加藤清正の最後とは?

 加藤清正が築城した熊本城、この度の地震で大きな被害を受けた。
 この城、熊本市民にとっては自慢の城だけに早い復元を期待しされているのだが・・・・

 その清正の最後はこの熊本城内であったという。
 慶長十六年(1611)三月二十七日、二条城での家康・秀頼の会見後、熊本に帰国の途中、俄に船の中で病み、六月二十四日熊本にて没したとなっている。

 二条城では、この清正は秀頼のそばを片時も離れようとはせず、万が一の時は秀吉から貰った懐刀で秀頼を守るつもりだったともいう。
 それほど秀頼のことを思っているのであれば石田三成と手を握っておれば・・・とは思うが・・・これは今になれぱ詮無いことではある。

 会見は無事終わったのだがその時清正は涙を流して喜んでいたとも伝わっている。
 
 清正は船で熊本に返る途中病に倒れている。
 家康と秀頼の会談が無事終わったことでホットしたのか一気に病状が悪化したと伝わっている。
 
 領国肥後(熊本)に帰ったときから急激に病状が悪化している。
 清正は倒れてから3ケ月ほどで亡くなっており、因は一応「脳出血」だということなのだが・・・いろんな憶測が流れているのだ。
 その一つが徳川家康の「毒殺説」だ。
 豊臣家に忠実な清正は徳川家康にとって、天下を取るうえで目の上のたん瘤的存在だ。
 邪魔になって仕方がないから毒殺したのだというものだ。

 今になってはなんとも言い難いが、二条城での家康、秀頼会見の大役を果たした事で気が緩んだのでは・・・というのが有力だろう。

 清正にいま少し豊臣家の将来を見通す眼力が、あったら・・・という向きもあるが・・・
 当時、天下を狙っていた家康。
 周囲の状況は家康一辺倒だと言っていいほどの追い風だったと思われる。
 だから、秀吉の遺臣が団結したからと言って対抗出来たかどうか・・・という専門家もいる。
 しかし、こればっかりは、それこそやってみなければ分からなかったと小生は思うのだが・・・・

画像

                 加藤清正像



 
 

 
 
 

この記事へのコメント

はじめまして
2017年08月24日 12:29
こんにちは。
昨日WEBで戦での首の取り方を研究していたらこちらのブログに出会いました。
とても面白い記事が多く、仕事を放置してかなり読み込んでしまいました。ブックマークさせて頂きましたので、これからもお邪魔したいと思います。
とても良い読み物を、有難うございます!!

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