テーマ:史跡と歴史散歩

信長は信仰心何てなかったのか?

 信長を語るとき、必ず出てくるのが比叡山での焼き討ちによる僧侶の殺戮、高野山や奈良での寺院の破壊の事であろう。  信長は特に一向宗への憎悪が計り知れない所があるように見受けられる。  それと、二条城の建設時、京の石仏などを片っ端から引き倒して石材に使っている。  これらの事を考えると、当時の人々もそうだが、後の専門家を含めて「信長…
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信長&義元「桶狭間の戦い」・その三

 義元が休息しているという情報を得た信長は、小踊りせんばかりに喜んだことは想像できる。  だって、義元は2万5千人、自分達はたったの3千人た。  まともに向かって戦っても勝てる道理は全く無いわけだから、この機を千載一遇ととらえたことであろう。  だから信長は、情報を得ると、時をおかず直ちに「桶狭間」を目指した。  織田方が田楽狭…
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信長&義元~「桶狭間の戦い」・その二

 「敦盛」の一節を謡、舞う事三度繰り返した信長は愛馬に跨り一騎だけで清洲城を駆け出しだ。  この時従ったのは、岩村重休、長谷川好秀、佐脇藤八、山口弘寄、加藤弥三郎の五騎だった。  辰の刻の「五つ」(午前8時頃)ころ熱田神宮に到着したのだが、この時の兵数は約200人に増えていたという。  信長は願文を納めて戦勝を祈願している。  …
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信長&義元~「桶狭間の戦い」・その一

 前回、桶狭間の戦いについて述べたのだが、今回はもう少し詳しく述べてみたい。  とは言っても信長を語るとき、必ず出てくるのが「桶狭間の戦い」で、歴史ファンであれば知らない者はいないだろう。  まず今川義元のことなのだが、義元ぱ天下取りのため日ごろから上洛することを近臣の者たちには伝えていたという。  それでも中々決断が付かなかった…
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織田信長は病気はしなかった?

 信長の肖像画を見ると小柄でやせ細り、色白の一見美男子に見える。  乱世の戦国時代で、天下統一を果たす寸前まで上り詰めた戦国武将にはハッキリ言って見えない。  だが体の方は健康だったようである。  『信長公記』にも病気らしい病気をしたという記述はない。  敢えて云えば、鼻部分にできた「面疔(めんちょう)」位のものだろう。   …
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織田信長の愛唱歌は「人生哲学」

 「人間50年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり、ひとたび生を得て滅せぬ者のあるべきか」・・・これは余りにも有名な詩(うた)である。  幸若舞の「敦盛」で信長の愛唱歌でもある。  信長は、この部分が特に好きで、いつも口ずさんでいたとも伝わっている。  「人間50年、天界の長寿に比べれば人間の一生など夢か幻のように一瞬で消え…
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寧々への手紙で信長の優しさを知る

 もう皆さんご存じですよネ。  秀吉の女癖の悪さに、信長に愚痴ったのが「寧々」である。  その寧々に対し信長が手紙を出して窘(たしな)めたりしている。  まずその手紙を一読願いたい。 《以前に会見した時より、遙かに…
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戦場で一節謡って気合を入れ、出陣した信長

 前回は、文武に渡って知識を持っていた信長についてUPしたが、引き続き信長のことを披露したい。  永禄11年(1586)年、信長は足利義昭を奉じて上洛し将軍職につけた。  数日後岐阜に帰るのだが、この動向をジィッと見ていたのが「三好長逸」、「三好政康」「三好友通」の三人である。  この三人、「三好三人衆」と呼ばれているので存じだと…
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信長も歌の心得を持っていたという話

 約1ケ月間ご無沙汰していました。  久しぶりと云う事で、今迄「名言集」と題して述べてきたのを少し離れたいと思います。  織田信長の話題には変わりないのですが、我々現代人は信長の事についての印象は、武道まっしぐらで、こうと決めたら後に引かない気性の激しい武将だとの意識があると思います。  その通りだと思いますが、反面心優しい面も持…
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信長の名言・Part5(であるか他)

〇 であるか   短いが有名な言葉である。   この言葉は信長が、舅・斉藤道三に初めて対面した時だとされている。   その場面は『信長公記』に記されている。   当時の戦国時代、各大名は盛んに政略結婚を行っていた。   勿論信長の父信秀も同様で、隣国の美濃・斉藤道三との関係を友好なものに  しようと動いていた。   その一…
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信長の名言・Part4(小さいからといって侮るな・・・)

