テーマ:史跡

徳川家康の女性選びは実用型

 今まで、信長と秀吉の好みの女性について述べてきたが、次は徳川家康の場合について述べたい。  前回の秀吉と比べると家康は、下級武士や町人の娘が多いことに気付く。  つまり身分の低い女性たちをズラリと並べているのだ。  伝えるところの側室15人の内、3人が元使用人なのだ。  早く言えば自分の身近にいる女性をちょいとつまんだというの…
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義士の頭領大石内蔵助のこと

 年末になれば語られる「忠臣蔵」なのだが、日本人にとっては「義士」として語り継がれる存在で、その人気は今だに衰えることをしらない。  忠臣赤穂47義士として祀られているのだが、その頭領として崇められているのがご存じ大石内蔵助である。  今回は、12月ということもあって、この「大石内蔵助」について述べたい。  このブログを見ていただ…
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昔の川は大量荷物の輸送手段だった

 最近は、局地的豪雨で河川の氾濫が相次ぎ被害も相当なものだ。  そうは云っても昔と比べれば、日本の主な川は殆んどがダムが建設され、また堤防工事も進んでいるので回数的には少なくなっていると思われる。  そんな災害を引き起こす川なのだが、他面利益をもたらす川でもあったのだ。  そうはいっても江戸時代の幕府は災害とか交通の便を一番に…
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北条時頼の「倹約」の話

 前回は北条家を滅ぼした愚者の話をしたのだが、今回は「倹約」の話をしましょう。  これは、第五代執権北条時頼のことなのだが、時頼が出家して最明入道といったころの話だ。  『徒然草』に載っているのだが、ある夜更けに最明が酒を酌み交わす相手に陸奥守平宣時を呼びにやった。  時頼は宣時がやってくると「肴は別に用意していないのだが、勝…
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北条家を滅ぼしたバカな男

 今日は、鎌倉時代に執権として権威を振るった北条氏について述べたい。  北条家には、政治家として優れた能力を発揮した者が多かったのだが、ただ一人暗愚な者がいた。  その前に、優秀な者がいたことを述べたい。  まず「時政」なのだが、時の権力者平氏を見限って流人中の源頼朝につく決断をしている。  これが北条氏発展の基礎となるのだ。 …
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人質時代の家康は、奔放で我儘だった?

 戦国時代に生まれた育っている家康(幼名・竹千代)は、今川義元の人質となって生活していた。  この頃の人質といっても、別に屋敷牢に入れられていたわけではなく、比較的自由に生活できたのだ。  そんな生活を送っていた竹千代なのだが、10歳頃の逸話があるという。  それは、主君今川義元のところへ新年のあいさつに行っていた時のことだ。…
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秀吉が初めて恋をしたのが「ねね」?

 晩年女好きだったと伝わる豊臣秀吉なのだが、若いころは生活に追われて「恋」どころではなかったのでは・・・と思われる。  (あくまでも私個人の推測であるのであしからず)  しかし、秀吉も織田信長に仕えるようになってからは、ある程度余裕ができたものと、これまた推測できるのだ。  そういった中での永禄4年(1561)、当時秀吉は24歳…
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江戸時代の海運業は隆盛を極めた

 江戸時代は鎖国政策で景気が悪かったと思いがちなのだが、実はそうでもなかったのだ。  内需輸送が活発に行われ海運業は大繁盛だったというのだ。  それは沿岸航路なのだ。  海運は京都や大坂を中心にして起っている。  世の中は、新たに江戸中心の経済系統が生まれており、江戸~大坂間は菱垣廻船や樽廻船と呼ばれる定期船がひっきりなしに…
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女好きの秀吉を袖にした女達

 秀吉ほど女好きとして名の高い武将も少ないのだが、これは自分の子供を授かるために、やみくもに手を出したという方が良いのかもしれない。  確かに女性も好きだったのであろうが、小生は前者の方を取りたいと思う。    同じ手を出すならと、素性が良くて美人が良いとばかりの女漁りと云っても良いぐらい手を出している。  何しろ天下人の関…
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深く静かにブームになりつつある、願いが叶う「沖の観音様」・尾道市

 最近、知人から伝え聞いたのだが、尾道市浦崎町の「沖の観音様」と呼ばれ、(海上に浮かぶ観音堂であるが)、願い事が叶う観音様だという。  周囲50メートルにも満たない孤島であるのだが、祠が建てられており中に石造りの観音様が祀られている。  元々は、海の守り神として祀られたものらしいのだが、最近は、何事も叶う「観音様」として参拝する…
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戦国時代の百姓は虫けら以下?

