織田信長の戦への取り組み方

 織田信長といえば一生のうち100回近い戦をやっていることは述べたのだが、この信長、戦のことについては普段からいろいろ考えていたという。
 武将の子供だけあって当時の遊びは、ほとんどが「戦」と関係のある遊びだったという。
 棒ふりから始まって水遊び、木登り、駆けっこから石投げ等々・・・・「戦」と絡ませたといわれている。
 槍の長短の争いもそうだ。
 そのような時、種子島に鉄砲が伝来した。
 その噂を聞いた信長は、将来の戦はこの鉄砲での争いが主体になると考え、さっそく取り寄せるとともに自ら「橋本一巴」に師事して鉄砲の技術を会得しようとしている。
 
※ この橋本一巴のことだが、信長公記』によると、信長が16,7歳のころ、弓を市川大介、鉄砲を橋本一巴、兵法を平田三位に付いて稽古したとある。
 この情報は、尾張の味鏡村の天永寺に住む天台宗の僧・天沢が甲斐を訪れた際、彼を通じて武田信玄にも伝えられているのだという。
 同時代の史料ではないのだが、寛永10年(1633)に記された『国友鉄炮記』によれば、一巴は天文18年(1549)に鉄砲撃ちとして世上に名高いことが信長の耳に達して召抱えられ、同年7月18日に、信長の命で国友村の鉄砲鍛冶・国友善兵衛らに六匁玉鉄砲500挺を注文したという。

 この鉄砲500挺というものは、当時としては桁外れの挺数だったといわれてもいる。
 種子島銃が伝来した当初は1挺が現在の価格からすると5000万円とも1億円ともいわれていたというが、その後普及とともに信長の時代は6、70万円位ではなかったかと言う。
 だから500挺ともなれば・・・相当な金額だったことは想像できる。 

 しかし、信長は種子島銃の弱点もよく知っていた。
 鉄砲は威力は強大なものがあるのだが、雨に弱いという欠点もあり、弾込めに時間がかかることも勿論知っていた。。
 だから信長はその欠点を補うためにはどのような方法があるのか・・・と、日ごろから考え思案していた節がある。
 そこで編み出したのが「三段構え」というやり方だ。
 これは武田勝頼との「長篠・設楽ケ原の戦い」で存分に発揮されているから歴史ファンなら周知のとおりだろう。
 マァ、この戦法、信長が直接編み出した戦法だと一概に言えないところもあるのだが・・・ここでは信ずることにしたい。
 この戦い、武田の騎馬武者に立ち向かうための戦法で、約半里(2Km)に渡って馬防柵を設け、その内側に鉄砲隊を横三列に並べたという。
 その数約3000挺だったというからすさまじい数だろう。
 3000挺を3組に分けたわけだ。
 武田の騎馬軍団が押し寄せてきたとき前列から前に出て撃ち浴びせ、終わったら中段、後段と順番に打ち続けたのだ。
 それまで弾込めに数十秒かかっていたのが3分の1にまで短縮したことになるから、攻める武田方にすれば限りなく撃ち込んでくる攻撃に戸惑ったことであろうし、結局全滅してしまった。
 信長の、日ごろから「戦」というものへの取り組み方法の模索が実を結んだ結果といえよう。
 
 
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                     長篠合戦図屏風 

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