テーマ:歴史

「本能寺の変」10日後の光秀書状発見

 本能寺で織田信長を討ち果たした明智光秀が、10日後に反信長派の豪族に宛てた書状が発見されたという。  詳細は引用文の通りだが、信長誅殺にはいろんな説があるので、専門家はこの書状から真実をどう読み解くのかは興味がある。 【産経ニュース】9/12 光秀の狙いは室町幕府再興か 「本能寺の変」10日後の書状原本発見 明智…
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加藤清正の最後とは?

 加藤清正が築城した熊本城、この度の地震で大きな被害を受けた。  この城、熊本市民にとっては自慢の城だけに早い復元を期待しされているのだが・・・・  その清正の最後はこの熊本城内であったという。  慶長十六年(1611)三月二十七日、二条城での家康・秀頼の会見後、熊本に帰国の途中、俄に船の中で病み、六月二十四日熊本にて没したと…
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戦国武将の中でも哀れさを誘う武田勝頼

 戦国武将・武田勝頼を語る時、両極端に分かれる。  一つ、勝頼は武田氏を滅ぼした無能な武将である。  一つ、勝頼は有能だったが、偉大な父・信玄の残した負債に押し潰された不運な武将である。 と言ったような批評の分かれ方が多い。  果たしてどちらだったのであろうか?  今となれば証明のしようもないが、無責任な話をすれば両方とも…
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上杉謙信は信玄に塩を送ったのかナァ

 前回は武田信玄のことをUPしたので今回は謙信のことについて思いを綴りたい。  それは良く言われているように諺で「敵に塩を送る」という言葉だ。  これは、争っている相手が苦しんでいるときに、争いの本質ではない分野については援助を与えることの例えだ。  戦国時代、遠江の今川と相模の北条の両氏から武田信玄が、経済封鎖をされ塩不足で困…
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武田信玄は本当に上洛しようとしたのかナァ

 今日は武田信玄のことについて記したい。  とは言っても大したことではないのだが・・・元亀3年(1572)10月3日甲斐の武田信玄が西に向けて出立した。  兵約27000人というから大掛かりな西上だろう。  この西上を、信玄が上洛のためだったと言われていることに疑義があるのだ。  本当に上洛のためだったのであろうか?  とする…
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前田利家の死の直前

1/20に秀吉の死の間際をUPしたのだが、その秀吉の盟友と言われたのが前田利家だ。  秀吉から五大老に推された利家だが、秀吉の死後にも豊臣家の嫡男「秀頼」のことを気に留めていたという。  秀吉は慶長3年(1598)8月18日に亡くなるのだが、利家はそれから僅か半年後の慶長4年3月3日に大坂で亡くなっている。  病名は不明だと伝…
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石田三成の逸話

 前回UPした明智光秀と同じく、歴史ファンにもあまり好印象を与えていないのが「石田三成」だろう。  しかし、小生はちょいと違うと思うのだ。  子供の時秀吉に仕官し、その後秀吉に取り立てられて一国一城の主に駆けあがった三成。  他の武将と違って、秀吉に相当な恩義を感じていたのではと思っている。  それが秀吉死後の「関ケ原の戦い」だ…
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明智光秀の連歌の話

 先日、知人等と一杯飲みながら俳句の話をしていた。  俳句につてはそれほど興味はないのだが、次第に話が逸れ始めて、光秀が本能寺の変を起こす前に「連歌」を通じてそれらしきことを口にしていたという方向に行ってしまった。  みんな歴史が好きな連中なので自ずからその方向にいったのであろうが、それにしても皆博学なのには驚いたのだ。  そこで…
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豊臣秀吉の死の直前は秀頼の心配だけだった

 小生が子供の頃の戦国時代の英雄と言えば羽柴秀吉であった。  なぜ豊臣秀吉ではないのか?と問われれば、「天下人になるまでの秀吉が好きだから」と答えることにしている。  天下を取るまでの秀吉は信頼する主君信長を一途に頼り、誠心誠意忠誠をつくし、自分の持てる能力を発揮しているところに興味があったからだ。  豊臣性を名乗った秀吉はどうし…
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信玄VS謙信の違い 戦は結果なのか経緯なのか?

