テーマ:戦国時代

戦国時代の豪傑・剣豪~塙団右衛門

 出自については正確には分かっていないと言われており不詳である。  尾張国の人で、同姓であるため、織田氏の家臣・塙直政の一族か縁者とする説もあるが、遠州横須賀衆で浪人となった須田次郎左衛門という人物が本人であるという説や、上総国養老の里の出身で千葉氏の家来だったが、小田原北条氏家臣で「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成に仕えたという説…
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戦国時代の豪傑、剣豪と云えば?

 戦国時代と言えば一国一城の主となるべく腕自慢、力自慢の豪の者が割拠した時代でもある。  小生の頭の中にある豪傑で思い出すのは、後藤又兵衛、塙団右衛門、可児歳三、上泉信綱、柳生宗厳・宗矩親子、塚原卜伝等々いる。  剣術の技を磨いて諸国放浪していた宮本武蔵や佐々木小次郎などもいる。  その他にもいると思うが割愛させて頂くとして、今回…
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織田信長が黒人を家臣にした話

 信長の逸話の中でも有名なのが黒人を家臣にした話のことだ。  天正9年(1581)にイエズス会の大物ヴァリニャーノが日本巡察にやってきた。  彼は織田信長に謁見しようとして京にやってきたのだが、そのとき彼が連れていたのが黒人の奴隷であった。  信長は京の本能寺に宿泊していたのだが、京の町は大騒ぎとなったという。  当時の日本はど…
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宣教師ルイス・フロイスから見た信長像

 日本人にとっての戦国武将・織田信長像は「傲岸で自分以外の者は信用しない」と云われるほど尊大だったとの印象が強いと思っている方が多いと思う。  そして、事実そのような武将だったらしい。  それでは外国人から見た信長像はどうだろうか?  今回はポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが見た信長について述べたい。  これらの話は有名なもの…
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戦国時代の「城」は武将の象徴と政務の中心

 織田信長のことについて何度かUPしたのだが、今回は先月発生した熊本地震のおかげでひどい損害を受けた「熊本城」に関連して「城」についてUPしたい。  その前に「この熊本城」のことなのだが、別名「銀杏城」という愛称があり市民から親しまれていたという。  銀杏城」という名の由来になっているのは、城内に植えられた銀杏の木である。  これ…
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織田信長の戦への取り組み方

 織田信長といえば一生のうち100回近い戦をやっていることは述べたのだが、この信長、戦のことについては普段からいろいろ考えていたという。  武将の子供だけあって当時の遊びは、ほとんどが「戦」と関係のある遊びだったという。  棒ふりから始まって水遊び、木登り、駆けっこから石投げ等々・・・・「戦」と絡ませたといわれている。  槍の長短…
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信長の小姓「森蘭丸」の逸話

 前回に続き森蘭丸の逸話としたい。  皆さんには申し訳ないないのだが、小生は、逸話というものは事実もあるのだろうが、後年の人々がこうではなかったのか?との願望と期待が入り混じった創作ものが多いと思っている。  信じる人もいるだろうが信じない人もいるのでは・・・と思うのだ。  だから、逸話というものは話として知っておく程度で良いと小…
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織田信長の小姓「森蘭丸」のこと

 前回少し述べたのだが、信長の小姓「森蘭丸」のことだ。    その前に小姓のことだが・・・  武家の社会では亭主(武将)の身の回り、つまり雑事のことなのだが、正室、側室等の女房達は一切しなかったといわれている。  それでは誰がやったのかというと小姓と呼ばれる少年たちだ。  亭主つまり武将の食事から身支度、掃除、外出する時の供ま…
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織田信長の初陣と側室の話

 織田信長の初陣については前回もサラッと述べたのだが、詳細な記録はないというのが本当らしい。  前回もUPしたように初陣は天文16年(1547)吉良の大浜城攻めであるが、これは今川義元の勢力が伸びてきていたことで吉良大浜を攻めている。  一応初陣ということもあって信長主従は、今川方の軍事基地に次々と火を放って引き下がり、翌日には帰っ…
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織田信長の負け戦について

 こんにちは!久しぶりのUPです。  今回は信長の合戦についてUPするのですが、織田信長の合戦ということになると凄い回数になると思います。  ざっと調べただけで90回近い合戦をしている。  華々しい勝ち戦ばかりではなく、当然負け戦もあるわけですがその数19回ぐらいでしょう。  ということで、今回は信長の負け戦と言われているものを…
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織田信長の残酷非道の話

 新年初めての投稿です。今後ともよろしくお願いします。  ミスもょこチョコありますが大目に見ていただきたいと思います。    今まで、信長にも慈悲心があることを述べてきたが、今回は語られている「残酷」な面について少し述べたい。  歴史ファンであれば知っていることなので、詳しい方はスルーしてください。  歴史好きの方達は、信長が…
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信長は信仰心何てなかったのか?

