織田信長の初陣と側室の話

 織田信長の初陣については前回もサラッと述べたのだが、詳細な記録はないというのが本当らしい。
 前回もUPしたように初陣は天文16年(1547)吉良の大浜城攻めであるが、これは今川義元の勢力が伸びてきていたことで吉良大浜を攻めている。
 一応初陣ということもあって信長主従は、今川方の軍事基地に次々と火を放って引き下がり、翌日には帰ったという。
 この時のいでたちは、“紅筋が入った頭巾”をかぶっていたといい、馬乗り羽織を着て、馬鎧をつけた馬に乗っていたという。
 見た目に初々しい若武者振りだった。
 後見役は勿論ご存じ、傅役の平手正秀である。

 信長像を見る限り神経質そうではあるが、中々の美男子のようであり、当時の女性からは好かれたのでは・・・と思う。
 信長の生活や「戦」振りから判断すると強者という印象があり、女性にはあまり関心がなかったかのようにも見受けられる。
 それは小姓として美形の「森蘭丸」等をそばに侍(はべ)らせていたことから男色系と取られていることもあるようだ。
 当時の武将は、戦場に女性を連れていく者も多かったようではあるが、信長は小姓を侍らせた。
 このことから、小生が思うに、女性は万が一のとき足手まといになる場合もあることから遠ざけていたのでは・・・と推測すのだ。
 それともう一つは、危険な場所(戦場)に行かせたくないとの信長自身の優しさも垣間見えるのだが・・・どうだろうか?
 
 実際はどうだろうか?
 正室の「濃姫」との間には子供はいなかったが、信長には男子が11人、女子も11人と22人もの子供を授かっている。
 勿論、側室1人との子供ではなく多数の側室との間に生まれたのだから、相当の女好きだといったほうが良いかもしれない。
 マァ、20年や30年の間に22人もの子供をつくっているのだから決して女嫌いとは言えないだろう。
 それにしても、忙しい合戦の合間をぬって22人もの子供を設けた努力に敬意を表したい。
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織田信長の負け戦について

 こんにちは!久しぶりのUPです。
 今回は信長の合戦についてUPするのですが、織田信長の合戦ということになると凄い回数になると思います。
 ざっと調べただけで90回近い合戦をしている。
 華々しい勝ち戦ばかりではなく、当然負け戦もあるわけですがその数19回ぐらいでしょう。
 ということで、今回は信長の負け戦と言われているものを列挙したいと思います。
 主な負け戦と言われているものは以下のようになりますが、その前に織田信長の初陣のことについて少し記しておきたいと思います。
 信長の初陣は14歳のときだといわれています。
 記録では、天文16年(1547)大浜城攻めに参加しているようですが、駿河から吉良大浜(現在の愛知県吉良町)へ向かい、翌日、名古屋の城に戻ったとされています。
 戦自体の記録は残っていないことから、緊迫した状況での出陣ではなく、儀式的な色合いの濃い初陣だったと思った方が良いようです。
 それでは「負け戦」を記していきますが、信長自身が直接戦ったのではなく、信長の命令で家臣が戦い敗れたものもありますのであらかじめ承知しておいてください。

○ 「品野城の戦い」 永禄1年(1558) 相手は松平家次で、初の敗走
○ 「鷲津城の戦い」 永禄3年(1560) 相手は今川義元 
   桶狭間の戦いの前哨戦 負け戦
○ 「丸根砦の戦い」  同上
○ 「稲葉山城攻め」 永禄4年(1561) 相手は斉藤龍興 攻略に失敗し断念する
   負け戦
○ 「小口城攻め」   永禄5年(1562) 相手は織田信清 攻略に失敗し断念する
   負け戦 
○ 「新加納の戦い」 永禄6年(1563) 相手は斉藤龍興 負け戦 敗走
○ 「河野島の戦い」 永禄9年(1566) 相手は斉藤龍興配下 負け戦 敗走
○ 「金ヶ崎撤退戦」 元亀1年(1570) 相手は浅井・朝倉軍 負け戦 敗走
○ 「宇佐山城の戦い」 元亀1年(1570) 相手は 浅井・朝倉軍 負け戦  
○ 「長島の戦い」 元亀2年(1571) 相手は一向一揆軍 負け戦 敗走
○ 「岩村城の戦い」  元亀3,年(1572) 相手は武田信玄配下 負け戦
○ 「三方ヶ原の戦い」 元亀3年(1572) 相手は武田信玄 負け戦
   徳川家康の援軍派遣
○ 「明智城の戦い」 天正2年(1574) 相手は武田勝頼 負け戦
○ 「高天神城の戦い」 天正2年(1574) 相手は武田勝頼 負け戦
○ 「大阪湾海戦」 天正4年(1576) 相手は毛利水軍 負け戦
○ 「手取川の戦い」 天正5年(1577) 相手は上杉謙信 負け戦
○ 「上月城攻め」 天正6年(1578) 相手は毛利輝元配下 負け戦
○ 「伊賀攻め」 天正7年(1579) 相手は伊賀土豪連合 負け戦
○ 「本能寺の変」 天正10年(1582) 相手は明智光秀 負け 自害
以上が小生が調べた負け戦ですが、洩れていたり間違っていれば指摘してください。
 

織田信長の残酷非道の話

 新年初めての投稿です。今後ともよろしくお願いします。
 ミスもょこチョコありますが大目に見ていただきたいと思います。
 
 今まで、信長にも慈悲心があることを述べてきたが、今回は語られている「残酷」な面について少し述べたい。
 歴史ファンであれば知っていることなので、詳しい方はスルーしてください。
 歴史好きの方達は、信長が浅井親子の頭骨を金箔にして、杯代わりに飲み回しをしたとか、長政の母親の指を数日かけて一本一本切断したとか伝わっていることを知っていると思う。
 信長の残虐非道な面は他にも沢山あるのだが、今回は信長に背いた「荒木村重」のことについて述べたいと思う。

 巷間言われている言葉に「泣かぬなら、殺してくれようほととぎす」と言われている信長だ。
 このように伝わる性格だから、数々の残酷面での逸話も多い。
 しかし、考えれば「殺し殺される」戦国の世の中だから、やらねば自分がやられるわけだから仕方のない時代でもあったということは間違いあるまい。
 そんな世の中でも「残虐非道」と言われた信長ということになると、いかに凄まじいことをやっているのか・・・なのだが・・・・
 
 天正7年(1579)、摂津伊丹城の城主荒木村重が信長に背いた。
 信長は、荒木家に出入りする従者を持つ武将の妻子を全て人質として拘束していた。
 当時、人質を取るのは日常茶飯事で、どんどん人質を出させてもいたし,出しもしていた。
 その人質は、出した相手が裏切れば残酷な殺し方をし、見せしめにしていたのだ。 
 
 だから村重が謀反を起こしたとき、約120人といわれる婦女子を尼崎で磔にしている。
 そして、後で捕らえた約500人を火炙りの刑に処し、荒木一族の者約30人は京都の六条河原で車裂きという極刑中の中でも極刑に処した。
 信長は、村重が憎かったのであろうが、家中の者に対しても「俺に背いたらこのようになるのだぞ」と言いたかったのでは・・・・と推測できる。

 史実によれば、まず天正7年(1579)12月13日に尼崎近くの七松で、村重とともに逃亡した家臣らの女房衆120人が処刑された。
 磔(はりつけ)にされ、鉄砲や長刀で殺される姿、家屋に押し込められて焼き殺される様は凄惨なものだったとある。

 村重の妻・だしの処刑が行われたのはその3日後、12月16日のことである。
 京の六条河原に護送された村重一族と重臣の家族約30人が大八車に縛り付けられ洛中を引き回された後、車裂きされたりした。

 この時、村重の妻「だし」はなんとまだ21歳だったというが、今楊貴妃と言われている位の絶世の美女といわれていたらしい。
 処刑時の「だし」は白い経帷子の上に色鮮やかな小袖を着た姿で、毅然とした態度で最期を迎えたと伝えられている。
 
 逃亡した村重は、本能寺の変で信長が死んだ後は秀吉に許され、茶人として人生を終えているのは承知の通りです。
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                    荒木村重像
 
 
 
 

信長は信仰心何てなかったのか?