 奇人、変人と見られていた信長。   子供の時は「うつけ者」と云われ、家来衆からもそういった目で見られていたという信長。  しかし、名言と云われているモノの中には非凡な面も見せている。  そして、幼くとも地方大名の嫡男としての素養も見せつけている。  その中の一つに 〇 小さい蛇だからといって侮るな    信長が幼い時、城の…
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「願わくば、我に七難八苦を与え給え」、山中鹿之助

 名将の名言というものは余りにも知れ渡っているのか、覗いてくれる方が少ないようだ。  そこで今回、閑話休題ということで標題についてUPしたい思う。  でも、これまたあまりにも有名な話なので気が引けるのだが・・・・  山中鹿之助幸盛という武将は、出雲の尼子十勇士の中で筆頭に挙げられている豪傑だ。  豪傑と言っても残された絵を見ると…
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信長の名言・Part3(俺の方に足を向けるな・・・)

 信長は神仏を信じなかったようなのだが、豪胆な面もあり繊細な面も持ち合わせている両極端な武将だろうと思う。  これは、あくまでも小生の推測なので気にしないで頂きたい。  それは、加賀越前等北陸地方を平定し、家臣の柴田勝家に任せ、その管理について実に細かいところまで指図していることからの想像だ。  信長の家訓には決まったものは無いよ…
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織田信長の名言・Part2(家康と同盟の時の言葉)

 前回は幸若「敦盛」を愛したことを述べたが、信長は次のようなことを云っている。 〇 人間の50年の生涯は儚いものだ。死なない者は存在しない。   戦国時代に生きる武将ならではの言葉であろう。   信長は常に死を覚悟していたと感じさせる言葉なのだ。 〇 先車の覆るを見て、後車の戒めとする  永禄3年(1560)に「桶狭間の戦い」…
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織田信長名言集~「人生50年・・・」

 今回から織田信長の名言を取り上げたいと思う。  あまりにも有名な武将なので良く知っておられる方はスルーしていただいて結構です。  ただし、今回は信長の名言ではありません。  信長と切っても切れない幸若の舞曲『敦盛』のことです。   『人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。』  …
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上杉謙信名言集・Part4

 前回の続編ですが 〇 我は兵を以て戦ひを決せん。塩を以て敵を屈せしむることをせじ 〇 卑劣は末代まで武門の笑の種  Part3でものべたように、謙信は「誠実」「律儀」「儀礼」を重んじた武将であると伝わっている。  つまり義侠心の熱い武将なのだ。  十六ケ条として残る家訓にもそれが表れているのだが、実は「春日山城の壁書」にも如…
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上杉謙信の名言~Part3

 part2で述べたのだが、もう少し付け足すと「上杉謙信公の名言(上杉家家訓十六ケ条)」には次のようなものがあるのだ。(一部重複) 一、心に物なき時は心広く体泰なり 一、心に我儘なき時は愛敬失わず 一、心に欲なき時は義理を行う 一、心に私なき時は疑うことなし 一、心に驕りなき時は人を教う 一、心に誤りなき時は人を畏れず 一…
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戦国武将の名言~上杉謙信・Part2

 ○ あゝ、名大将を殺したり    前回も述べたのだが、謙信は信玄とは好敵手の間柄である。    そして謙信は義理人情にも厚い武将だったことも良く知られている。    そのようなことで謙信は一度請け負った事柄については、トコトン義理   を全うすることを心掛けていたらしい。    その好敵手同士が、川中島で5度も戦っていること…
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上杉謙信の名言・格言

 前回まで武田信玄の名言についてUPしてきたが、今回からその信玄の好敵手「上杉謙信」の名言をUPしていきたい。  信玄と比較される謙信。  信玄は、軍略、戦術を決める時、諸将の意見を聞くことが多かったという。  対して謙信は、潔癖症で無欲であるが、物事を決める時は独断でやることが多かったという。  好対照の二人なのだが、歴史ファ…
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武田信玄の少年時代の逸話

 今まで、武田信玄の名言としてPart6までUPしてきたのだが、今回、閑話休題ではないが信玄が少年時代のころの逸話を述べていきたい。  勿論、歴史好きの皆さんはご存じだと思いますが、そこのところは御了解を得たいと思います。  こと、英雄的な人物ということになると、伝説的な逸話が数多くあるし、信玄もその一人であろう。  信玄がまだ「…
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戦国武将の名言集~武田信玄Part6