 信長を語るとき、必ず出てくるのが比叡山での焼き討ちによる僧侶の殺戮、高野山や奈良での寺院の破壊の事であろう。  信長は特に一向宗への憎悪が計り知れない所があるように見受けられる。  それと、二条城の建設時、京の石仏などを片っ端から引き倒して石材に使っている。  これらの事を考えると、当時の人々もそうだが、後の専門家を含めて「信長…
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信長&義元「桶狭間の戦い」・その三

 義元が休息しているという情報を得た信長は、小踊りせんばかりに喜んだことは想像できる。  だって、義元は2万5千人、自分達はたったの3千人た。  まともに向かって戦っても勝てる道理は全く無いわけだから、この機を千載一遇ととらえたことであろう。  だから信長は、情報を得ると、時をおかず直ちに「桶狭間」を目指した。  織田方が田楽狭…
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信長&義元~「桶狭間の戦い」・その二

 「敦盛」の一節を謡、舞う事三度繰り返した信長は愛馬に跨り一騎だけで清洲城を駆け出しだ。  この時従ったのは、岩村重休、長谷川好秀、佐脇藤八、山口弘寄、加藤弥三郎の五騎だった。  辰の刻の「五つ」(午前8時頃)ころ熱田神宮に到着したのだが、この時の兵数は約200人に増えていたという。  信長は願文を納めて戦勝を祈願している。  …
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信長&義元~「桶狭間の戦い」・その一

 前回、桶狭間の戦いについて述べたのだが、今回はもう少し詳しく述べてみたい。  とは言っても信長を語るとき、必ず出てくるのが「桶狭間の戦い」で、歴史ファンであれば知らない者はいないだろう。  まず今川義元のことなのだが、義元ぱ天下取りのため日ごろから上洛することを近臣の者たちには伝えていたという。  それでも中々決断が付かなかった…
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織田信長は病気はしなかった?

 信長の肖像画を見ると小柄でやせ細り、色白の一見美男子に見える。  乱世の戦国時代で、天下統一を果たす寸前まで上り詰めた戦国武将にはハッキリ言って見えない。  だが体の方は健康だったようである。  『信長公記』にも病気らしい病気をしたという記述はない。  敢えて云えば、鼻部分にできた「面疔(めんちょう)」位のものだろう。   …
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織田信長の愛唱歌は「人生哲学」

 「人間50年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり、ひとたび生を得て滅せぬ者のあるべきか」・・・これは余りにも有名な詩(うた)である。  幸若舞の「敦盛」で信長の愛唱歌でもある。  信長は、この部分が特に好きで、いつも口ずさんでいたとも伝わっている。  「人間50年、天界の長寿に比べれば人間の一生など夢か幻のように一瞬で消え…
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寧々への手紙で信長の優しさを知る

 もう皆さんご存じですよネ。  秀吉の女癖の悪さに、信長に愚痴ったのが「寧々」である。  その寧々に対し信長が手紙を出して窘(たしな)めたりしている。  まずその手紙を一読願いたい。 《以前に会見した時より、遙かに…
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戦場で一節謡って気合を入れ、出陣した信長

 前回は、文武に渡って知識を持っていた信長についてUPしたが、引き続き信長のことを披露したい。  永禄11年(1586)年、信長は足利義昭を奉じて上洛し将軍職につけた。  数日後岐阜に帰るのだが、この動向をジィッと見ていたのが「三好長逸」、「三好政康」「三好友通」の三人である。  この三人、「三好三人衆」と呼ばれているので存じだと…
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信長も歌の心得を持っていたという話

 約1ケ月間ご無沙汰していました。  久しぶりと云う事で、今迄「名言集」と題して述べてきたのを少し離れたいと思います。  織田信長の話題には変わりないのですが、我々現代人は信長の事についての印象は、武道まっしぐらで、こうと決めたら後に引かない気性の激しい武将だとの意識があると思います。  その通りだと思いますが、反面心優しい面も持…
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信長の名言・Part5(であるか他)