 信長を語るとき、必ず出てくるのが比叡山での焼き討ちによる僧侶の殺戮、高野山や奈良での寺院の破壊の事であろう。
 信長は特に一向宗への憎悪が計り知れない所があるように見受けられる。
 それと、二条城の建設時、京の石仏などを片っ端から引き倒して石材に使っている。
 これらの事を考えると、当時の人々もそうだが、後の専門家を含めて「信長は神仏も恐れない異人」だと恐れられた節がある。
 しかし、信長は全ての宗教を否定していたわけではないようなのだ。
 仏教そのものを排除したり攻撃はしていない。
 それなりの理由があるのだ。
 それは、各地に勢力を持ち、自身の統一に反対し刃向かう者を排除するために戦っているのだ。
 武家政権の担い手である信長にとって、仏教勢力との対決は避けて通れない道でもあったのだ。
 
 話は少し横道に逸れるが、当時の世の中(戦国時代)では、信仰に頼り自ら出家する武将は結構いたのだ。
 北条早雲もその一人だが、彼は京の建仁寺、大徳寺にて修行している。
 そして、早雲庵宗瑞と名乗った。
 九州の竜造寺隆信は幼少の時には出家している。
 武田信玄、上杉謙信、斉藤道三、筒井順慶、細川幽斎等々も出家組だ。

 この時代伝来したキリシタンに魅せられ改宗した大村純忠、有馬晴信、大友宗麟等の大名も有名だ。
 彼らは「仏教では戦乱の世は救えない。慈悲を説くデウスの教えなら救える」と信じ改宗したのだ。
 
 信長は決して無信心ではないのだ。
 諸説は色々あるが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦い前、熱田神宮に戦勝祈願をしている。
 そして、勝利した後「信長塀(築地塀)」を寄進しているところを見ると、そうでもないのだ。
 さらに、父祖の地に牛頭天王社本殿を造営しているし、奈良春日大社の神鹿の保護もやっている。
 政教分離を主張していた信長なのだが、「キリスト教」の布教は許し、保護政策もやっている。
 キリスト教の宣教師に在住許可も与えているし、京に会堂(南蛮寺)も造っている。
 安土では会堂と神学校の建設までも許している。
 神学校では土地だけでなく、建築費までも寄付しているから驚く。
 
 信長は、宗教そのものを嫌ったのではなく、この宗教が権力と結びつくのを徹底して嫌っているのである。
 決して個人が信仰するのを嫌っているのではないのだ。
 信長に関しこんな話がある。
 あるとき諸国を巡礼して歩く「無辺」という僧がいたというのだが、この僧「自分は不思議な秘法をもっている。これを授かる者は現生では災いを逃れ、来世では罪を許される」と説いて信仰を集めていたという。
 知った信長は、化けの皮を剥がしてやろうと無辺を屋敷に呼び次のような問答をしたという。
 「生国は?」と問うたのだ。
 すると無辺は「天にも無く地にも無く空にも無い無辺だ」と答えたというのだ。
 現実主義者の信長は「この世のものは天地を離れて存在することはできないだろうが」と言い、即刻首をはねている。
 徹底して人の心を欺くことを嫌っているようなのだ。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 

信長&義元「桶狭間の戦い」・その三

 義元が休息しているという情報を得た信長は、小踊りせんばかりに喜んだことは想像できる。
 だって、義元は2万5千人、自分達はたったの3千人た。
 まともに向かって戦っても勝てる道理は全く無いわけだから、この機を千載一遇ととらえたことであろう。
 だから信長は、情報を得ると、時をおかず直ちに「桶狭間」を目指した。
 織田方が田楽狭間の後方にある太子ケ根に達しようとしたとき、突如稲妻が走り大雨が降り始めたという。
 この雨は約30分で止んだと云われているが、降り止むと同時に信長は全兵に突撃を命じた。
 周囲100mの狭い空間で休んでいた今川軍に一気に襲いかかったのだ。
 義元軍は不意を突かれたわけで、味方同士の喧嘩か、又は謀反を起こしたのでは・・・と思ったのではと推測されるほど急なことだったという。
 まさか敵方が攻め込んできたとは露とも思わなかったのでは・・・と推測されるのだ。
 休息の為、具足を解いていた今川軍は慌てるばかりで、次々と倒されたことも想像は出来る。
 現在でいう午後2時ごろ、ついに義元が発見されるのだが、僅かな旗本に守られていたのだという。
 信長は「旗本は是なり、是へかかれ」という命令を出している。
 義元には、服部小平太が一番槍をつけている。
 義元は小平太の一撃を膝に受け、抵抗が鈍ったところを毛利新介に組み敷かれた。
 義元は、苦し紛れに新介の小指を食いちぎったというが、結局首級を上げられる。
 
 戦というものは、主君が討ち取られた時点で決着がつくわけで、今川軍は武将それぞれが兵をまとめて戦場を離脱し、自国へ帰ってしまう。
 ただ、鳴海城を守護していた今川方の岡部元信だけは、開城することを条件に主君義元の首級を返してくれるよう信長に乞うて、信長もこれを許している。
 岡部元信は、武士の意気地を貫いたとのだ。

 この岡部元信のことだが、主君・今川義元が織田信長に討たれた後も抵抗し続けている。
 信長が差し向けた織田軍を悉く撃退し、主君・義元の首と引き換えに開城を申し入れ、信長はその忠義に感動して義元の首級を丁重に棺に納めた上で送り届けたと伝わっているのだ。
 元信は義元の棺を輿に乗せて先頭に立て、ゆうゆうと鳴海城を引き払っている。

 結果的には信長軍の圧勝なのだが、信長の情報網が功を奏したというわけで、論功行賞で、随一の功労者ということで、梁田政綱に対し、沓掛城と三千貫の土地を与えている。

 一方敗北した今川家の方だが、家督を継いだ「氏真」は暗愚と呼ばれる程性根がなかったらしい。
 弔い合戦など考えもせず、ただいたずらに時を過ごすだけだったのだ。
 特に松平(徳川)家康は、義元死後には氏真に見切りをつけていたので早々に岡崎城に返ってしまった。
 氏真がしっかりしていれば、家康の将来が違っていたものになっていたのだろうが・・・・・
 勿論、他の家臣も離反し始め、結局今川家は滅亡してしまうのだ。
 でも氏真は世渡りが上手だったようで、信長、秀吉、家康に上手く取り入り77歳まで生き延びている。
 この件については機会があればUPしたいと思います。