 久しぶりのUPです。  休んでいる間に次の題材は何にしようかと考えることが多かったのだが、最後には謙信か信玄にたどり着いてしまう。  小生にとっての戦国時代を象徴する武将は、武田信玄と上杉謙信に絞られてしまう。  それほど武名高い二人なのであるが、性格や戦法は両極端の二人でもある。    二人に関しては次のような話が伝わって…
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戦国時代に合戦で使用された小道具

 戦国時代、合戦に使用された必要な小道具は種々雑多であった。  特に大将の小道具は「大将の六具」と言われる位大事なものとされたらしい。  身に着ける「鎧」、「太刀」、「采配」、「軍配」、「鞭」、「扇」を指している。    「合図の六具」とは、「鉄砲」、「のろし」、「旗」、「法螺貝」、「鐘」、「太鼓」だと言われている。    …
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信玄・謙信の軍旗「風林火山」と「毘」

 武田信玄の軍旗。  あまりにも有名な旗である。  これはご存知「孫子」の書から『疾如風徐如林侵 掠如火不動如山』という一句をとり、紺地に金で染めた旗印だ。  他にも、戦勝祈願を行った神社の名前「諏方南宮上下大明神」などと記したものがある。 ○ 其疾如風~(その疾きこと風の如く) ○ 其徐如林~(その徐なること林の…
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戦国時代の軍旗・指物・馬印など

 映画やTVドラマでの戦国時代の戦場。  ちょいと想像すれば賑やかに感じるほどの場面が浮かぶことであろう。  旗印があれば馬印もあり旗指物まである。  実際に戦せず対峙しているだけであれば何かの祭りの如くの場面ではなかろうか?  つまり殺伐とした戦場を華やかにしているのは「軍旗」「指物」「馬印」があるからだと云っても良いくらいだ…
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戦国時代の剣豪~上泉信綱

 来春、剣術「新陰流」の創始者で戦国時代の兵法家、上泉信綱を主人公とした特別ドラマ「剣聖上泉伊勢守信綱物語(仮称)」が放映されるという。  BS放送で、信綱役は村上弘明だというが、さてどんな仕上がりになるのだろうか?  上泉信綱は剣豪というより「剣聖」と言った方が相応しい人物であり、TVドラマも「剣聖」と付けられている。  上…
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戦国時代の豪傑・剣豪~塙団右衛門

 出自については正確には分かっていないと言われており不詳である。  尾張国の人で、同姓であるため、織田氏の家臣・塙直政の一族か縁者とする説もあるが、遠州横須賀衆で浪人となった須田次郎左衛門という人物が本人であるという説や、上総国養老の里の出身で千葉氏の家来だったが、小田原北条氏家臣で「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成に仕えたという説…
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戦国時代の豪傑、剣豪と云えば?

 戦国時代と言えば一国一城の主となるべく腕自慢、力自慢の豪の者が割拠した時代でもある。  小生の頭の中にある豪傑で思い出すのは、後藤又兵衛、塙団右衛門、可児歳三、上泉信綱、柳生宗厳・宗矩親子、塚原卜伝等々いる。  剣術の技を磨いて諸国放浪していた宮本武蔵や佐々木小次郎などもいる。  その他にもいると思うが割愛させて頂くとして、今回…
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織田信長が黒人を家臣にした話

 信長の逸話の中でも有名なのが黒人を家臣にした話のことだ。  天正9年(1581)にイエズス会の大物ヴァリニャーノが日本巡察にやってきた。  彼は織田信長に謁見しようとして京にやってきたのだが、そのとき彼が連れていたのが黒人の奴隷であった。  信長は京の本能寺に宿泊していたのだが、京の町は大騒ぎとなったという。  当時の日本はど…
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宣教師ルイス・フロイスから見た信長像

 日本人にとっての戦国武将・織田信長像は「傲岸で自分以外の者は信用しない」と云われるほど尊大だったとの印象が強いと思っている方が多いと思う。  そして、事実そのような武将だったらしい。  それでは外国人から見た信長像はどうだろうか?  今回はポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが見た信長について述べたい。  これらの話は有名なもの…
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戦国時代の「城」は武将の象徴と政務の中心

 織田信長のことについて何度かUPしたのだが、今回は先月発生した熊本地震のおかげでひどい損害を受けた「熊本城」に関連して「城」についてUPしたい。  その前に「この熊本城」のことなのだが、別名「銀杏城」という愛称があり市民から親しまれていたという。  銀杏城」という名の由来になっているのは、城内に植えられた銀杏の木である。  これ…
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織田信長の戦への取り組み方

 織田信長といえば一生のうち100回近い戦をやっていることは述べたのだが、この信長、戦のことについては普段からいろいろ考えていたという。  武将の子供だけあって当時の遊びは、ほとんどが「戦」と関係のある遊びだったという。  棒ふりから始まって水遊び、木登り、駆けっこから石投げ等々・・・・「戦」と絡ませたといわれている。  槍の長短…
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信長の小姓「森蘭丸」の逸話

