武田勝頼最後の地は?

 天正10年(1582)3月11日、武田勝頼が織田・徳川連合軍に破れ天目山で自刃した。
 これにより、28代・495年間続いた甲斐武田家は滅びることになる。

 戦国大名として確固たる地位を築いた武田信玄が死んでから9年後に、信玄の四男である勝頼が、その夫人、嫡男信勝とともに自刃したことで、武田家の家系は途絶えたのだ。

 その最後の場所となったのが、東山梨郡大和村(現山梨県甲州市大和)の天目山といわれているのだ。
 しかし、勝頼が自刃した田野地区は、天目山から徒歩で1時間以上も離れたところなのだ。

 また、地形からして田野地区は、天目山の山麓とはいえず、正確には勝頼の最後が天目山というのは無理がありそうだ。

 勝頼は信玄の跡を継いだ後、現在の韮崎市に新府城を築き、織田・徳川軍に対抗する備えをした。
 しかし、家臣の寝返りもあって、織田・徳川軍の進軍を止めることができなくなった。
 勝頼は、殆んど戦うこともなく城を次々と明け渡し、逃げ惑う状況となってしまう。

 織田・徳川軍の包囲網が狭まっていくなかで、小山田信茂の進言にしたがって、大月(現大月市)の岩殿山城へと向うことになる。

 700余名の武士、女子供を伴い、僅か1日で甲府盆地を走り抜けたといわれている。

 夫人の輿を担ぐ者までも逃げてしまい、夫人すら馬に乗って逃げる有様であった。
 勝沼にある大善寺で夜を明かした後、岩殿山城へ向うのだが、小山田信茂は、約束の迎えを寄越すことはなかった。
 そればかりか、人質となっていた信茂の母親を奪って逃げ、追撃した勝頼側に銃撃を浴びせかけることもしている。

 勝頼はここに至って重臣にも見限られたことになってしまう。

 勝頼は、已む無く日川沿いに遡り、天目山栖雲寺(せいうんじ)を目指すことにする。
 そして田野という村落までやってきたところで、追ってきた織田・徳川軍の先鋒と激戦を交える。
 「鳥居畑(とりいばた)の合戦」と呼ばれ、現在、供養塔が建っている。

 さらに、勝頼たちは、天目山を目指すのだが、織田・徳川軍に行く手を阻まれ進むことができない。
 家臣がどうにか踏ん張る中、ようやく田野まで引き返すことになった。

 そうした家臣が奮戦している中、夫人や嫡男と自害したといわれているのだ。

 勝頼は、天目山を目指しながら、ついには到達することができず、その手前で自ら命を絶ったのである。
 徳川家康は、江戸時代になってから、この地に勝頼の菩提所の創建を命じている。
 それが、現在の景徳院なのである。
 (参考~歴史の謎研究会書他)
 

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