 という事で、織田家にとっては好機到来であったろう。
 それまでは尾張一国を支配するのが精一杯だっものが、家康と同盟を結んだりして、勢力を美濃へと発展させ、後には天下目前まで至るきっかけとなったのだから・・・・万々歳であったろう。
 
 
 
 
 
 
 
 

信長&義元~「桶狭間の戦い」・その二

 「敦盛」の一節を謡、舞う事三度繰り返した信長は愛馬に跨り一騎だけで清洲城を駆け出しだ。
 この時従ったのは、岩村重休、長谷川好秀、佐脇藤八、山口弘寄、加藤弥三郎の五騎だった。
 辰の刻の「五つ」(午前8時頃)ころ熱田神宮に到着したのだが、この時の兵数は約200人に増えていたという。
 信長は願文を納めて戦勝を祈願している。
 説によるとこの時、社殿の奥から白鷺が飛び出したので、信長は「この戦さ、勝利は間違いなしッ」と叫び、兵の士気を高めたとなっているが・・・どうもこれは創作だろうというのが有力だ。
 その後信長は、丹下、善照寺を視察しているが、丸根と鷲津の両砦は陥落してしまっている。
 この時、「佐久間盛重」、「織田信蕃」、「飯尾定宗」等が戦死している。
 今川方の籠る「大高城」を攻めるべく、善照寺を出発して討死したのが「佐々隼人正」、「千秋四郎」などだ。
 しかし、この時、信長の兵力は約3000人と、予想される目いっぱいの人員に膨れ上がっていたという。
 そして、信長は約300人を鳴海城に入れ、約1千人を善照寺に入れて気勢を上げさせている。
 これは、信長本人が善照寺に入ったと思わせる作戦だったのだ。
 
 形勢不利と見えたこの状況の時、「梁田」から一報が入っている。
 それは、義元軍が「田楽狭間で休憩中」というものだ。
 だから信長本隊が善照寺に入ったと見せかけ、今川方を油断させたのだと思う。
 信長は情報収集に相当力を入れていたようで、梁田だけでなく大勢の間諜を各地に放っていたようである。
 その一人が梁田であったのだ。
 だから情報戦で信長は勝ち、義元は敗れたと言っても良いのだろう。
 田楽狭間のことだが、桶狭間からは東北部に当たる位置にあり、周囲約100m位の低地だったという。
 周りは山に囲まれていいるのだから、普通の武将であればこんな低地を休憩場所には選ばなかったと思うのだが・・・義元はここを選んだ。
 ということは、前記したように信長を侮っていたと思わざるを得まい。つまり油断だ。
 周囲100mというと今川勢の本隊5000人が休息場所とするのは狭すぎたのではなかろうか?
 
 義元本人は凄く機嫌が良かったという。
 それはそうだろう。松平隊(後の家康)からは「丸根」を陥落させたと情報が入るし、「鷲津」の砦は朝比奈泰が陥落させたと知らせてきたのだから、機嫌が悪い筈はあるまい。
 さらに追いかけるように、善照寺の織田方を撃ち破ったとの報も入るから勝ち戦だと思い込むのも仕方があるまい。
 ましてや地元の神社、寺、住民等から、戦勝祝いと称する品々が届くものだから休息時間も長くなってくるのは必然だろう。
 
 今川隊は良い気分で酒盛りを始める始末だったのだ。
 歴史作家は、これらは全て信長がやらせたもので、義元の油断を助長させたと云う風に描写するのだが・・・さて真実は如何に・・・といったところか。(続きはその三へ)
 
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                   織田信長像
 
 
 
 
 
 
 
 
 

信長&義元~「桶狭間の戦い」・その一

 前回、桶狭間の戦いについて述べたのだが、今回はもう少し詳しく述べてみたい。
 とは言っても信長を語るとき、必ず出てくるのが「桶狭間の戦い」で、歴史ファンであれば知らない者はいないだろう。
 まず今川義元のことなのだが、義元ぱ天下取りのため日ごろから上洛することを近臣の者たちには伝えていたという。
 それでも中々決断が付かなかったようなのだが、永禄3年(1560)5月12日に出立するのだ。
 義元は、遠江(現静岡県中央部)と三河(現愛知県東部)を領地に持つ太守なのだが、兵約2万5千人を引き連れていた。
 先発隊は井伊直盛の駿河府中(現静岡市)なのだが、これに遅れる事2日後に出陣している。
 
 12日に掛川、14日には浜松、15日に吉田と順調に京に向かった。
 17日に池鯉鮒(ちりふ)(現知立町)を経て、18日信長の領地である尾張沓掛城に入城する。
 邪魔者は信長ただ一人と見ていた義元は、対決を目の前にしていたのだが、どうも「うつけの信長」と侮っていた節があるようだ。
 この時の義元は戦術上有利と見て、尾張領の「鳴海」、「大高」の二ケ所に築城していたのでよけいに心の中に過信めいたものがあったのであろう。
 この時信長は対抗上、「鳴海城」に対して「丹下」、「善照寺」、「中島」の3砦を築き、「大高城」に対しては「丸根」、「鷲津」の 2砦を築いていた。
 だが、説によると、義元の本当の狙いは「三河」の平定では無かったのでは?と云われている。
 それは、同盟を結んでいた武田信玄と北条氏康がいるのだが、この二人を信用していたわけではなく、いつ同盟関係を破棄するかしれないとの思いがあったのだというのだ。
 だから天下取りより三河平定だけでは・・・と云われているのだ。
 そして三河平定に当たっては、信長と平和解決して尾張も手中にしてしまおうとの魂胆があったのだという。

 しかし、実際はどうかと云えば、義元自身は京に心が行っていたのだ。
 髷ではなく「総髪」にしていたことと、「おはぐろ」をつけていたことから心は既に公家気取りだったのでは?といわれているから、上洛説が有力だというのだ。
 話を戻すが、義元が着実に京に向かっていたころ、信長はどうしていたのだろうか?
 信長は清洲城にいたのだが、義元が「桶狭間」付近まで進出し、19日に「丸根」と「鷲津」の両砦を攻撃するという情報は既に得ていたようだ。
 それは、情報収集担当として家臣の「梁田政綱」を動かしていたからに他ならないだろう。
 情報を得ていたにも関わらず信長は軍議もしていない。
 これは推測だが、今川軍の圧倒的有利に家臣が動揺し、織田家の情報を流すことを恐れていたのでは・・・と思うのだ。
 だから敢えて家臣には伝えておらず、世も更けた頃信長は「家に帰って休んでおけ」と、投げやりなことを言って家臣を帰している。
 家臣たちは「運の末には鏡も曇るのか・・・」と落胆したというから徹底している。
 それはそうだろう、敵・今川方は2万5千人、対して味方はせいぜい3千人だ、普通に考えれば勝てる見込みは全くないわけだ。
 落胆するのも無理はないだろう。
 でも信長だけは、場合によっては「勝てる」と踏んでいた感がする。
 梁田からの有利になる情報が手元に届くまで我慢していたのでは?・・・と、今になって考えれば頷ける面があるのだ。
 信長自身も仮眠していたのだが、午前2時ころ(当時では丑三つ時)目覚めた信長はやにわに「具足を持て、螺を吹かせろ」と出陣の命を下すのだ。
 ということは、、先に言ったように義元の本隊が「桶狭間」付近で野営をすることも情報として得ており、今川隊が寝鎮まるのを待っていたのでは?と思われるのだ。
 信長は立ったまま湯漬けを掻き込み、幸若の舞曲「敦盛」を謡い舞う事三度繰り返し、馬を走らせたのだ。(その二2に続く)
 
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                       織田信長像
 
 
 
 

織田信長は病気はしなかった?