 前回に続き森蘭丸の逸話としたい。  皆さんには申し訳ないないのだが、小生は、逸話というものは事実もあるのだろうが、後年の人々がこうではなかったのか?との願望と期待が入り混じった創作ものが多いと思っている。  信じる人もいるだろうが信じない人もいるのでは・・・と思うのだ。  だから、逸話というものは話として知っておく程度で良いと小…
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織田信長の小姓「森蘭丸」のこと

 前回少し述べたのだが、信長の小姓「森蘭丸」のことだ。    その前に小姓のことだが・・・  武家の社会では亭主(武将)の身の回り、つまり雑事のことなのだが、正室、側室等の女房達は一切しなかったといわれている。  それでは誰がやったのかというと小姓と呼ばれる少年たちだ。  亭主つまり武将の食事から身支度、掃除、外出する時の供ま…
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織田信長の初陣と側室の話

 織田信長の初陣については前回もサラッと述べたのだが、詳細な記録はないというのが本当らしい。  前回もUPしたように初陣は天文16年(1547)吉良の大浜城攻めであるが、これは今川義元の勢力が伸びてきていたことで吉良大浜を攻めている。  一応初陣ということもあって信長主従は、今川方の軍事基地に次々と火を放って引き下がり、翌日には帰っ…
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織田信長の負け戦について

 こんにちは!久しぶりのUPです。  今回は信長の合戦についてUPするのですが、織田信長の合戦ということになると凄い回数になると思います。  ざっと調べただけで90回近い合戦をしている。  華々しい勝ち戦ばかりではなく、当然負け戦もあるわけですがその数19回ぐらいでしょう。  ということで、今回は信長の負け戦と言われているものを…
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織田信長の残酷非道の話

 新年初めての投稿です。今後ともよろしくお願いします。  ミスもょこチョコありますが大目に見ていただきたいと思います。    今まで、信長にも慈悲心があることを述べてきたが、今回は語られている「残酷」な面について少し述べたい。  歴史ファンであれば知っていることなので、詳しい方はスルーしてください。  歴史好きの方達は、信長が…
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信長は信仰心何てなかったのか?

 信長を語るとき、必ず出てくるのが比叡山での焼き討ちによる僧侶の殺戮、高野山や奈良での寺院の破壊の事であろう。  信長は特に一向宗への憎悪が計り知れない所があるように見受けられる。  それと、二条城の建設時、京の石仏などを片っ端から引き倒して石材に使っている。  これらの事を考えると、当時の人々もそうだが、後の専門家を含めて「信長…
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信長&義元「桶狭間の戦い」・その三

 義元が休息しているという情報を得た信長は、小踊りせんばかりに喜んだことは想像できる。  だって、義元は2万5千人、自分達はたったの3千人た。  まともに向かって戦っても勝てる道理は全く無いわけだから、この機を千載一遇ととらえたことであろう。  だから信長は、情報を得ると、時をおかず直ちに「桶狭間」を目指した。  織田方が田楽狭…
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信長&義元~「桶狭間の戦い」・その二

 「敦盛」の一節を謡、舞う事三度繰り返した信長は愛馬に跨り一騎だけで清洲城を駆け出しだ。  この時従ったのは、岩村重休、長谷川好秀、佐脇藤八、山口弘寄、加藤弥三郎の五騎だった。  辰の刻の「五つ」(午前8時頃)ころ熱田神宮に到着したのだが、この時の兵数は約200人に増えていたという。  信長は願文を納めて戦勝を祈願している。  …
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信長&義元~「桶狭間の戦い」・その一

 前回、桶狭間の戦いについて述べたのだが、今回はもう少し詳しく述べてみたい。  とは言っても信長を語るとき、必ず出てくるのが「桶狭間の戦い」で、歴史ファンであれば知らない者はいないだろう。  まず今川義元のことなのだが、義元ぱ天下取りのため日ごろから上洛することを近臣の者たちには伝えていたという。  それでも中々決断が付かなかった…
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織田信長は病気はしなかった?

 信長の肖像画を見ると小柄でやせ細り、色白の一見美男子に見える。  乱世の戦国時代で、天下統一を果たす寸前まで上り詰めた戦国武将にはハッキリ言って見えない。  だが体の方は健康だったようである。  『信長公記』にも病気らしい病気をしたという記述はない。  敢えて云えば、鼻部分にできた「面疔(めんちょう)」位のものだろう。   …
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