 戦国時代の百姓は過酷という言葉を通り越して、虫けら以下の扱いだっという。  大体が、「合戦は武士の行うもの」といわれているのだが、その言葉は世の中が落ち着き始めた江戸時代以降の話なのだ。  実際は百姓達も戦に駆り出されていたのだ。  早く言えば領主による徴兵だ。  15歳から60歳までの成年男子が対象とされており、問答無用…
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戦国時代の武将の法名(戒名)と墓

 戦国時代、幾多の名将といわれる人物が亡くなっているのだが、墓所めぐりでもしようとすると、一人の武将の墓が幾ケ所もあることに気付く。  墓というものは一人(一家)に一つが一般的(戦国時代も一緒)と思うのだが、名将といわれる人物は幾つも点在しているのだ。  これは、遺骨が分骨されて残っていることが多いのだが、後世の人が名将を祀る意…
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戦国時代の敵方死者の処理

 戦に死者はつきもので、敵も味方もかなりの死者が出るのは致し方ないことである。  特に多くの死者が出たと言われる大坂夏の陣では、東軍が西軍の兵1万人の首をとったという。  取った首は大体が「首実検」にされるのだが、全てがそうかと云えばそうでもない。  行われなかった場合もあるのだ。  ではその遺体はどう処理されるのか? …
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北条早雲の「火牛の計」戦法

 戦の都度用いたわけではないのだが、早雲の得意戦法と云われている。  この戦法は、牛の角に松明を括り付けて敵陣の中を暴走させる戦法をいう。  もともと中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに後代潤色されたものであると考えられている。  この元祖「火牛の計」は、角には剣を、そして尾に松明をくくりつけると…
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上杉謙信の「車懸りの陣」戦法

 前回は武田信玄の「啄木鳥戦法」についてUPしたが、今回は戦国武将の中でも信玄と双璧と云われている上杉謙信の得意戦法をUPしたい。  彼の得意とする戦法というよりは、得意な「陣形」について述べたい。  この陣形の特徴は、敵に息つく間も与えず波状攻撃をかける方法である。    謙信と旗本が軸となって、各隊が放射型に並び、水車が…
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武田信玄の「啄木鳥戦法」

 戦国武将の中での武田信玄は、戦上手で知られている。  今日は、この信玄が得意とした「啄木鳥戦法」について述べたい。  まず、この「啄木鳥戦法」とはどういう戦いなのだろうか?  これは、敵前で、軍を引く様に見せて相手を誘い出すという戦法であり、そして、誘い出した敵の背後から攻撃を仕掛けるというのである。  敵は、今まで目の前…
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豊臣秀吉の「城攻め」“干殺し戦法”

 城攻めは困難を要すると言われているのだが、秀吉は自軍の損害も大きい城攻めは慎重に取り組んでいる。  特に秀吉は、血の流れる戦・・・つまり流血戦は望んでいなかったと伝わる。  秀吉の城攻めで有名なのが三木城と鳥取城を攻めた戦“兵糧攻め”と、備中高松城の”水責め”である。  特に鳥取城の場合“干殺し戦法”と呼ばれ悲惨なものだった…
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“本能寺の変”の時、信長の家臣団は?

 織田信長が本能寺に宿泊していた時に従えていた家臣は約150人だっと伝わる。  主な武将達は、それぞれ信長の命を受けて各地に進駐または駐留していたのだ。  それでは、主力武将が当時何処で、どのような状況に置かれていたかを述べると・・・・。  “本能寺の変”を一番最初に知ったのは「丹羽長秀」である。  彼は、四国征伐のため…
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豊臣秀吉の馬印は「千成瓢箪」?

 戦国時代の馬印といえば、一番に秀吉の「千成瓢箪」が頭に浮かぶ。  以下信長の「金塗の唐傘」、家康の「金扇」、謙信の「根地色の丸扇」等が有名だろう。  信玄は、馬印というより旗印「風林火山」が有名だが・・・・。  この馬印は歴史ファンはよ~く知っているように、戦場で敵味方を識別したり、大将の所在を示すために用いられた目印のこと…
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頓智で有名な「一休」さんは嘘

 先般、民放のTV番組で「一休さん」が放映されたのだが、この一休さんは「頓智」で有名な和尚さんであることは周知のとおりである。  余談だが、この一休さんと名コンビとして登場してくるのが「新右衛門」さんなのである。  そして、この新右衛門さんの子孫が、格闘家でチャンピオンまでなった「武蔵」であることが分かったのは最近のことでビックリし…
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義経の「八艘跳び」は真実か?

