戦国時代に伝来した火縄銃の射程距離は?

 火縄銃は、天文12年(1543)に種子島に漂着したポルトガル船によって伝わっている。
 その30年後には織田信長の鉄砲隊が戦場で活躍しているから、伝播の勢いは凄まじいものであったことが分かる。
 ということは日本の歴史上の出来事が塗り替わることになるのだ。
 それまでの戦いというものは、武士同士の一騎打ちが主流だから、遠方から放たれた小さな鉄砲玉がいかに威力があったかということだ。
 しかし、現代から考えればまだ幼稚さはあったのだが、それでも当時の火縄銃は推定約700m飛んだというからかなりのものだろう。
 ただし、有効な射程距離は約100mであったが、有効距離を過ぎると弾はどちらの方向に進むか分からなかったと云われている。
 しかし、それでも弓矢や槍、刀の時代からすれば相当の威力だろう。

 だから、それまでの一騎打ちの戦いをやっていたのでは、通用しないことは理の当然だろう。
 当時最強と云われていた武田軍の騎馬軍団でも、敵陣に切り込もうとしても遥か手前から弾が飛んでくるのだから手の施しようが無かったというのが本当だろう。
 弾の速度は弓矢の速度より数段早く、威力も数倍だから始末に負えないよねぇ。

 そうなれば、鉄砲を如何に活用するかという戦法に替わってくるのも必然だ。
 ということは、鉄砲を持った足軽が主体となる集団戦ということだ。
 そして、鉄砲の登場以前の城というものは山城がが主で、この山城に籠城されると、武器が弓とか槍、刀では陥落させるのが不可能と云う事だ。
 それが因で各地に群雄割拠という、まさにどうにもならない世の中になっていたのだ。
 
 それが、鉄砲の流行だ。
 遠方といっても「たかが約100m、されど100m」だ。その威力は絶大なものがあり、山城でも落とすのは容易となってしまった。
 この鉄砲を一早く上手く使いこなしたのが信長で、天下統一の速度が一段とあがっとともいえるのだ。
 
 その後、鉄砲の技術は年々進歩し続け、当初は弾や火薬を込めるのに、かなりの時間がかかっていたのだが、鉛の弾と黒色火薬を一緒に包みこむ紙まで開発された。
 つまり、現在の薬莢に類似したものが開発され、操作するのが簡単になっていくのだ。
 人間、戦うこととなると進歩も早くなることの証でもあるのだろうか?
 
 
画像

                        種子島銃

 

 

 
 

 
  

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