戦国時代の「抜け駆け」の処罰

 合戦中、功名を願う武者の頭にちらつくのが「抜け駆け」の功名であろう。
 後方の部隊に所属しておれば、一番槍や一番首はどう転んでも得られないことになる。
 そこで密かに前線に出て、先鋒よりも先に敵陣を襲撃しようという「抜け駆け」の功名が誘惑してくるのである。

 ただし、「抜け駆け」は軍勢全体にとっても、それを実行する者にとっても、リスクの高い賭けだったのである。
 確かに「抜け駆け」が成功すれば、敵陣が混乱し、勝利を収めることも可能であった。
 だが、失敗すれば。逆に自陣が切り崩され、敗北にいたることもあったのである。

 そんな負もあるため、戦国大名達の殆んどは抜け駆けを厳しく禁じていた。

 一人の抜け駆けを許せば、軍規が緩み、その後の作戦に支障を来たすと考えたからである。

 実際、徳川家康は、抜け駆けに対して厳罰で臨んでいる。
 天正6年(1587)徳川家が、武田勝頼の軍勢と遠江掛川付近で戦った際、家臣の大須賀小吉が抜け駆けをした。
 旗本衆よりも前に出て、軍功を挙げようとしたのである。
 小吉は奮戦したものの、家康はこの抜け駆けを許さなかったのである。
 小吉のおじにあたる大須賀康高は、家康の重臣であった。
 彼がとりなしても家康の考えは変らず、小吉は切腹させられることになった。
 
 抜け駆けには、こうした罰がまっていることもあったのである。
 (参考~歴史の謎研究会書他)

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