 信長の肖像画を見ると小柄でやせ細り、色白の一見美男子に見える。
 乱世の戦国時代で、天下統一を果たす寸前まで上り詰めた戦国武将にはハッキリ言って見えない。
 だが体の方は健康だったようである。
 『信長公記』にも病気らしい病気をしたという記述はない。
 敢えて云えば、鼻部分にできた「面疔(めんちょう)」位のものだろう。
 
 「面疔」というのは、細菌感染症の一種といわれ、毛嚢炎(疔)が顔面(特に目や鼻の周辺)にできたものであるらしい。
 黄色ブドウ球菌の感染によって起こるもので、抗生物質が有効とされている。
 病巣部である眼窩や鼻腔、副鼻腔などは薄い骨を隔てて脳と接しているため、場合によっては髄膜炎や脳炎などを併発し死に致る可能性も少なくない病気であり、十分な注意が必要であると、ものの本には書かれている。

 しかし、見た目とは裏腹に信長は健勝そのものであった。
 その秘訣は、日頃の鍛錬にあったのではないかと云われている。
 一種の「養生法」だったかもしれないのだ。
 幼いころから遊びの中に軍事訓練を取り入れて走り回っていたようである。
 その遊びで日頃のストレスも発散していたのではなかろうか?とも云われているという。
 信長は「鷹狩」とか「狂(くるい)」等の遊びは生涯を通じて熱心に行っていたのだ。
 
 ※ 「狂」という遊びのことだが、狩猟での獲物を追い出す役である「勢子」に扮した徒歩隊が、獲物役である騎馬隊の侵入を防ぐという軍事訓練を兼ね備えた遊びで、信長が何よりも好きで行っており、一種の気晴らし的なものである。

 そのことは『信長公記』の中で述べられている。
 信長は一般の子供たちが遊んでいたものより、軍事を取り入れた遊びが多かったのだ。
 そして真剣に遊んでいたというから、一国の主としての自覚が幼くしてあったのではないかと推測される。
 つまり、心身の鍛錬に励み、何時の日かに備えようとしていたのではなかろうか?
 毎日欠かさず、朝と夕に馬の稽古をし、弓の特訓から日本に伝来してきたばかりの鉄砲術の習得、兵法の修学とそれこそ休む間もないほど励んでいるのである。
 それも周りから云われるまでもなく信長自身の自覚によるから凄いものだ。
 暖かくなってくる3月頃から水泳をやり、それを9月頃まで続けたというから並みの人間ではない。
 現代でも、これだけの努力をしておればあらゆる分野でも、相当の地位まで昇りついたであろうと思う。
 このような鍛錬を続けていたからこそ、信長が病気らしき病気もせす、結果として壮健な身体を生むことになったのではないだろうか。
 「鷹狩」ひとつにしても、獲物を捕らえることだけの楽しみを追い求めず、「鷹」そのものを飼育することも楽しんでいたという。
 そして、この「鷹狩」は1年を通じても行われていたというから、この気魄は凄いの一語では表せないほどだ。
 しかし、これらは信長にとって、出陣の途中や、戦勝後であったりもしているから、格好の気分転換であったのであろう。
 
 次は食の事である。
 信長の食習慣でハッキリ言えることは「食べたいときに食べたいものを美味しく食べる」というものだったらしい。
 この食生活の哲学は一生変わらなかったようである。
 生理的欲求には忠実で、一見すると奔放そのものなのだが、信長と何回かあっている「ルイス・フロイス」がこんなことを言っている。
 「酒を飲まず。職を節し・・・」と評価しているところから効果的なものだったのであろう。
 ということは、いくら食べたいものがあっても「腹八分目」の考えがあったのではないだろうか?
 
 以上述べたように、気分転換で鬱積(うっせき)を解消し、節酒、節食で健康管理に当たっていたのでは?と思われるのだが・・・・
 信長は記録に残る書物からでも「湯浴みも茶の湯」も盛んに行っていたいたのだが、中でも「茶の湯」には執心していて有名な茶道具も相当数持っていたと云われている。
 そして、これを有効活用したことで「茶の湯政道」とも云われているというのだ。
 勿論信長にとってはそれだけが目的ではなく「精神を統一」すると言うことも忘れていなかったようである。
 つまり一石二鳥が三鳥・四鳥にもしたのではないだろうか?
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                      織田信長像

 
 

 

 

織田信長の愛唱歌は「人生哲学」

 「人間50年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり、ひとたび生を得て滅せぬ者のあるべきか」・・・これは余りにも有名な詩(うた)である。
 幸若舞の「敦盛」で信長の愛唱歌でもある。
 信長は、この部分が特に好きで、いつも口ずさんでいたとも伝わっている。
 「人間50年、天界の長寿に比べれば人間の一生など夢か幻のように一瞬で消え去るものだ。どうせ人間は一度は死んでいくのだから」・・・何と虚無的で無情感な考えだろうか?
 時は戦国時代だ。このような感情を持っていなければ生き残っていけなかったのかもしれないし、そうでなければ天下統一にあと一歩のところまで達せられなかったであろう。
 信長の「人生訓」と言っても過言ではない。
 この「敦盛」を一躍有名にしたのが、ご存じ「桶狭間の合戦」だ。
 時は永禄3年(1560)5月のことである。
 駿遠二州の太守で、東海一の弓取りと称されていた「今川義元」がついに立ち上がったのだ。
 上洛すると云われながら中々決断が付かなかった義元が、2万5千人の兵を率いて西に向かったのだ。
 京までの道のりで唯一阻むのが尾張の織田信長である。
 しかし、義元は歯牙にも掛けていなかったのだ。
 それはそうだろう、信長が必死になってかき集める兵数は高々2000人、精一杯見積もっても3000人だ。
 そして、常日頃から「うつけの信長」という噂は把握しているのだから、一気に蹴散らすとの過信があったことは否めないだろうし、自分の相手では無いだろうと算盤をはじいたとしても当然だったかもしれない。

 そして信長自身もそうだが、織田家家臣達も「勝ち目はない」と考えていたことも確かだろう。
 そうした中、信長は義元が動き出したとの情報を得ても一向に動く気配を見せなかった。
 諸説では情報網を張り巡らし、攻撃の時期を狙っていたとも云われているのだが・・・