 現在まで語り継がれている源義経の「八艘跳び」は真実だろうか?:  結論から言えば創作だということになる。  壇ノ浦の戦いで、平家の敗北を悟った平教経(のりつね)は、冥途の道連れにしようと、義経を目指して一人船を漕ぎ出していく。  教経は、義経に「イザ勝負せよ」と呼びかけるものの、義経はこの闘いを避けるため、重たい鎧を着たままヒラ…
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源頼朝の落馬死の真実

 源頼朝は、落馬したのが因で死亡したと良く語られているし、定説にもなっている。  その時、頼朝は53歳だっというのだ。  その根拠というのが、鎌倉幕府の公的記録の『吾妻鏡』の記述だという。  それによると、建久10年(1198)正月18日、家臣の妻の供養で、相模川に橋を架けたのだが、その開通式に臨席した帰りに落馬して数十日後に死亡…
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戦争の話しばかりなのに「太平記」とは?

 建徳2年(1371)に完成したといわれている『太平記』のことなのだが、これは後醍醐天皇(1318~1339)の討幕から応安(1369)ごろまでの激動の時代を扱った軍記ものである。  しかし、太平記となっているものの内容は殆ど戦乱のことばかりで、何故『太平記』かという疑問が湧いてくるほどである。  内容を見みると、鎌倉幕府の滅亡…
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鉄砲伝来と国産化への年数

 昔から、鉄砲が種子島に伝わってどのくらいで国産化できたのかが話題になるのだが、鉄砲は天文12年(1543)伝わったとされている。  その基となっているのが『鉄砲記』といわれている。  これは慶長11年(1606)に禅僧・南浦文之が記述したもので、鉄砲の記述は次のようになっている。  「長さ二、三尺、其の体たるや、中通り外直く…
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江戸時代初期の銀産出は世界一だが・・・

 江戸時代の「大久保長安」といえば、金銀の産出を飛躍的に伸ばした人物として有名である。  江戸時代初期の日本は、世界的にみても「銀」の産出はダントツであったといわれてる。  亜細亜分を除く世界の「銀」産出量は約420トンとされているのだが、日本はそのうち約200トンを輸出していたという。  徳川家康は鉱山政策に力を入れ、それを…
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武士の名字の決め方

 「氏」の名が古代の戸籍ににも載っていたように公式な血族集団の名であったのに対して、名字というものは、平安時代後期以降、武士が自分の一代だけに使用した私的な呼び名であったのだ。  ところがである。この名字が親から子へ、子から孫へと受け継がれるようになり「氏」の役割を果たすことになっていくのだ。  名字の多くは、その武士たちの所縁…
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世情に翻弄された家光の母「お江」

 戦国時代は、女性にとっては自分の感情は全て無視されたといっても過言ではない。  ここでは「お江」を取り上げるが、徳川3代将軍家光の生母として名が残っている。  「お江」は、浅井長政と信長の妹・市との間に生を受けている。    天正元年(1573)に生まれたとなっているが、正確ではないらしい。  天正元年といえば、浅井長政は織…
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戦国時代、婚姻・養子縁組で手繰ればみな縁戚?

 戦国時代の大名達は、勢力を拡大したり、領土を維持するために、子ども達を利用した。  男子は養子に出し、女子は他家への当主に縁付かせたのだ。  戦国時代の大名間の同盟は、其の時の政治情勢によって成立し、このような縁戚関係を結ぶことでお互いが強化されていったのである。    しかし、、上手い具合に経過していれば良いのだが、中々そう…
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京都・本願寺が東西に別れたのは?

 京都には本願寺が2つあるのはご存じのとおりである。  それでは何故東西に別れてあるのだろうか?おおよその見当はつくのだが素人にはなかなか理解できない。  一つは浄土真宗本願寺派本山と云われているのが西本願寺である。  もう一つは浄土真宗大谷派本山といわれている東本願寺である。  このように二つに分かれてあるのだが、東西二つ…
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日本語化した欧州語

 我々日本人が何気なく使っている言葉には、欧州から伝わったとされている言葉がかなりあることは良く知られている。  これは、戦国時代に日本国内に流入したキリシタン文化や南蛮文化に起因している。  この戦国の時代に入ってきたポルトガル語・イスパニア(スペイン)語は、現在日本語として定着しているのだ。  いくつか例を挙げると   …
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