光秀が信長に仕えることとなった切っ掛け 絵本太閤記では・・・

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、「コロナ」の関係で6月からしばらくの間中断するという。

 今回も絵本太閤記からの明智光秀に関する話をしたいと思うのだが・・・越前での場面はどのようになっているのだろうか?

 光秀が信長に仕官するきっかけとなったのは永禄5年(1562)の秋のことだという。
 この時加賀一揆がおきている。首謀者は加賀一向宗門の者たちが立ち上がり越前に攻めこんできたときに、朝倉景行が数千の兵を率いてこれを防いだ。
 ちょうどその時、明智光秀は越前の長崎というところに住んでいて、一揆勢との戦闘を見てみようとして、御幸塚の戦場にやってきたというのだ。

 戦いは夕暮れになって終わり、敵味方とも篝火(かがりび)を焚いて退陣していた。光秀はその時、御幸塚の遥か東方を望むと、一筋の赤気が空にたなびいて朝倉の陣営まで至っていることを発見した。これは一揆勢が今夜、夜討ちをかける徴であると見た光秀は、格別にじっ懇でもなかった景行ではあったがその見解を告げて警告したとある。

 朝倉方は、そのような可能性もあろうかと考え、用心堅固にして敵を待っていた。やはり一揆勢は、光秀の予言通り夜討ちをかけて来たがかねて用心していた朝倉方は、迎え撃って散々に敵を打ち破り、完全な勝利を収めたとなっている。

 そこで光秀は景行の信頼を得、其の推薦で義景につかえることができたという風に描かれている。

 諸国遍歴の時は、毛利元就にも見透かされたような殺気の相が災いして仕官できなかったが、越前では漸くその才能が認められたのである。

 しかし光秀は、義景の人物を見て、すぐに自分の生涯を託すに足らずと見透かしたようであると描いてある。

 光秀が義昭を説いて信長を頼らせたというのだが、光秀自身も義景の人物を見て信長に仕えたいと思い秀吉に斡旋したというのが絵本太閤記。
 マァ、絵本太閤記だから。ここはどうしても秀吉が柱になる。

 秀吉は光秀を見て、度量優れた逸材ではあるが、殺気が顔に現れて反逆の相ありと睨んだ。これは危険人物で何をやらかすかも知れないと恐れ、推挙をためらっていたという。

 しかし、義昭公のの動座を勧めた人物であれば無下にも扱えず、しかもこれをきっかけに信長も光秀に会いたいと望んでいた。
 信長が対面してみると、骨柄ただ者ならず、立ち居振る舞いも見事で気に入られ、今度上洛して三好一党討伐の先手に加えるべしと上機嫌だったというのだ。

 マァ、絵本太閤記には描かれていないが、信長は危険人物というよりその活用方法の考えを優先して仕えるのを許したと思いたい。

 もう一つ、この絵本太閤記では、光秀を語るのに若き光秀の逸話を載せている。
 ある年のある時、道端で大黒天の像を拾った。これは福の神であると信じて、家に飾って礼拝をしていたが、ある者の言うには、この像を信心すれば千人の長となるとのことであった。
 すると光秀は、顔色を変えて早々に大黒天を捨てさせた。この像の功徳は、たかだか千人の頭となるだけのことか。大望を抱くものが崇めるものではあるまい。ということがあったと描いている。

 こんなエピソードも後付けならなのだろう。

 
 

 
 
 

絵本太閤記に見る明智光秀像

 今回も絵本太閤記からのブログなのだが、明智光秀のことに触れたい。
 この絵本太閤記に出てくる光秀は「武智光秀」と姓が変えられて登場して来るのだが、面倒なので「明智」として述べていきたいと思うのであしからず。

 皆さんもご存じのように、足利13代将軍義輝が松永・三好一党に殺されたことはご存じだろう。
 この義輝には2人の弟がいたのだが、いずれも仏門に入っていた。
 末の弟で16歳になる周嵩は北山鹿苑寺(ろくおんじ・金閣寺)にいたが、手近にあったため、先ず刺客を松永から向けられることになり殺されてしまう。

 次の番は奈良興福寺の一乗院にいる義輝とは1歳違いの弟角慶であるが、細川藤孝(後の幽斎)の機転で助けられて脱出。
 近江・若狭・越前と、伝手を頼ってたどり着き、還俗して義昭と名乗り、美濃にいた信長の庇護を受けることになるのだ。