 俄かに出陣を決意したのは夜明け前になってからだ。
 信長は日頃愛している前記した「敦盛」の一節を謳い、そして舞った。
 謡い舞うこと三度繰り返した後、具足をつけ湯漬けを掻き込み、五人の小姓を従わせ、疾風のように清洲城を飛び出したのだ。
 出陣のホラ貝を聞きつけた家臣たちは、後から後から慌ただしくも追いかけたのだ。
 信長には勝算は無かったし、死ぬ覚悟もできていたはずだ。
 しかし、運が味方したのか、休息中の義元本陣を急襲し首を取ってしまう。
 これにより信長は、その名を天下に轟かせることになるのはご存じの通りだ。
 「敦盛」を舞ったと予想するのが「本能寺の変」の時。
 実際舞っているのを目撃した者はおらず推測であろうが、後の歴史家たちの「最後は謡って舞ったのではないだろうか」
との願望ではないだろうか?
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                       織田信長像
 
 
 
 
  

寧々への手紙で信長の優しさを知る

 もう皆さんご存じですよネ。
 秀吉の女癖の悪さに、信長に愚痴ったのが「寧々」である。
 その寧々に対し信長が手紙を出して窘(たしな)めたりしている。
 まずその手紙を一読願いたい。
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《以前に会見した時より、遙かに綺麗になっている。お前のように美しい女房をもちながら、藤吉郎はしきりに不足を言っているとのことだが、それは言語道断である。どこを捜してもお前ほどの女を二度と再び、あの禿鼠めが女房にすることができるものか。これより以降は身持ちを陽快にして、いかにも妻女らしい重々しさを示し、かりそめにも嫉妬がましい素振りがあってはならない》

とある。
 そして最後にこの手紙を秀吉に見せてやれと言っている。
 
 信長と秀吉、寧々の関係が良好だったことの証だろう。
 信頼関係と云う点では秀逸の手紙だと思う。(小生の独断なのであしからず)
 ここまで、お互い(秀吉と寧々)の心を図って書いた手紙は信長の優しさと共に信頼が伺えると思う。
 寧々の機嫌を取りながら一方では少し我慢しろと云い、自分(信長)は寧々の味方だとも言っている。
 
 
 

戦場で一節謡って気合を入れ、出陣した信長

 前回は、文武に渡って知識を持っていた信長についてUPしたが、引き続き信長のことを披露したい。
 永禄11年(1586)年、信長は足利義昭を奉じて上洛し将軍職につけた。
 数日後岐阜に帰るのだが、この動向をジィッと見ていたのが「三好長逸」、「三好政康」「三好友通」の三人である。
 この三人、「三好三人衆」と呼ばれているので存じだと思います。
 信長が岐阜に帰国したのを見計らって、この三人衆が翌永禄12年の初頭、義昭を捕えて「本圀寺」に幽閉してしまったのだ。
 この報を聞いた信長は激怒し、直ちに兵を引き連れて京に向かった。
 この時大雪が降っていたといわれるが、普通3日かかるところを2日で行き着いたというから相当の強行軍だったと思われる。
 普段の信長であれば、三好三人衆が怯むのを奇貨として休む間もなく撃破したのであろうが、如何せん雪中行軍だったため兵が疲労困憊(ひろうこんぱい)していた。
 そこで信長は一呼吸後、「俺がこれから歌を一節謡う。皆はこれに続いて謡い、三べんまわったら出陣だ。三好の奴らを蹴飛ばすぞ」と云って、次のような歌を謡ったという。
     織田の上総は 果報のものや
     一番槍をつくほどに 
     しかも上意の御前にて
 時を数えるように謡が三回まわると信長勢は突撃し、見事三好三人衆を蹴散らしたという。
 信長は過激な武将といわれているが、随所にこのように、時と場所、時期に配慮する「目」、度量も兼ね備えていた武将だったのである。(戦国時代ものしり事典から)


 
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                        織田信長

信長も歌の心得を持っていたという話

 約1ケ月間ご無沙汰していました。
 久しぶりと云う事で、今迄「名言集」と題して述べてきたのを少し離れたいと思います。
 織田信長の話題には変わりないのですが、我々現代人は信長の事についての印象は、武道まっしぐらで、こうと決めたら後に引かない気性の激しい武将だとの意識があると思います。
 その通りだと思いますが、反面心優しい面も持ち、文武に渡って幅広い知識も兼ね備えていたようです。
 
 若い時から織田家というキチンとした武家の出にも関わらず、風体には気を配らずにやりたい放題の事をしてきていたのです。
 このあたりは歴史に詳しい方は良くご存じだと思います。

 分裂していた織田家をまとめ、尾張を落とし、桶狭間で今川義元を倒し、美濃攻めを為した。
 そして永禄11年(1568)、時の将軍足利義昭を報じて上洛することになるのだが、そのころの話から始めることにしたい。
 
 信長が宿にしていた東福寺には、上京、下京といわず、大勢の年寄りたちが連日信長のご機嫌伺いに訪れたという。
 その中に、当時、連歌の第一人者として名をうっていたいた「里村紹巴(さとむらじょうは)がいたという。
 紹巴は信長の前で二つの扇を取り出し
   二本手に入る けふのよろこび 
 と詠んだという。
 これは「日本が手中に入り、真にめでたくお祝い申し上げます」という歌なのだが、信長は考える風もなく即答で
   舞い遊ぶ 千代万代(ちよよろず)の 扇にて
と答えたという。
 これには臨席した訪問客も皆驚いたという。
 冷酷無比と思われていた戦国武将の信長が、こともなげにそれも屈託もなく、そして嬉しそうな表情で答えたというのだ。
 温かみのある信長の表情を見て、周りの者は信長に対して「頼もしさ」さえ覚えたという。

 この信長、人間臭さを表した歌は他にもある。
 天正9年(1581)頃、越後から凱旋した柴田勝家に自ら茶をたて、次のような歌を詠んだという。
   馴れてあかぬ なじみの姥(うば)口を
   人に吸わせんことをしぞおもふ
 姥口というのは、釜の口が似ているところからの名で、口を吸うということは「キス」のことを言っている。
 激しい戦の中で想像のつかないほどの茶目っ気ぶりである。

 それとは逆に戦国武将として強気な気持ちを表したのが
   勝頼と名乗る武田の甲斐ももなく
   軍(いくさ)にまけてしなのなければ
 長篠の戦で武田勝頼に勝、武田家が「甲斐」と「信濃」と失った領国をを読み込んでいる。
 勝ち誇った信長の高笑いが聞こえそうだ。

 信長にはこんな逸話もある。
 狂歌と言った方が良いのだそうだが、信長が上洛したとき、次のような歌の札を立てたというのだ。
   落ち去りていづくに塵の芥川
   さらに浮名を流す細川
 これは摂州芥川城に籠った細川六郎を、弓、鉄砲を持たずにして落としたことを謳っているという。
 信長の自信と驕りが出ているともいわれている。
 いずれにしろ信長という武将、文武に優れていた事は否定できないようだ。
 (奈良本辰也氏監修の“戦国武将ものしり辞典”から)
  
 
   
 
 

信長の名言・Part5(であるか他)

