尾道市の民話(信行庵と捨身往生・しんぎょうあんとしゃしんおうじょう)・32

 今日は対岸の向島の話をしようかのぅ。

 今の向島が歌島(かしま)と言われていた頃の話じゃけぇ、はるか昔のことじゃ。
 平家と源氏の戦があってのぅ、時々、島の者達の耳に入るのは、平家のお姫さまの悲しい噂話しばかりじゃった。

 戦のきびしさや悲しさの話を聞くたびに、島の人々は他人事ながら、心を痛めておったんじゃ。
 戦の時にゃぁ、島の向こうを大きな船が通ってのぅ、島の人々はやり切れん気持ちで眺めておったんよ。

 平家が戦に破れて、ようやく少しは、世の中が落ち着いてきたきたころじゃった。
 この島の人達は、働いても働いても心も物もみたされることはなかったんじゃ。
 みんなが貧しかったんよ。
 
 そんなある日の事じゃった。
 そまつな黒麻の衣に脚絆を巻いた、このあたりでは見かけん坊さまが、芋畑の道を歩いておったんじゃ。
 この坊さまは、人々の心の内や悩みがすぐ分かる坊さまじゃった。
 坊さまは島の人々の顔を見るなり
 「庵を作ってあげよう。心の安らぎになるかもしれん」
と、島の三つ石というところに、小さな庵をつくったんじゃ。
 島の人たちは、えらい坊さまといえば錦の袈裟を着て、立派な乗り物でお金持ちの家に行ってお話をなさる人とばかり思っておったんじゃ。
 ところが、この坊さまは誰にでもわけへだてなく親切で、島の人達は仕事の合間に庵を訪ねては坊さまのお話を聞き、心をなごませておったんじゃ。

 間もなく、坊さまは庵に住職をおいて、次の行脚に出かけたんよ。
 
 それから何百年か経ち、小さな庵は信行庵と名が付いておったんじゃ。
 ある日、一人の坊さまがこの信行庵を訪ねてきたんじゃ。
 知恩院で修行している行欣(ぎょうきん)という人で、九州行脚の帰りに立寄ったということであった。
 信行庵の住職は、行欣を手厚くもてなしたんじゃ。
 うちとけて語り合ううちに
 「むかし、この庵を建てられた上人さまが九州で、別時念仏という業をなさったと聞いております。私たちもここでその業をやってみましょう」
と話が進んだんじゃ。

 別時念仏というのは、四十八昼夜「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えながら、心をみがく浄土宗だけの念仏の業で、無の境地になるんじゃ。
 その話しは、信心深い僧や信者たちに伝わったんじゃ。
 当日は、たくさんの人が集まって、おごそかに念仏が唱えられ初めたんよ。

 南無阿弥陀仏の声は、四十八昼夜続けられたんよ。
 そして満願の日。
 夕日が三つ石の空を黄金色に染め、今まさに西の海に沈もうとしているときじゃった。
 五色にたなびく雲間から、美しい阿弥陀さまのお姿が現れたんじゃ。
 念仏を唱えていた人達は、阿弥陀さまに照らされた海を極楽に続く黄金の道と思わずにはいられんかった。
 人々は、夕日とともに海に沈まれる阿弥陀さまを慕って歩きはじめたんんじゃ。
 このとき、行欣の耳に阿弥陀さまの声が聞こえてきたんじゃ。
 「あなたはこの世に残って、信行庵を守りなさい」という声じゃった。
 念仏の声はいっそう高らかになり、僧や信者は海へ入水し、捨身往生をとげたんじゃった。
 行欣は一人残り、慶長8年、信行庵を尾道の土堂町へ移したんじゃ。

 山波の曲がり角は、あまりにも景色が美しく、魔の曲がり角といわれていたんじゃ。
 そこには、尾道の町並みと、夕日に染まる尾道水道が一望に見渡せる岩があったんじゃ。
 
この世をはかなみ、この岩に立つと、対岸からえも知れぬ美しい調べが聞こえて、海にさそい込まれていたそうじゃ。
 美しい調べが、大昔の別時念仏の声であっかどうか、知るよしもないが、たくさんの人が、悲しみ苦しみながら来世を信じてこの岩に立ち、身を投げたということじゃ。
 いつのころからか、この岩を「身投げ石」と呼ぶようになったんじゃ。
 今では尾道大橋ができ、道路も広くなって、石は分からんようになってしもうたがのぅ。
 (尾道民話伝説研究会発行「尾道の民話・伝説」より)

 今日の悲しい話は終いじゃ。
 またの。

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