〇 であるか   短いが有名な言葉である。   この言葉は信長が、舅・斉藤道三に初めて対面した時だとされている。   その場面は『信長公記』に記されている。   当時の戦国時代、各大名は盛んに政略結婚を行っていた。   勿論信長の父信秀も同様で、隣国の美濃・斉藤道三との関係を友好なものに  しようと動いていた。   その一…
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信長の名言・Part4(小さいからといって侮るな・・・)

 奇人、変人と見られていた信長。   子供の時は「うつけ者」と云われ、家来衆からもそういった目で見られていたという信長。  しかし、名言と云われているモノの中には非凡な面も見せている。  そして、幼くとも地方大名の嫡男としての素養も見せつけている。  その中の一つに 〇 小さい蛇だからといって侮るな    信長が幼い時、城の…
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「願わくば、我に七難八苦を与え給え」、山中鹿之助

 名将の名言というものは余りにも知れ渡っているのか、覗いてくれる方が少ないようだ。  そこで今回、閑話休題ということで標題についてUPしたい思う。  でも、これまたあまりにも有名な話なので気が引けるのだが・・・・  山中鹿之助幸盛という武将は、出雲の尼子十勇士の中で筆頭に挙げられている豪傑だ。  豪傑と言っても残された絵を見ると…
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信長の名言・Part3(俺の方に足を向けるな・・・)

 信長は神仏を信じなかったようなのだが、豪胆な面もあり繊細な面も持ち合わせている両極端な武将だろうと思う。  これは、あくまでも小生の推測なので気にしないで頂きたい。  それは、加賀越前等北陸地方を平定し、家臣の柴田勝家に任せ、その管理について実に細かいところまで指図していることからの想像だ。  信長の家訓には決まったものは無いよ…
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織田信長の名言・Part2(家康と同盟の時の言葉)

 前回は幸若「敦盛」を愛したことを述べたが、信長は次のようなことを云っている。 〇 人間の50年の生涯は儚いものだ。死なない者は存在しない。   戦国時代に生きる武将ならではの言葉であろう。   信長は常に死を覚悟していたと感じさせる言葉なのだ。 〇 先車の覆るを見て、後車の戒めとする  永禄3年(1560)に「桶狭間の戦い」…
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織田信長名言集~「人生50年・・・」

 今回から織田信長の名言を取り上げたいと思う。  あまりにも有名な武将なので良く知っておられる方はスルーしていただいて結構です。  ただし、今回は信長の名言ではありません。  信長と切っても切れない幸若の舞曲『敦盛』のことです。   『人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。』  …
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上杉謙信名言集・Part4

 前回の続編ですが 〇 我は兵を以て戦ひを決せん。塩を以て敵を屈せしむることをせじ 〇 卑劣は末代まで武門の笑の種  Part3でものべたように、謙信は「誠実」「律儀」「儀礼」を重んじた武将であると伝わっている。  つまり義侠心の熱い武将なのだ。  十六ケ条として残る家訓にもそれが表れているのだが、実は「春日山城の壁書」にも如…
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上杉謙信の名言~Part3

 part2で述べたのだが、もう少し付け足すと「上杉謙信公の名言(上杉家家訓十六ケ条)」には次のようなものがあるのだ。(一部重複) 一、心に物なき時は心広く体泰なり 一、心に我儘なき時は愛敬失わず 一、心に欲なき時は義理を行う 一、心に私なき時は疑うことなし 一、心に驕りなき時は人を教う 一、心に誤りなき時は人を畏れず 一…
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戦国武将の名言~上杉謙信・Part2

 ○ あゝ、名大将を殺したり    前回も述べたのだが、謙信は信玄とは好敵手の間柄である。    そして謙信は義理人情にも厚い武将だったことも良く知られている。    そのようなことで謙信は一度請け負った事柄については、トコトン義理   を全うすることを心掛けていたらしい。    その好敵手同士が、川中島で5度も戦っていること…
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上杉謙信の名言・格言

 前回まで武田信玄の名言についてUPしてきたが、今回からその信玄の好敵手「上杉謙信」の名言をUPしていきたい。  信玄と比較される謙信。  信玄は、軍略、戦術を決める時、諸将の意見を聞くことが多かったという。  対して謙信は、潔癖症で無欲であるが、物事を決める時は独断でやることが多かったという。  好対照の二人なのだが、歴史ファ…
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