〇 であるか
  短いが有名な言葉である。
  この言葉は信長が、舅・斉藤道三に初めて対面した時だとされている。
  その場面は『信長公記』に記されている。
  当時の戦国時代、各大名は盛んに政略結婚を行っていた。
  勿論信長の父信秀も同様で、隣国の美濃・斉藤道三との関係を友好なものに
 しようと動いていた。
  その一つが、信長と道三の娘を夫婦にすることだった。
  結婚した後、信長は舅・道三と初めて対面することになった。
  この時信長は、だらしない服装で面会場所に到着するのだが、この場面は芝居、
 映画、TVで幾度も放映されているからよく知られている。
  対面場に現れた信長は、到着までの姿とはうって変わり、貴公子然とした姿だ
 ったので道三はじめ斉藤家の者どもは一瞬黙り込んだとも言われている。
  そして、信長の行動だ。
  部屋の中には斉藤道三が待っているのだが、信長は部屋の前の廊下で突っ
 立ったまま動こうとしなかったのだ。
  慌てた道三の家臣が「あれにおわすのが斉藤道三公です」と告げたのだ。
  その時、信長は「であるか」とだけ一言云って入室したというのだ。
  『信長公記』には「又是も知らぬほかにて御座候を、堀田道空さしより、是れぞ
 山城殿にて御座候と申す時、であるかと仰せられ候て・・・」とあるのだ。
    (角川日本古典文庫昭和44年初版 句読点は角川版による)
  この時、ジッーと見ていた道三、腹が立ったのだが(なんという豪胆な奴だ)と思い
 ながらも我慢したという。
  帰城途中、重臣に「いずれ我が子供たちは(信長の)門前に馬を繋ぐことになろう」と云ったというのだ。

〇 器用というものは、他人の思惑とは逆に出ることだ 
  織田信長の嫡男で信忠のことだが、ある日家臣に「この頃の信忠はどうだ」
 と尋ねた。
  家臣は「信忠様は大変器用でございます」と答えたという。
  すると信長は「何処が器用なのだ」と聞き返した。
  家臣は「信忠様は、訪ねて来られる方々の気持ちを良くご存じで、その人物が
 欲しいと思う品々を与えていらっしゃいます」と答えた。
  信長は笑いながら「他人が欲しがっているものを与えるのは器用とは言わない。
 そういうのは不器用というものだ。器用というのは、他人が欲しがってもいない品
 を与えることだ。つまり他人の意表をつくような行為にでるのが器用というものだ。
 お前たちも、信忠をそういう育て方をしてやってくれ、そうしなければ、合戦の時に
 役に立たない。ここは応援が来るかなと思う時に応援が来ず、応援が来なくても
 大丈夫だというところに応援を出す。意表をついた作戦は、戦場ではいつも起る
 のだ。それに対応するには、普段からそういう心掛けを持たなければ駄目だ。
 大体が大将というものは、部下に胸の内を読まれるようでは頭(かしら)にいる資
 格は無い」と言ったというのだ。(以上童門冬二氏著から)
  
  

信長の名言・Part4(小さいからといって侮るな・・・)

 奇人、変人と見られていた信長。 
 子供の時は「うつけ者」と云われ、家来衆からもそういった目で見られていたという信長。
 しかし、名言と云われているモノの中には非凡な面も見せている。
 そして、幼くとも地方大名の嫡男としての素養も見せつけている。
 その中の一つに
〇 小さい蛇だからといって侮るな 
  信長が幼い時、城の庭で遊んでいて小さな蛇を見つけた。
  信長はこの蛇を掴んで空中で振り回し、家来衆に「こういった行為をお前たち
 は勇気があると思うか」と聞いたという。
  家来は「小さな蛇です。別に勇気があるとは思いません」と答えたという。
  すると信長は「たとえ小さくとも、この蛇は毒を持っている。バカにすれば
 噛まれて毒が回って死ぬこともある。この俺が小さいからといってバカに
 するのか?この俺も毒を持っているぞ」と家来衆を睨みつけたというのだ。
 家来たちは驚いて顔を見合わせたたという。

〇 たしなみの武辺は、生まれながらの武辺に勝れり
  武辺というものは、単に武術という技術だけをいっているのでなく、心構え
 も言っているのだ。
  信長としては意外な言葉ともいえる。
  知られているように、信長ほど能力主義で部下を徹底して管理を行った武将は
 いまい。
  身分に拘らず才能のある者はドンドン重く用いている。放浪していた秀吉や、流
 浪していた光秀を重用したのは典型的なものだ。 
  信長は「武辺というものは、心構えとその心構えによって身に付けた技術をいう。
  生まれながらに才能のある者は、それを頼んで鍛錬を怠り、自惚れる傾向がある。
  そこが危険なのだ。
  反対に、生まれつき才能が無い者は、何とかして技術を磨こうと日々鍛錬し励み
 努力する。
  心構えが全く違うのだ、ここが肝心なのだ。
  信長は、政治や戦の天才だったと云われているが、それだけに「生まれながらの
 才能」に危険性をはらんでいることを理解していたという。
  だから他人には「才能をたのむな。日々鍛錬して技術を身に付けろ」と求めたと
 いうのだ。
  マァ、これは信長自身の自戒の言葉でもあると専門家はいっている。
  とはいっても、49歳の時、重用した光秀に殺されたのだから甘さもあったのであろ
 う。(以上童門冬二氏著から)  
   

「願わくば、我に七難八苦を与え給え」、山中鹿之助

 名将の名言というものは余りにも知れ渡っているのか、覗いてくれる方が少ないようだ。
 そこで今回、閑話休題ということで標題についてUPしたい思う。
 でも、これまたあまりにも有名な話なので気が引けるのだが・・・・
 山中鹿之助幸盛という武将は、出雲の尼子十勇士の中で筆頭に挙げられている豪傑だ。
 豪傑と言っても残された絵を見ると「豪傑」という面影は見たらないほどの美男子だ。(写真参照)
 彼、鹿之助が21歳のとき尼子氏は毛利元就によって滅ぼされてしまう。
 それ以来流浪をするのだが、「尼子再興」の意思は強く其のことだけを心の支えに、生涯を過ごすことになる。
 それは苦難の日々を送ることになるのだが、それ故に歴史ファンは堪らない魅力を感じるのだ。
 鹿之助が16歳の時初陣を迎えている。
 相手は山名氏で、攻めた先は山名氏の支城・尾高城(現米子市)であるのだが、この出陣の前に兜の前立てに半月をつけ、三日月に向かって「願わくば今日より30日のうちに武勇の誉れを得さしめ給え」と祈ったという。
 この祈願が通じたのかどうかは別にして、鹿之助は戦場で菊池音八という豪の者を討ち取ったという。
 でもネェ・・・武芸の道というものは難しいもので、16歳の鹿之助はこれに慢心することはなかったというのだ。
 その心構えがあったから、己を鍛える為に三日月の夜には必ず「願わくば我に七難八苦を与え給え」と祈るのを常としたというのだ。
 こんなこと中々出来るものではないが鹿之助はやり遂げたと伝えている。
 この教えは賢母の教えがあったのだと伝わるが・・・・信用しておくことにしたい。
 敗れても敗れても、なお望みを捨てない強い意思は、後世になっても称賛されているのだが、幾分誇張されていると思うナァ・・・・
 後の儒者「頼山陽」は、鹿之助を『虎狼の世界に麒麟を見る』と激賞している。
 
