明智光秀は本当に名家出身だったのか?

 前回に続き戦国武「将明智光秀」のことだが、この光秀を表すとき、「当時の戦国武将の中でもとりわけ教養が高く、故実や典礼、連歌や茶の湯を好む武将だった」というのだ。
 一方では「内政に長けており、領民に対しては慈しみをもって扱ったので慕われた」ともいうのだ。
 果たしてそうだったのかナァ・・・・

 大体が明智光秀一代記を表すとき重用されるのが『明智軍記』なるものだ。
 しかし、この軍記「本能寺の変」後100年経た江戸時代のものなのだ。1693年から1703年頃のことで眉唾ものという。
 1690年代は「元禄時代(1688-1704)」、5代将軍綱吉のころだ。
 
 幕府は家康,秀忠,家光の3代の間にその基礎を確立して幕藩体制を整えていた。
 4代家綱を経て綱吉の代には最盛期を現出するにいたったころで平和を象徴する時代だと言われている。
 政治の基調も武断政治から文治主義へと転換していったころのことで、経済的には,積極的な新田開発,農業技術,器具の改良などに伴って農業生産力が増大し,商品流通の拡大につれて貨幣経済が発展し,大坂,京都をはじめとする商業都市が繁栄し、商人の勢力が増大し,諸大名の財政が徐々に町人に左右されるに至っていた時代だから、こういった「明智軍記」なるものも輩出されていったのだろう。
 よって、娯楽も様々なものが生まれてくる土壌が育ったと思う。
 だから、庶民が喜びそうな創作を交えて書き上げたのではと推測されるわけだ・・・これ、あくまで推測だからそのつもりで。

 『明智軍記』その中に記されているのは、美濃の守護・土岐氏の支流、明智下野守頼兼八代の子孫・光綱の子だという。
 父が早世したため、父の弟・兵庫助光安が美濃国恵那郡の明智城に住み、土岐家を没落させた斎藤道三に仕えたというのだ。

 その後、光安は斎藤家に反逆したかどで殺害され、甥の光秀は、光安から明智家の再興を託され、明智城を脱出して越前に向かったという。
 そこで光秀は「朝倉義景」に仕えることになり、たまたま身を寄せることとなる「足利義昭」に出会い仕えることになるというわけだ。
 
 そして、光秀は足利義昭とともに織田信長と対面、信長は義昭を利用することになるのだが後に義昭は追放されてしまう。
 一方光秀は、義昭を見限り信長に仕官することになって出世していくというわけだ。
 『明智軍記』には「光秀は土岐氏の流れをくむ名家の出身」だと記されているのだが、まことにうまく筋立てしている(笑)

 ということで朝倉義景時代のころについては他の資料にも合致しているので大体そうだろうと専門家は言っている。

 信長に仕えた後のことについては「信長公記」などに光秀の名前が出てくることから、マァ間違いのないことなのだろう。

 しかし、光秀の父・明智光綱が本当かどうかについてはどの資料にも出てこないことから疑問だというのがもっぱらの説だ。

 明智光秀の父光綱が事実なのかそうでないのかについても専門家は?をつけている。
 『明智軍記』より古い他の文書でも光綱が出てこないのだという。だから『明智軍記』そのものには信憑性が低いのだという。 

 『籾井家日記』とい史料には、光秀のことを族姓も分からない下級武士の子とあり『明智氏一族宮城家相伝系図書』では、進士信周の次男としている。
 天野信景の随筆『塩尻』では、出身は明智だが、本姓は「御門」とあるとも記されているらしい。

 このようにいろんな史料によって、名前も出身もまちまちで、とても光秀が血脈のはっきりした名家の出だとは思えない。
 もうこうなってくると、百姓出の秀吉にちょいと毛の生えた程度の家かもしれないのだ。

 最後に『若州観跡録』には「鍛冶屋の冬廣の次男」となっているから、こうなると武士の家系ですらなくなってくる。 
 
 

 
 
 
 

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