矢作川での藤吉郎(秀吉)と蜂須賀小六の出会いは虚構?

 若いころの藤吉郎(後の豊臣秀吉)が生まれ故郷の尾張国愛智郡中村を飛び出して諸国を転々としていたことはよく知られている。
 小生は出世したいとの思いより生きていくために色んな職を経験しながら諸国をうろついていたのでは?と思っている。

 後の絵本太閤記では面白おかしく記しているが誇大な物語に仕上げている。
 そのころの秀吉が藤吉郎を名乗っていたかは定かではないが藤吉郎で記していきたい。

 この藤吉郎、三河を放浪していた時矢作川の橋の上で蜂須賀小六と運命的出会いをしたという逸話は映画やドラマの時代劇、歴史小説によく登場する場面である。

 通説によると、職もなくて三河を放浪していた藤吉郎が矢作川に架かっている橋の上で野宿していたという。
 すると、野伏(のぶせ)り(野武士のこと)の頭領だった蜂須賀小六(小六は藤吉郎の10歳くらい上)とその手下が通りかかり、藤吉郎の頭を蹴飛ばしたのだという。
 怒った藤吉郎が威勢の良い啖呵を切ったというのだが、その啖呵を小六が気に入り部下として仲間に引き入れたという。

 ご存じのようにこの蜂須賀小六は後の藤吉郎の片腕となって戦功を重ね、阿波(現徳島県)一国を与えられている。

 この話のうち、蜂須賀正勝(小六)が藤吉郎との出会いによって立身出世を果たしたという部分は事実である。

 でもネェ、肝心の出会いの場面は、作り話なのである。だって、当時の矢作川には藤吉郎が寝ていたとされる橋は架かっていなかったのだから・・・
 愛知県矢作町に残されている記録には、当時の矢作川は舟で渡るしかなかったと記されており、渡し場の記録はあるものの、橋については触れられた部分はないからだ。

 残念ながら矢作川のこのあたりに橋ができたのは江戸時代になってからのことだ。

 肝心の橋が無かったとなると、この橋上での出会いの場面、実現しなかったということになる。
 つまり話を面白くするための創作だということだ。

 ちなみに、この矢作川の出会いの場面初めて出てくるのが江戸中期に書かれた「絵本太閤記」の中なのだ。
 それがこの俗説の出どころなのだが読む者としては面白がったことは間違いないだろうナァ・・・
 面白く読まれたおかげで実話のように知れ渡ったというべきででしょうネェ。

 

 

  

信長公記での桶狭間の戦い~その2

 前回に続き信長公記での桶狭間の戦いを記したい。
 NHKの「麒麟くる」は何時から復活するのか気になるところだが今回も桶狭間の戦いについて記したい。

 前回は、今川義元が先陣の活躍で織田側の各砦を次々攻略したときから義元が油断しきったところまでであったがその続きとしていきたいと思う。


 信長公はさらに中島砦に進もうとした。しかし中島までは一面の深田の間を縫って狭い道がつながっているのみであり、敵からは無勢の様子が丸見えとなるため、家老たちは馬の轡をとって諫めた。それでも信長公は聞かず、振り切って中島砦へ移った。この時点でも人数は二千に満たなかったということである。信長公はさらに中島をも出ようとしたが、今度はひとまず押しとどめられた。

 ここに至って信長公は全軍に布達した。
 「聞け、敵は宵に兵糧を使ってこのかた、大高に走り、鷲津・丸根にて槍働きをいたし,手足とも疲れ果てたるものどもである。これに比べてこなたは新手である。小軍ナリトモ大敵ヲ恐ルルコト莫カレ、運ハ天ニ在リ、と古の言葉にあるを知らずや。敵懸からば引き、しりぞかば懸かるべし。而してもみ倒し、追い崩すべし。分捕りはせず、首は置き捨てにせよ。この一戦に勝たば、此所に集まりし者は家の面目、末代に至る功名である。一心に励むべし」
 ここで、前田又左衛門利家・毛利十郎む・木下雅楽助らがそれぞれに斬穫した首をもって参陣した。信長公はこれらも手勢に組み入れ、桶狭間の山際まで密行した。すると俄かに点が曇り、強風がが吹き付け、大地を揺るがす豪雨となった。この突然の嵐によって、沓掛の峠に立つふた抱えほどもある楠が東へ向けて音を立てて倒れた。人々はこれぞ熱田明神の御力であろうと囁きあった。
 やがて空が晴れて来た。信長公は槍を天に突き出し、大音声で「すわ、かかれえっ」と最後の下知を下した。全軍は義元本陣めがけ黒い玉ととなって駆け出した。

 この様を目にした今川勢は、ひとたまりもなく崩れ去った。弓も槍も鉄砲も討ち捨てられ、指物が散乱した。義元の塗輿までも゜置き去られた。未刻(午後2時頃)のことであった。
 この混乱の中にあって、義元は周囲を参百騎ばかりに囲まれて後退していた。そこを織田勢に捕捉され、数度にわたって攻勢を受けるうちに五十騎ほどまでに減ってしまった。
 信長公も馬を下り、旗本に混じって自ら槍をふるい、敵を突き伏せた。周りの者達も負けじと勇戦し、鎬を削り鍔を砕いて激戦を展開した。歴戦の馬廻・小姓衆にも手負いや死者が相次いだ。そのうち服部小平太が義元に肉薄した。義元は佩刀を抜いて服部の膝を払い、これを凌いだが、其の横合いから今度は毛利新介が突進してきた。義元も今度は防げず、毛利の槍に突き伏せられてついに首を預けた。毛利は先年武衛様が遭難された折、其の弟君を救ったものである。人々はその冥加があらわれてこのたびの手柄となったのだろうと後に噂した。

 戦は掃討戦にうつった。桶狭間は谷が入り組み、谷底には深田が作られている。まったくの難所であり、逃げ惑う今川勢は多に見込んでは足をとられ、織田勢に追いつかれて首を挙げられた。信長公の元には首を得た者達が続々と実検におとずれた。信長公は実験は清州にて行うと申し渡し、義元の首のみを見、もと来た道をたどって帰陣した。晴れやかな表情であった。

とこうなっている。
 以下は省略させてもらうが、難敵中の難敵今川義元を討ち果たしたという思いは相当のものであったろうことは想像に難くない。

 でき得るものであればこの時の信長の表情を見てみたいものだ。どのような表情をしていたのだろうか?