秀吉の軍師 竹中半兵衛

 NHK大河ドラマ「麒麟が来る」はそこそこの視聴率を稼いでいるようだ。
 小生、あの色彩がどうも気になって仕方がないのだ。あまりにもファンタチックで現実離れをしているからだ。

 今後信長、秀吉、家康が登場してくるのだろうが、脚本家はどのような筋立て用意しているのか?  マァ想像の世界だからどのように進んで行っても一向にかまわないが・・・

 今回は秀吉の軍師について触れてみたい。これ、あくまで個人の意見なのであまり真剣に受け取らないでいただきたい。

 秀吉の軍師と言えば「竹中半兵衛」と「黒田官兵衛」を思い出すのは皆さんも同じだろう。
 特に出世し始めた秀吉の若かりし頃の軍師が「竹中半兵衛重治」だ。小生も子供のころ吉川英治の太閤記を読んで興奮していた場面の一つが半兵衛が稲葉山城を乗っ取った場面だ。

 これで竹中半兵衛の名が一気に轟わたったという。それほど強烈だったのであろうが、年を経て思えば大したことはないと思ってしまう7.
 それは、斎藤家に仕えていた半兵衛が戦ごっこをしたのでは?と思うからだ。

 この稲葉山城は難航不落と言われ、織田信秀・信長親子でも手を焼き、攻略することができなかった。
 永禄7年(1564)、一夜のうちに斎藤龍興の隙をついて、僅か手勢16人を引き連れて奪ってしまったと伝わる。
 この時半兵衛は21歳の若さで、主君・龍興を城から追い出してしまったから周りから見れば痛快そのものだろう。

 マァ、この事件、世間からいろいろと言われているが、主なものは「稲葉山城乗っ取り」ではなくバカな龍興を諫めるためだという説。
 美濃の主君は自分が座るという下剋上的考え方と言う説・・・

 しかし、実際は城を乗っ取った後、龍興へ稲葉山城を返還して近江へ逃げているので、諫めるとの気持ちが強かったのであろう。

 そんな知恵の回る半兵衛に反応したのが秀吉と言うのが吉川英治の小説。
 小生は、信長の意向で秀吉が動いたのでは・・・と思う考え方が強いと感じている。そして、信長は秀吉の与力になることを許諾したのではないかと思うのだが別に根拠はない。

 秀吉が半兵衛が断っても断っても、口説くために近江の半兵衛のもとに通い、ついに成功したと伝わっている。
 秀吉は信長の命なので必死に食らいついたのでは・・・と考えてしまう。

 でもネェ、竹中半兵衛のその後となると表面には余り出てこないのだ。

 いろいろな史料を見ても謎が多くて、実際に軍師だったのかどうかも分からないと専門家は言っている。
 大体が稲葉山城乗っ取り話が、本当だろうかと疑われているのだ。

 信頼性の高い太田牛一の『信長公記』は、織田信長自身の美濃攻略を記してはいるが、半兵衛の乗っ取り事件には触れられていないからだ。

 城主の斎藤龍興が一時的にせよ城を追い出されるほどの大事件なのに記述がないということは?・・・どういうことだろうか?
 さらに専門家が不思議かるのは、半兵衛が実際に稲葉山城を乗っとったのであれば、信長が厚遇していてもおかしくないのだが信長はそうはしていない。秀吉に預け放しだ。
 本当に半兵衛が稲葉山城を乗っ取ったほどの力量があるのであれば、他にも手柄話の二つや三つあってもおかしくないのだが・・・それが全くないということは疑わざるを得ないといのが専門家の話。

 秀吉が三顧の礼を尽くして迎えたというのは話としては面白いが、いつもの如くで後世の作り話なのでは・・・面白おかしくするのが小説や講談なのだから・・・・

 歴史の事実としては、信長が稲葉山城を攻略前後に半兵衛は仕えていると思われ、秀吉の与力として名前が載っているのでこれは事実なのだろう。
 天正5年(1578)には、備前八幡山城主を降伏させたとあるが、この時、信長から秀吉に黄金100枚与えている。
 そして、信長は半兵衛にも銀子100両が与えられているから、相当の手柄を上げたもの推測はできる。

 ただ、世間的には有名なのだが、その割には記録がないので謎の人物とされているわけだ。

 竹中半兵衛(禅幢寺所蔵).jpg
 

 

 
 


 

 

 


 

 

 
  

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