豊臣秀吉の「刀狩」で徴集された武器の行方

 刀狩りを最初に行ったのは、豊臣秀吉ではなく、越前(福井県)で、一向一揆を鎮圧した柴田勝家とみられている。

 しかし、歴史的に有名なのは、何といっても豊臣秀吉の「刀狩り」であろう。

 まず、天正13年(1585)、抵抗していた紀州・根来寺を焼き払い、さらに一揆を鎮めた後、高野山金剛峰寺に対して刀狩り(武装解除)を行っている。
 命令に従わなければ、根来寺のようにように焼き払うと脅したので、寺側は不承不承従っている。

 また、天下人となった後、一旦は平定した九州で、一揆が続発したのである。
 その一揆に、多くの農民が参加していることを知り、秀吉は天正16年(1588)、刀狩り令を発布して農民から武器を取り上げたのである。

 その際に発した令には、取り上げた武器は、建造中の方広寺の大仏の釘や鎹(かすがい)にする。

 そうすれば、農民はあの世まで救われるとしたのである。

 方広寺といえば、後年、「君臣豊楽」「国家安康」という鐘銘が、徳川家康が難癖をつけて豊臣家を潰す因になっている寺であるが、それは秀吉の死後、秀頼による再建中のことなのである。

 その30年位前のことなのである。
 秀吉は、奈良東大寺のような大仏殿を造らせ、東大寺の大仏よりも大きな大仏を完成させる予定だったのである。
 
 実際、この大仏の釘や鎹には、刀狩り令で集めた刀や脇差し、鉄砲などがつかわれたといわれている。

 また、秀吉は、文禄2年(1592)から朝鮮出兵を行うが、刀狩りは、朝鮮侵攻のための武器調達が目的であったという説もある。
 (参考~歴史の謎研究会書他


豊臣秀吉が発した刀狩令は次の3か条からなる。

○ 百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。
 よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の
 言うことを聞かない者は罰する。
○ 取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹にする。
 そうすれば、百姓はあの世まで救われる。
○ 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。
 百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。

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