 この仲介を果たしたのが当時義昭が身を寄せていた越前朝倉家に新参者として仕えていた明智光秀の支援ということになるわけだ。

 光秀の出自、素性は不明な点が多すぎていろいろ説はある。
 脚本家にとっては自分の推測を十分発揮させるところでもあるのだが、「麒麟が来る」ではいろんな展開に仕上げているようだ。

 それでは絵本太閤記ではどうだろうか?
 美濃の守護土岐氏の支族で、恵那郡明智城主・明智光綱の子だという。幼少の頃、父に先立たれ、斎藤道三に仕えた。
 道三がその子義龍と戦った時、道三に味方したため自分の城も落ち、美濃から追放されたとある。
 そうして武者修行を心差して諸国を遍歴したのだという。

 周防の山口に行って毛利元就の家来・桂能登守のもとに寄り、毛利家に仕えたいと申し出た。
 元就は散々その度量や人格を試して「光秀の容貌は狼が眠るに似たり。喜怒の骨相際だち、精神状態は常に静かならず。いわゆる外観は柔和に見えて内心は激しい気性の持ち主である」と将来の光秀を見据えたような発言をしている。

 その時の元就は、仕えた後の異変を恐れて、金銀を多く与えて早々に国外へ追放したとある。

 マァ、この辺りは後年書いたものだから面白くしているのでは? と思ってしまう。
 
 光秀はその後、豊後を経て薩摩まで行ったが、ここは伝統的に他国者に用心深い土地柄である。
 だから、仕方なく四国に渡り、紀州から伊勢路を経て越前に至ったとある。

 諸国遍歴のおかげで城攻め鉄砲・大砲の操法を身につけていて、それを買われたと記している。
 足利義昭が越前に来た頃は、光秀はその技術や射撃の妙技を認められ、朝倉義景に500貫文で召し抱えられたのだと描いている。

 義昭の本懐は三好・松永を討伐して将軍家を再興することであり、朝倉義景に頼ったのもそこにあるのだという。
 しかし、光秀は、毛利元就に見抜かれたように慧眼でもって、朝倉義景は足利将軍の助けにはならないと考えた。

 つまり、光秀も仕官がかなった朝倉家を見限ったことになる。
 ということは、後、信長に仕えた後本能寺の変を起こしたことと繋がるのでは?
 大体元就が見抜いたように光秀は物事を見抜く力に優れていたために、自分の考えが義景にしろ信長にしろ一致しないと判断、これが裏切るという形で現れたのでは? 
と思うわけだ。

 光秀は、せっかく仕官させてくれた朝倉義景を見限り、義昭と信長との間を取り持つ役を果たしたが義昭を見切った。
 そして、信長の家来となったものの信長まで裏切ってしまった。
 ということは、なぜだろうか?
 毛利元就が言っていたように主君を平気で裏切るような性格だったとは考えられないだろうか?
 だから本能寺の変を起こしたのも当然だったかもしれない。

 小生が考えるのは、光秀の性格が単純そのもので、損得がはっきりしており、自分の意に反する考えの持ち主には逆らうのは当然だったとの考えだ。
 だから、信長の横暴ぶりが許せず本能寺の変を起こした・・・とネ。
 これあくまでも私個人の解釈だから怒らないでいただきたい。


 

 

 

絵本太閤記での聖徳寺の信長・道三の対面

 我々が知っている信長の正室は、濃姫といい斎藤道三の娘であることを知っている。
 これは道三が、美濃と尾張が形の上だけでも和睦し、あわよくば尾張を奪ってやろうと仕掛けた婚姻であることも知っている。

 信長の父である信秀とは幾度も道三は争っているのだが、その家督を継いだ信長がどの程度の器量があるのか知りたくて堪らなかったのであろう。信秀の死後、ついに信長と対面することを決意する。
 信長の器量については「うつけ」との情報は入ってくるもののどうしても自分の目で確かめたかったのだ。

 マァ、舅としては当然だろう。我が娘の亭主が本当のうつけ者であれば尾張を奪ってやろうと思うのも当然だろうネェ・・・
 信長がひ弱でバカ亭主だったらと思うと気が気ではなかったはずだ。

 そして、ついに対面の日、天文18年(1549)5月26日がやってくる。
 
 美濃と尾張の境目に位置する富田の聖徳寺が対面場所となる。NHK「麒麟が来る」ではどのような展開に仕上げていくのだろうか?

