豊臣秀吉の「あだ名」(猿・はげ鼠)の基はどこから来たか

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 豊臣秀吉が「猿面冠者」とか「はげ鼠」と呼ばれていたのは万人の知るところである。
 では、なぜそのような「あだ名」で呼ばれるようになったのかについては、一般には秀吉誕生の奇譚(きたん)と関係があると言われている。
 それでは、国学院大学米原正義教授の書から紹介しよう。
 『絵本太閤記』では、母が日吉権現に願をかけて生まれた秀吉は、はじめから歯が生えていて面相は猿に似ていた、と語られている。
 『真書太閤記』にも、彗星が現れて白昼のような夜中に誕生した秀吉の容貌は、色あかく猿眼、眼光鋭く瞳が二つあった、なっている。
 これらの俗書は、秀吉の英雄伝説よろしく、古来からの偉人誕生奇譚と結びつけているきらいがある。
 勿論、信用することはできないことは言うまでもない。
 
 次に、生まれが申歳だから猿のあだ名がついたという説がある。
 申歳とすると天文5年(1536)の出生となるが、前に述べたように天文6年酉歳生まれは、死んだ歳から逆算するとほぼ間違いないので、申歳説は退けられることとなる。
 さらに、母が信仰した日吉神社の神の使いが猿で、秀吉の先祖は猿面をかぶって踊る日吉の猿女一族だから、先の誕生奇譚が創作されたのだ、との説もあるが、根拠はなく肯定できない。
 ではこのあだ名はどうしてついたかと言う疑問になるが、熊本藩主細川家伝来の、天正5年(1577)と推定される3月15日付の明智光秀等宛織田信長黒印状には、「猿帰り候て、夜前の様子つぶさ言上候」とみえる。
 勿論「猿」とは秀吉のあだ名である。
 秀吉に謁見した朝鮮の使者は、一人は猱玃(どうかく)(大猿)、また一人は目は鼠に似る、と述べている。
 さらに毛利輝元の家来玉木吉保の自叙伝『身自鏡』(みのかがみ)に、秀吉を望見したこととして、「赤ひげに猿まなこにて」との回想を述べており、耶蘇会の宣教師も人相はすこぶる猿に似る。と書いている。
 ということは秀吉の容貌からついたあだ名が猿であったのである。
 
 また、はげ鼠のあだ名がついたことも、天正4年ころ、秀吉の正室のねねに宛てた信長消息に「はげねずみ」とあることから確実である。

 もう一度豊臣秀吉の像を見ていただきたい。 
 さてどちらが似ているか?

 

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