 この鹿之助、天文14年(1545)に雲州富田月山城の麓に生まれている。
 数々の武勲をたてものの、毛利家に滅ぼされた主家尼子氏の再興を夢みて 織田信長を頼って一旦は尼子氏再興を果たすも毛利に再び敗れた。
 其の後播州上月城に立て籠もるも、またまた戦いに破れ捕縛され、毛利輝元が居る備中松山に護送される途中、高梁川の渡し場で討ち取られ生涯を終えるのだ。時に34歳であった。
 その刑場の後だというところ(岡山県高梁市落合町阿部・ローソンのすぐ近く)に山中鹿之助の墓標が建てられている。
 
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              山中鹿之助の墓(高梁市の資料から)
           
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                    山中鹿之助像

信長の名言・Part3(俺の方に足を向けるな・・・)

 信長は神仏を信じなかったようなのだが、豪胆な面もあり繊細な面も持ち合わせている両極端な武将だろうと思う。
 これは、あくまでも小生の推測なので気にしないで頂きたい。
 それは、加賀越前等北陸地方を平定し、家臣の柴田勝家に任せ、その管理について実に細かいところまで指図していることからの想像だ。
 信長の家訓には決まったものは無いようで、その時その時の思いつきで発しているようなのだ。
 柴田勝家にも「掟書」なる者を出しているのだが、その中には実に細かいところまで指図している。
 つぎがその一つである。
 
〇 俺の後ろ姿も大切にして、足を向けない気持ちが肝心だ
  どんな理由があっても、俺(信長)の言うとおりにせよ。
  といっても無理非道だと思いつつ、口先で上手いことを言うようではいけない。
  理に適っているなら聞き届けよう。
  兎にも角にも俺を尊敬し、影、後姿さえ疎かに思っては成らぬ。
  俺が居る方へ、足をも向けないというような気持ちが肝心なのだと言っている。
  信長がここまで細かに指図したかと言う事だが、これ、どういう事だろうか?
  この北陸地方は、上杉謙信を防ぐ要衝の地なのだ。
  信長は勝家にそのことを忘れるなと言っているのだ。
  つまり、この地方に住む人々の心が勝家になびくまで無理をするなということ
 を言っているのだと思う。
   勝家は豪放磊落な武将だ、自分の思うがままに土地の人々を仕切ろうとす
 ると当然不平不満が出てくるだろう。
  信長はそこのところを心配し、勝家を諭しているものと思う。
  つまり、信長が言っているのは、主君(信長自身のこと)の恩恵に対して、滅私
 奉公と忠誠を強要しているのだ。
  そして、もう一つ言いたいのは、勝家は信長が嫌いだったことがある。
  弟の信行を相続人にすることを企てたことがあるので信長としては、この際と
 思ってピシリと勝家を押さえつけにかかったのであろう。
  こんなにはっきり言われた勝家の心中はどのようなものだったろうか?

 たとえ一銭でも盗む者は死罪に処す
  信長が将軍「足利義昭」を擁立して京に入ったときのことだ。
  京の人々は恐れおののいたという。
  それは、信長が尾張という田舎豪族で気性の激しい武将だと思っていたからだ。
  だが、信長は家臣たちに、都(みやこ)人が思っていた乱暴狼藉はさせなかった。
  信長は厳しい掟を定め、家臣たちを取り締まったのである。
  その中の一つが「たとえ一銭でも盗む者は、死罪に処す」の宣言なのだ。
  これが末端まで行きわたり完全に守られたのである。
  そこで京の人々は、「信長さまの一銭斬り」と呼んだというのだ。
  
 無邊とはどこのことか? 
  信長の支配する領内に、「無邊」と名乗る坊主がやってきたという。
  この坊主、不思議な秘法を使って領民に、「今の世界でもあの世でも幸福に
 してやる」等と言っては礼金を取っていたという。
  ある時、信長は「無邊」を読んで質した。
  「無邊というのは、唐か天竺か?」
  無邊は「天でもなければ地でもない。又空でもない」と答えた。
  信長は、さらに「お前は、人間なのか?それとも化け物か?」と・・・・
  無邊は「神秘的な存在だ」と答えたという。
  信長は「ホウ、そうか。ならばこれを受けよ」と言って、焼いて真っ赤になった
 鉄の棒を無邊の顔に当てようとしたのだ。
  無邊はビックリして後ずさりしたのをさらに迫り「神秘な存在ならば、この
 鉄棒を当てても奇跡が起き、お前なら避けれるはずだナ」とさらに迫ったのだ。
  無邊と名乗る男は、「そんなことはできません」と泣いて命乞いをしたという
 のだ。
  信長は「お前はとんでもないマヤカシ者だ」といって処刑してしまったという。
  神仏を信じなかった信長らしいエピソードだろう。   
  

織田信長の名言・Part2(家康と同盟の時の言葉)

 前回は幸若「敦盛」を愛したことを述べたが、信長は次のようなことを云っている。
〇 人間の50年の生涯は儚いものだ。死なない者は存在しない。
  戦国時代に生きる武将ならではの言葉であろう。
  信長は常に死を覚悟していたと感じさせる言葉なのだ。
 先車の覆るを見て、後車の戒めとする
 永禄3年(1560)に「桶狭間の戦い」で義元を討ち取ったことで、一躍時の人として有名になった。
 そして、一気に戦国の渦中に飛び込むことになる信長。
 その戦いの後、間もなく信長は徳川家康と同盟を結ぶことになる。
 信長は、織田領の東に今川家から独立した徳川家が治める駿河領があり、それを納めている家康が並みの武将ではないのを見抜いていた節がある。
 その家康がまだ小さな国の領主である内に、同盟を結んでおけば自分の意に従うとも考えたかもしれないとも推測出来る。
 同盟を結ぶとき信長は、「徳川殿は駿河から東の方を攻略されよ。自分は西の方を目指して攻略する」と言ったという。
 つまり西にfは都「京」があるから自分に任せておけ。
 家康には天下を狙うことをせず、東の方だけ見ておけといっているのだ。
 そして、信長は「平清盛」と「源義朝」の話を持ち出して「両雄が互いに滅びたのは、源氏と平家が手を結ばずに争ったからだ。織田家と徳川家はこれを「先車の覆る例として、後車の戒めにしよう」と誓い合って手を結んだというのだ。  
 ちなみに織田信長は「平家」、徳川家康は「源氏」を名乗ったから、そんなことを言ったというのだが・・・・さて真相のほどは如何か?
 
