「信長公記」での桶狭間の戦い

 6/7のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、合戦場での義元討ち死にの場面に新鮮さを感じた。
 毛利新介が八艘飛びのような大ジャンプを見せ、今川義元に槍を突き刺すのだ。其の時義元の瞳にかすかに毛利新介の飛び掛かってくる姿が映るという手法だ。
 
 視聴者もこの場面が印象に残っているというから斬新だったのであろう。 これで、この「麒麟がくる」も当分の間お休みとなるようだ。

 そこで今回は、「信長公記」での桶狭間の戦いを振り返ってみることにしたい。

 今川義元討ち死にの事
 永禄3年(1560)5月17日、今川義元勢の先陣は沓掛に参着し、翌日大高城へ兵糧を運び込んだ。この動きから、今川勢は翌19日の援軍の出しにくい満潮時を選んで織田方の各砦を落としにかかるに違いなしとの予測がなされ、18日夕刻から丸根・鷲津からの注進が相次いだ。

 しかしその夜、信長公は特に軍立てするでもなく、雑談をしただけで家臣に散会を命じてしまった。
 家老たちは「運の末ともなれば、智慧の鏡も曇るものよ」と嘲笑してかえっていった。
 懸念のとおり、夜明け時になって鷲津砦・丸根砦が囲まれたとの報が入った。

 注進をしずかに聞いた後、信長公は奥に入った。そこで敦盛の舞を舞い始めた。

 人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきか

 ひとしきり舞った。

 ※ 後、大体三度ほど舞ったとあるから複数回舞ったことは確かだろうが・・・余裕があったのか。思案しながら舞ったのか、万策尽きて最後だと思ったのかは分からない。

 そして、舞った後「貝を吹け」「具足を持て」
 とたて続けに下知を発した。出された具足を素早く身に着け、立ちながらに食事をすると、信長公は兜を被って馬にまたがり、城門を駆け抜けた。この時、急な出立に気づいて後に従ったのは、岩室長門守ら小姓衆僅かに五騎だった。

 となる。

 主従六騎は熱田までの三里を一気に駆けた。辰の刻(7時)ごろ、上知我麻神社の前で東方に二条の煙が立ち上がっているのを見、信長公は鷲津・丸根の両砦が陥落したことを知った。この間、出陣を知った兵が一人二人と追い付き、人数は二百ほどになっていた。
 熱田からは内陸の道を進み、丹下砦に入り、さらに善照寺砦に進んで兵の参集を待ち、陣容を整えた。そして前線からの諜報を待った。御敵今川義元は、この時桶狭間にて四万五千の兵馬を止めて休息していた。
 時刻は一九日の正午にさしかかっていた。義元は鷲津・丸根の陥落を聞いて機嫌をよくし、陣中で謡を謳っていた。また徳川家康は、この戦で先駆けとして大高の兵糧入れから鷲津・丸根の攻略まで散々に追い使われ、大高城でやっと休息をしていた。

 信長公が善照寺に入ったのを知った佐々隼人正らは「この上は、われらで戦の好機をつくるべし」と語らい、三百あまりの人数で打って出てしまった。攻撃はいとも簡単に跳ね返されて佐々は首を挙げられ、配下の士も五十余騎が討ち死にした。これを聞いた義元は「わが矛先には天魔鬼神も近づく能わず。心地よし」とさらに上機嫌になり、謡を続けた。

 ※ ここまでの今川義元、先陣の活躍で織田軍を蹴散らしたとなれば並みの大将と同じ様に楽勝と思ったとしても不思議はあるまい。
   義元は完全に油断しきっていたのだ。以下この章は次に・・・


 
 

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