 絵本太閤記では次のようになる。
 当日、斎藤道三は7、800人の家臣に揃いの折り目高の肩衣を着せ、袴を穿かせて古風に威儀を正して、聖徳寺本堂の縁側に整然と並ばせ美濃勢の威容を見せつけようとした。

 その前を信長一行が通過する算段である。

 そうした準備をさせておいて道三は町外れの民家に身を隠し、信長の正体を見てやろうとした。

 マァ、ここからは知られている描写が展開されていくわけだ。

 以下、行列の先頭は信長で、髪は茶筅に結び、萌黄(もえぎ)の平打(ひらうち・平たい紐のこと)でそれを巻き立て、湯帷子の袖を外した着方である。熨斗つきの太刀と脇差は二つ共縄で巻き、太いお縄を腕抜きとしていた。腰の周りには猿使いのように火打ち袋と瓢箪を7、8つつけ、虎と豹の皮を四種に染め分けて合わせた半袴を穿いていた。友の兵士たち七、八百はまず足軽をさきに走らせ、五〇〇本の三間半の長柄の朱槍、その後に弓・鉄砲隊が続いて、鉄砲は五〇〇挺もあった。これは正に進軍の出で立ちである。

 次いで、この場面『信長公記』ではどうなっているかというと、以下になる。

 【四月下旬の事に候。斎藤山城道三、富田の寺内正徳寺まで罷り出づべく候間、織田上総介殿も是れまで御出で候はゞ、祝着たるべく候。対面ありきの趣、申し越し候。此の子細は、此の比、上総介を偏執候て、聟殿は大だわけにて候と、申し越し候。道三前にて口々に申し候ひき。左様に人々申し候時は、たわけにてはなく候よと、山城連々申し候ひき。見参候はん為と聞こへ候。上総介公、御用捨なく御請けなされ、木曽川・飛騨川、大河の舟渡し打ち越え、御出で候。(中略) 

 七、八百、折目高なる肩衣、袴、衣装、公道なる仕立てにて、正徳寺御堂のの縁に並び居させ、其のまーを上総介御通り候様に構えて、先ず、山城道三は町末の小家に忍び居りて、信長公の御出の様態見申し候。其の時、信長の御仕立、髪はちゃせんに遊ばし、もゑぎの平打にて、ちゃせんの髪を巻き立て、ゆかたびらの袖をはづし、のし付きの太刀、わきざし、二つながら、長つかに、みごなわにてまかせ、ふとき苧なわ、うでぬきにさせられ、御腰のまわれには、猿つかひの様に、火燧袋、ひょうたん七ツ、八ツ付けさせられ、虎革、豹革四ツがわりの半袴をめし、御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らし、三間々中柄の朱槍五百本ばかり、弓、鉄砲五百挺もたされ、寄宿の寺へ御着きにて・・・(以下略)】となる。

 となるのだが、大分堅苦しくなってしまったので絵本太閤記に戻りたい。

 聖徳寺に到着した信長は、部屋に入って屏風を引き回して髪を結い直し、長袴に衣装を改め小刀を帯びた姿で道三の前に出てきたとある。
 その姿を見た道三の家来たちは、さっきまでのたわけ振りは相手を欺くためだったのかと肝をつぶした。

 信長は、そのまま座敷に直って一通りの挨拶をすませ酒肴も出た。そうして信長は苦虫を噛みつぶしたような表情で「またお会いいたそう」と言って席を立った。

 20町ほど道三は見送ったが、信長勢の槍は長く我が勢の槍が短いのが何ともいえず不愉快だったとある。

 この時、道三の家来で猪子兵助が「どう見ましても、上総介はたわけものですなぁ」と言ったところ、道三は、「ただ残念なことには、あのたわけものの門外に自分の息子たちが馬を繋ぐことになろうことは、今から目に見えている」と・・・

 門外に馬を繋ぐということは、家来になるという意味なのだが、やがてこの予言は的中することになるわけだ。
 この後、道三は血のつながりのない嫡男・義龍に討たれ、義龍の息子龍興も舅の仇を討つとする信長に討たれることになる。
 こうして美濃は、やがて信長に占領されてしまうわけだ。