絵本太閤記に描かれる桶狭間の戦い 今川義元討ち死に

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、いよいよ桶狭間の戦いが始まるのだが、絵本太閤記では信長出陣時雨雲が垂れ込み荒れに荒れたことも描かれているが、この天候も熱田神宮の神風だとしている。

 午後2時(未の刻八ッ)、信長は眼下に義元の陣・田楽狭間を見下ろす太子ケ嶺の上に息を殺して集まった。雨は次第に小止みとなり、雲の切れ間も見え始めた。
 信長は馬を降りて突っ込もうとしたが森可成の意見で騎馬で敵陣を攪乱する方が良いだろうということで、馬上高く槍を掲げた信長の下知のもと、2千余人の一隊が転がるようにして急坂を駆け下りた。と描写している。
 信長公記では「空晴るるをご覧じ、信長槍を押っ取りて大音声を上げ、すわかかれ、すわかかれと仰せられ、黒煙立ててかかるを見て、水をまく如く後へ後へくわっと崩れたりとなる。
 
 もう少し「信長公記」の描写を詳細に云うと以下のようになる。
 この時信長公は全軍に布達した。
 「聞け、敵は宵に兵糧を使ってこのかた、大高に走り、鷲津・丸根にて槍働きをいたし、手足共疲れ果てたる者どもである。比べてこなたは新手である。小軍ナリトモ大敵ヲ恐るること莫れ、運は天にアリ、と古の言葉にあるを知らずや。敵懸からば引き、しりぞかば懸かるべし。而してもみ倒し。追い崩すべし。分捕りはせず、首は置き捨てにせよ。この一戦に勝たば、此処に集まりし者は家の面目、末代に至る功名である。一心に励むべし」となる。

 絵本太閤記に戻ると・・・
 この時の義元は、赤地の錦の直垂(ひたたれ)、胸白の具足、八龍打った五枚兜といったいった出で立ちで、松倉郷の太刀、大左文字の脇差を帯びていた。そうして、突然起こった何やら騒がしい雰囲気に最初は同士討ちくらいに考えていた義元も、信長襲来を知って酒宴半ばの盃を捨て、「馬ひけっ!」と叫び立てた。その声に大将然とした姿を見破られ、服部小平太の長槍を脇腹に受けた。義元はそれに屈せず、太刀で払って槍の柄を落とし、小平太の膝にまで切り込んだ。しかし、新たに名乗って出た毛利新介に組み付かれ、その左手の人差し指は食いちぎったが、抵抗もそれまでであった。負傷に屈せず新介は首を挙げ、それを太刀先に貫いてかざした。
 この時義元、享年42歳。

 対象が討たれた今川勢はもはや意気阻喪し、弓・槍・鉄砲・幟・指物を投げ散らし、義元の塗輿も捨てて逃げ回り、今道の方角に退却した。その死傷者数は2500人ほどであった。
 信長は敵を深追いせず、間米山に兵を終結させ、義元の首だけを実検して清州への帰還を命じた。時に、午後4時(申の刻・七ツ)。馬の左脇にその首をぶら下げ、揚々たる凱旋振りぶりであった。途中、熱田神宮では戦勝を報告し、神馬一頭を献上し、社殿の修理も約束した。

 翌日、諸将士の首を実検した後、清洲城から南20町ほどの南須賀口という熱田街道沿いの地に義元塚を築き、大卒塔婆を立てて千部経を読ませた。となる。

 鳴海城の守将は今川家・岡部元信であったが、桶狭間で敗戦し義元が討ち果たされたことを知りながらたじろぐことをせず、あくまで任務を全うするのが武士の本分とばかり陣を固めていた。
 しかし、府中の今川氏真(義元の嫡子)の勧告を受けて退却を決意した。
 その時、信長に義元の首を頂きたいと申し出、信長も是を認めて10人の僧をつけて送り届け、元信はそれを奉じて駿府に帰って行った。

 当時の武士魂に信長も感銘するところがあったのであろうが・・・それにしても絵本太閤記では大衆が喜ぶことを描写している。と、個人的には思うわけだ。
 






 

今川義元が桶狭間に出張る 絵本太閤記では・・・

 5/31のNHK大河ドラマ「麒麟が来る」は観なかった。
 新聞の予告記事では義元がいよいよ尾張を攻めるらしいと描かれてはいたが・・・

 今川義元と言えば当時東方にデンと構えている北条氏、北方の雄武田信玄と縁組をし、三国同盟を結んでいた。
 これで後方の憂いは少なくなっている状況だったので尾張攻めを決意するというのが定説。

 義元は後顧の憂いを無くし、それでもって上洛することによって、将軍足利義輝に拝謁して天下に己の威風を示そうとしたという。

 絵本太閤記では、永禄3年(1560)5月1日、全軍出発の大号令を下し、義元自身は同月12日に府中(現在の静岡)を出発する。
 総勢2万5千、号して4万と称している。

 義元は「足短く胴長く」といわれる体つきで、沓掛で具足をつけ出陣したところ、途中で落馬してこれこそ不吉の前兆と評判されたと描いている。
 実際はどうであったのだろうか? 公家風の立ち居振る舞いをしていたともいうのだが・・・絵本太閤記ではそこまでは描かれてはいない。

 義元はこの沓掛で全軍の陣容を固めたという。
 織田方の前線基地「丸根」「鷲津」の砦が差し当たっての攻撃目標であった。

 「丸根」に向かったのが松平元康(徳川家康)で19日の夜明けとともに砦内に攻め入って主な武将の首7つを挙げ、本陣の義元にまで届けた。

 続いて午前10時頃、鷲津も火を放たれ陥落したとある。

 また、鳴海方面へ進出していた織田方武将3人も討たれ、其の首も田楽狭間(桶狭間の北方に位置する)で休んでいた義元のところに届けられた。
 義元は「我が旗の向かうところ、鬼神もこれを避ける」と大喜びし、近在の神官や僧侶が戦勝祝いとして持ち込んできた酒肴で、大いに盃を挙げたとある。

 決戦の前夜、信長はどうしていたかということについて、絵本太閤記は、今川軍進出の続報相次いだが、信長は軍議を開く気配もない。
 しかし、信長は、「天下の英雄を見るところ、籠城で運が開けたという例は知らず」と言い、明朝城を出て一戦して勝敗を決すべし、自分に従わんとする者は続けと覚悟を示した。
 とある。

 開けて19日の午前2時頃、今川の軍勢迫るとの報告を丸根・鷲津の砦から受けた信長は、急に立ち上がって広間に出て、湯漬けを用意せよ、馬に鞍置けと命じて具足をつけた。そうして、昆布と勝ち栗を前に盃を上げ、「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生をうけて滅せぬ者のあるべきや」
 小鼓を打ちながら、幸若舞の『敦盛』を謳い、三度舞い終わると、本庄正宗の太刀を腰に帯、貝鳴らせ、馬引けと大声に叫び、栗毛の飛び乗って「続け!」と一鞭くれて駆け出した。

 このあたりの描写、今でもドラマ・映画では必ず描かれる場面ではあるが、知ってはいても力が入る場面ではある。

 城内を出たときは従う者は小姓の5騎であったが、大手口では、今や遅しと森可成(もりよしなり)柴田勝家等300騎が待ち構えていた。

 となるわけだ。以降は次で・・・