろいろ考えていたという。  武将の子供だけあって当時の遊びは、ほとんどが「戦」と関係のある遊びだったという。  棒ふりから始まって水遊び、木登り、駆けっこから石投げ等々・・・・「戦」と絡ませたといわれている。  槍の長短の争いもそうだ。  そのような時、種子島に鉄砲が伝来した。  その噂を聞いた信長は、将来の戦はこの鉄砲での争いが主体になると考え、さっそく取り寄せるとともに自... ...続きを見る

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2016/04/21 10:19
信長の小姓「森蘭丸」の逸話
信長の小姓「森蘭丸」の逸話  前回に続き森蘭丸の逸話としたい。  皆さんには申し訳ないないのだが、小生は、逸話というものは事実もあるのだろうが、後年の人々がこうではなかったのか?との願望と期待が入り混じった創作ものが多いと思っている。  信じる人もいるだろうが信じない人もいるのでは・・・と思うのだ。  だから、逸話というものは話として知っておく程度で良いと小生は考えている。  それを前提に、以下読み進んでいただきたいと思います。 ...続きを見る

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2016/04/09 11:30
織田信長の小姓「森蘭丸」のこと
織田信長の小姓「森蘭丸」のこと  前回少し述べたのだが、信長の小姓「森蘭丸」のことだ。    その前に小姓のことだが・・・  武家の社会では亭主(武将)の身の回り、つまり雑事のことなのだが、正室、側室等の女房達は一切しなかったといわれている。  それでは誰がやったのかというと小姓と呼ばれる少年たちだ。  亭主つまり武将の食事から身支度、掃除、外出する時の供までありとあらゆることをやっていたというから大変な仕事だ。  武将の夜の相手までさせられたのだから並みの神経ではもたなかっただろう。 ...続きを見る

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2016/03/09 10:43
織田信長の初陣と側室の話
織田信長の初陣と側室の話  織田信長の初陣については前回もサラッと述べたのだが、詳細な記録はないというのが本当らしい。  前回もUPしたように初陣は天文16年(1547)吉良の大浜城攻めであるが、これは今川義元の勢力が伸びてきていたことで吉良大浜を攻めている。  一応初陣ということもあって信長主従は、今川方の軍事基地に次々と火を放って引き下がり、翌日には帰ったという。  この時のいでたちは、“紅筋が入った頭巾”をかぶっていたといい、馬乗り羽織を着て、馬鎧をつけた馬に乗っていたという。  見た目に初々しい若武者振り... ...続きを見る

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2016/03/03 14:40
織田信長の負け戦について
 こんにちは!久しぶりのUPです。  今回は信長の合戦についてUPするのですが、織田信長の合戦ということになると凄い回数になると思います。  ざっと調べただけで90回近い合戦をしている。  華々しい勝ち戦ばかりではなく、当然負け戦もあるわけですがその数19回ぐらいでしょう。  ということで、今回は信長の負け戦と言われているものを列挙したいと思います。  主な負け戦と言われているものは以下のようになりますが、その前に織田信長の初陣のことについて少し記しておきたいと思います。  信長の初... ...続きを見る

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2016/02/24 12:16
織田信長の残酷非道の話
織田信長の残酷非道の話  新年初めての投稿です。今後ともよろしくお願いします。  ミスもょこチョコありますが大目に見ていただきたいと思います。    今まで、信長にも慈悲心があることを述べてきたが、今回は語られている「残酷」な面について少し述べたい。  歴史ファンであれば知っていることなので、詳しい方はスルーしてください。  歴史好きの方達は、信長が浅井親子の頭骨を金箔にして、杯代わりに飲み回しをしたとか、長政の母親の指を数日かけて一本一本切断したとか伝わっていることを知っていると思う。  信長の残虐非道な... ...続きを見る

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2016/01/17 11:57
信長は信仰心何てなかったのか?
 信長を語るとき、必ず出てくるのが比叡山での焼き討ちによる僧侶の殺戮、高野山や奈良での寺院の破壊の事であろう。  信長は特に一向宗への憎悪が計り知れない所があるように見受けられる。  それと、二条城の建設時、京の石仏などを片っ端から引き倒して石材に使っている。  これらの事を考えると、当時の人々もそうだが、後の専門家を含めて「信長は神仏も恐れない異人」だと恐れられた節がある。  しかし、信長は全ての宗教を否定していたわけではないようなのだ。  仏教そのものを排除したり攻撃はしていない。... ...続きを見る

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2015/12/28 12:02
信長&義元「桶狭間の戦い」・その三
 義元が休息しているという情報を得た信長は、小踊りせんばかりに喜んだことは想像できる。  だって、義元は2万5千人、自分達はたったの3千人た。  まともに向かって戦っても勝てる道理は全く無いわけだから、この機を千載一遇ととらえたことであろう。  だから信長は、情報を得ると、時をおかず直ちに「桶狭間」を目指した。  織田方が田楽狭間の後方にある太子ケ根に達しようとしたとき、突如稲妻が走り大雨が降り始めたという。  この雨は約30分で止んだと云われているが、降り止むと同時に信長は全兵に突撃... ...続きを見る