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織田信長名言集~「人生50年・・・」

 今回から織田信長の名言を取り上げたいと思う。
 あまりにも有名な武将なので良く知っておられる方はスルーしていただいて結構です。
 ただし、今回は信長の名言ではありません。
 信長と切っても切れない幸若の舞曲『敦盛』のことです。
  『人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。』
 というものだが、信長が愛し、決断する時には舞ながらよく謡っていたという。
 信長は、物心ついていた時から「人間50年」と決めていたようだという。
 こういった考え方は、戦国時代の一部の者にとっては普通の考えであったのだという人もいるのだが・・・どうだろうか?
 医術の発達していないことや、戦で亡くなる者も大勢いたのだから短命だったことは否めないだろう。
 現代の男性でも、父親や祖父が亡くなった年齢を気にする方が結構おられるのだが、ルーツは案外このあたりかもしれないのでは・・・・。
 そして、この「敦盛」を超有名にしたのが、今川義元が織田領に攻め入ってきたときだ。
 小説、TV、映画では必ず出てくる場面だ。

 時は永禄3年(1560)5月12日のことだ。
 駿河(静岡県の中央部)、遠江(静岡県西部)の太守である今川義元が25000人の兵を引き連れて出立したのだ。
 先発隊の井伊直盛に遅れること2日後のことである。
 
 この時(18日)信長は何をしていたのだろうか?
 信長は清洲城にいたという。
 既に義元が桶狭間近くまで進出し、翌19日に「丸根」と「鷲津」の両方の砦を攻撃するとの情報も得ていたというのだ。
 しかし、異端児信長は、軍議らしい軍議を開くこともせず、かえって世も更けた際には、家臣たちに「家に帰って休んでいろ」と指示たという。
 家臣たちは一瞬ポカーンとして「運の末には知恵の鏡も曇るのか」と落胆したという。
 敵今川軍は2万5千人、対する自軍は3千人だ。
 勝てる見込みは無いと思っていたのが本当だろう。
 信長一人は勝算があったのだろうか?否、信長本人も勝ち目はないと思っていたかもしれない。
 それほどの劣勢だったのだ。
 午前2時ごろ、信長は目覚めると「具足を持て、螺(かい)を吹け」と出陣の命令を次々に出すのだ。
 そして、立ったまま「湯漬け」をかき込み、そして有名な幸若「敦盛」を舞いながら謳い舞うのだ。
 この場面は、桶狭間の戦いを描くときには絶対に手抜きをしてはいけない描写であるのだ。
 信長は、この舞を3度舞ったというから余程の覚悟があったのであろう。
 その後信長は、馬を走らせ桶狭間に赴き、結果は義元の首を討ち取り勝利する。
 
 その後機会あるごとに「敦盛」を謳っているというのだが、最後は「本能寺の変」で光秀の謀反により人生を終える。
 最後の最後にも「敦盛」を謳いながら舞ったというが、これは誰も見ている者はおらず推測だ。
 信長の最後は、このようであっ欲しいとの願望が、この場面を創ったのでは・・・・と思うのだがどうだろうか?

 



上杉謙信名言集・Part4

 前回の続編ですが
〇 我は兵を以て戦ひを決せん。塩を以て敵を屈せしむることをせじ
〇 卑劣は末代まで武門の笑の種
 Part3でものべたように、謙信は「誠実」「律儀」「儀礼」を重んじた武将であると伝わっている。
 つまり義侠心の熱い武将なのだ。
 十六ケ条として残る家訓にもそれが表れているのだが、実は「春日山城の壁書」にも如実に表れていたという。
 その一部を紹介すると
 『運は天にあり。鎧は胸に有り。手柄は足に有り。いつも敵を掌にして合戦すべし。疵付くこともなし。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。家を出ずるより帰らじと思えばまた帰る。帰ると思えば、ぜひ帰らぬものなり。不定とのみ思うに違わずといえば、武士たるの道は不定と思うべからず。必ず一定と思うべし。』。
 謙信と云えば謙信らしい武士としての人生訓と言って良いと思う。
 こういった信念を持っていた謙信なのだが、永禄10年(1567)年、好敵手信玄が思わぬ動きをして謙信を驚かせた。
 それは信玄が13年間も続いていた駿河国の今川氏との同盟関係を破棄したことだ。
 その7年前に、桶狭間の戦いで義元が信長に敗れて以来、信玄は東海地方を虎視眈々と狙っていたのだ。
 今川家の後継者は氏真だったが、即対抗策を講じた。
 縁戚関係にあった相模国の北条氏康と相談したのだ。
 それが有名な、海のない甲斐国に塩の供給を止めてしまうというものだ。
 それを聞いた謙信は、「戦いは武力で決めるものだ。塩の輸送を絶って、敵を参らせようとは・・・・俺は思わない」と言って、敢えて塩の輸送を止めようとはしなかったというのだ。
 信玄宛ての手紙には『塩を絶つとは卑怯な振る舞い。末代までの武門の笑種であり、恥である。海に面した越後は塩の産地ゆえ、必要なだけお送りいたそう』と書かれていたというのだが・・・・マァ、現在の歴史家たちは「積極的に止めなかっただけだ」と言っているが真偽の程はどうだろうか?
 
  
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                      春日山城絵図

上杉謙信の名言~Part3

 part2で述べたのだが、もう少し付け足すと「上杉謙信公の名言(上杉家家訓十六ケ条)」には次のようなものがあるのだ。(一部重複)
一、心に物なき時は心広く体泰なり
一、心に我儘なき時は愛敬失わず
一、心に欲なき時は義理を行う
一、心に私なき時は疑うことなし
一、心に驕りなき時は人を教う
一、心に誤りなき時は人を畏れず
一、心に邪見なき時は人を育つる
一、心に貪りなき時は人に諂うことなし
一、心に怒りなき時は言葉和らかなり
一、心に堪忍ある時は事を調う
一、心に曇りなき時は心静かなり
一、心に勇みある時は悔やむことなし
一、心賤しからざる時は願い好まず
一、心に孝行ある時は忠節厚し
一、心に自慢なき時は人の善を知り
一、心に迷いなき時は人を咎めず

 前回も行ったのだが、ここまでくると草臥(くたぶ)れますネェ。

〇 千葉殿は諸侍の上である
   小山殿ぱ諸侍の下ではない

  ある日、謙信が諸侍と共に鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣した時の話として
 伝わったものがある。
  それは、参詣の順番が問題になったというのだ。
  現在でも階級社会の中では、順番や席順で揉めることがあって、中々大変
 なのだが、この時もそうだったという。
  諸侍の中で、千葉と小山の実力者二人が参詣の順番を争った。
  お互いが譲らないため収拾がつかなくなり周りの者が途方に暮れていた。
  その時、謙信が次のようなことを言ったという。
  「千葉殿は今日同行している諸侍の一番上席者である。
 が一方、小山殿も今日同行している諸侍の下位者ではない」。
  皆、変な顔をしたが、謙信の言葉を悟った千葉と小山は、一緒に並んで参詣
 した。
  皆は、あゝそういうことだったのか、謙信の計らいに感心したという。
  (童門冬二氏の著書より)
〇 争うべきは弓箭(ゆみや)にあり、米・塩にあらず
  これは『正武将感状記」に乗っている言葉で、『卑劣は部門の笑の種』
  『われは兵を以て戦ひを決せん。塩を以て敵をくっせしむることをせじ』
  ということになる。
  上杉謙信は、誠実・律儀で儀礼を重んじ、義侠心に満ちた武将であったことは
 ご存じのとおりである。
 以下長くなるので、Part4で述べることにしたいので悪しからず。