○ 働く者には相方をつけることが大切だ     信玄は云う。「人間の能力は決して同じではない。性格も違うし、長所もあれば   短所もある。そこで長所と短所をよくよく見抜いたうえで、甲と乙、乙と丙という   ように相方として組み合わせることが大切になってくるのだ。こうすることによっ   て、お互い相方の長所を学び、短所を改めるとい…
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戦国武将名言集~武田信玄Part5

〇 大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することが、最も重要である。   日頃からこのような考えであるから、信玄の名言集には随所に関連した  ものが出てくる。 〇 百人のうち九十九人に誉められる者は、決して良い人物ではない   信玄は人を用いる際にも「少しくらい鈍い者の方がよい」と言っていたという。   そして、又「…
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戦国武将名言集~Part3

○ もう一押しこそ慎重になれ。   これはもうことばのとおりだ。 ○ 負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家の亡ぶるを、人みな天命と言う。   それがしに於いては天命とは思はず、みな仕様の悪しきが故と思うなり。   負けることのない戦に負け、亡ぶことのない家が亡ぶのを、人はみな天命と言っ   ている。    自分は天命とは思わず…
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戦国武将の名言集~武田信玄・part2

 戦国武将の中でも武田信玄ほど畏怖され畏敬の念で見られた武将も少ないであろう。  あの信長さえ信玄の動静には常に関心を持ち、贈り物をするなどのゴマすりもしているのだ。  後世にも、信玄公の名で格言・名言なるものが相当数残っているのだが、真偽の程はどうだろうか?  実際に信玄が口にしたのかどうかは、今となっては証明することは出来ない…
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戦国武将の名言集~武田信玄

 今回は戦国武将の中でも超有名な武将「武田信玄」の名言について述べたいのだが、戦国歴史に興味のある方は既に知っておられることと思いますのでご理解ください。  信玄が生まれたのは、大永元年11月3日(1521年)  亡くなったのは、元亀4年4月12日(1573年)  幼名・太郎(通称)、晴信、機山(道号)、徳栄軒信玄(法号・…
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戦国武将の名言集~北条早雲

 戦国武将達はどのような信条をもって生きていたのだろうか?  武将たち本人も中々気づかないものと思うのだが、後世の歴史家たちは色々調べているようではある。  ということで、今回から一寸気になる名将たちの「名言集」について述べたい。  まず「北条早雲」なのだが、最初に持ってきた理由は、「戦国時代」と云われる時代には、必ずと言っていい…
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織田信長の子孫(男子)たち

 天下統一を目前にして、時の風雲児織田信長が、京・本能寺で明智光秀に討たれたのが天正10年(1582)のことだ。  それから433年経つ。  今日まで織田信長に関する芝居・映画、TVドラマ等は数知れないほどであろう。  信長の兄弟の事は過去にもUPしているのだが、それでは信長の子孫はと云えばあまりお目にかかったことはないと思う。 …
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武田信玄の弟「武田信廉」のこと

 前回に続き、今回は信玄の弟「信廉(のぶかど)」のことだ。  歴史の中ではこの二人、よく対比されるのだが、対照的に生きたと評されている。    武田 信廉は、天文元年(1532年) - 天正10年3月7日(1582年3月30日)?) 戦国時代の武将である。  武田信虎の四男であり、武田信玄、武田信繁とは同腹の兄弟。幼名は孫六とい…
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武田信玄の弟信繁のこと

 前回信長のことについてUPしたのだが、そこで大チョンボして申し訳ありませんでした。  弁解になるのですが、其の時次は何をUPしようかと考えながら信玄の兄弟の事を考えていた。  そして信長の父「信秀」と、信玄の父「信虎」を混同してしまい、チェックもせずに公開を押してしまった。  まことに申し訳なかったと思っています。  今後はチ…
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信長の「うつけ振り」を列挙・パート4

 信長の「うつけ振り」をパート1からパート3まで云ってきたのだが、今回はその信長の実態を見抜いた男・・・そうご存じの斉藤道三のことである。  信長が道三と面会した後、巷ではその「うつけ振り」は信長の演技ではなかったのか?と囁かれだすのだ。  それではその面会のことについて簡単に述べていきたい。  道三にとっては隣国織田家に嫁い…
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