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2015/12/06 09:38
信長&義元〜「桶狭間の戦い」・その二
信長&義元〜「桶狭間の戦い」・その二  「敦盛」の一節を謡、舞う事三度繰り返した信長は愛馬に跨り一騎だけで清洲城を駆け出しだ。  この時従ったのは、岩村重休、長谷川好秀、佐脇藤八、山口弘寄、加藤弥三郎の五騎だった。  辰の刻の「五つ」(午前8時頃)ころ熱田神宮に到着したのだが、この時の兵数は約200人に増えていたという。  信長は願文を納めて戦勝を祈願している。  説によるとこの時、社殿の奥から白鷺が飛び出したので、信長は「この戦さ、勝利は間違いなしッ」と叫び、兵の士気を高めたとなっているが・・・どうもこれは創作だろうという... ...続きを見る

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2015/11/21 08:28
信長&義元〜「桶狭間の戦い」・その一
信長&義元〜「桶狭間の戦い」・その一  前回、桶狭間の戦いについて述べたのだが、今回はもう少し詳しく述べてみたい。  とは言っても信長を語るとき、必ず出てくるのが「桶狭間の戦い」で、歴史ファンであれば知らない者はいないだろう。  まず今川義元のことなのだが、義元ぱ天下取りのため日ごろから上洛することを近臣の者たちには伝えていたという。  それでも中々決断が付かなかったようなのだが、永禄3年(1560)5月12日に出立するのだ。  義元は、遠江(現静岡県中央部)と三河(現愛知県東部)を領地に持つ太守なのだが、兵約2万5千人を引... ...続きを見る

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2015/11/18 10:12
織田信長は病気はしなかった?
織田信長は病気はしなかった?  信長の肖像画を見ると小柄でやせ細り、色白の一見美男子に見える。  乱世の戦国時代で、天下統一を果たす寸前まで上り詰めた戦国武将にはハッキリ言って見えない。  だが体の方は健康だったようである。  『信長公記』にも病気らしい病気をしたという記述はない。  敢えて云えば、鼻部分にできた「面疔(めんちょう)」位のものだろう。    「面疔」というのは、細菌感染症の一種といわれ、毛嚢炎(疔)が顔面(特に目や鼻の周辺)にできたものであるらしい。  黄色ブドウ球菌の感染によって起こるもので、... ...続きを見る

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2015/10/30 09:25
織田信長の愛唱歌は「人生哲学」
織田信長の愛唱歌は「人生哲学」  「人間50年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり、ひとたび生を得て滅せぬ者のあるべきか」・・・これは余りにも有名な詩(うた)である。  幸若舞の「敦盛」で信長の愛唱歌でもある。  信長は、この部分が特に好きで、いつも口ずさんでいたとも伝わっている。  「人間50年、天界の長寿に比べれば人間の一生など夢か幻のように一瞬で消え去るものだ。どうせ人間は一度は死んでいくのだから」・・・何と虚無的で無情感な考えだろうか?  時は戦国時代だ。このような感情を持っていなければ生き残っていけなか... ...続きを見る

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2015/10/26 11:40
寧々への手紙で信長の優しさを知る
寧々への手紙で信長の優しさを知る  もう皆さんご存じですよネ。  秀吉の女癖の悪さに、信長に愚痴ったのが「寧々」である。  その寧々に対し信長が手紙を出して窘(たしな)めたりしている。  まずその手紙を一読願いたい。 ...続きを見る

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2015/10/11 08:00
戦場で一節謡って気合を入れ、出陣した信長
戦場で一節謡って気合を入れ、出陣した信長  前回は、文武に渡って知識を持っていた信長についてUPしたが、引き続き信長のことを披露したい。  永禄11年(1586)年、信長は足利義昭を奉じて上洛し将軍職につけた。  数日後岐阜に帰るのだが、この動向をジィッと見ていたのが「三好長逸」、「三好政康」「三好友通」の三人である。  この三人、「三好三人衆」と呼ばれているので存じだと思います。  信長が岐阜に帰国したのを見計らって、この三人衆が翌永禄12年の初頭、義昭を捕えて「本圀寺」に幽閉してしまったのだ。  この報を聞いた信長は激怒し... ...続きを見る

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2015/09/28 11:40
信長も歌の心得を持っていたという話
 約1ケ月間ご無沙汰していました。  久しぶりと云う事で、今迄「名言集」と題して述べてきたのを少し離れたいと思います。  織田信長の話題には変わりないのですが、我々現代人は信長の事についての印象は、武道まっしぐらで、こうと決めたら後に引かない気性の激しい武将だとの意識があると思います。  その通りだと思いますが、反面心優しい面も持ち、文武に渡って幅広い知識も兼ね備えていたようです。    若い時から織田家というキチンとした武家の出にも関わらず、風体には気を配らずにやりたい放題の事をして... ...続きを見る

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2015/09/24 10:16

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