「太閤記」などの史記物は江戸時代に入ってから
現在でも豊臣秀吉の人気は強い。
徳川家は秀吉に関するモノは否定したかったらしいのだが、どっこい庶民の中では密かな人気を博していたらしい。
徳川方にとっては、敵である豊臣家に人気の出るのが気に食わないため、この種の本は幾度も発禁にしているのだが、庶民にとっては関係ないとばかり密かに出回っていたらしい。
秀吉自身は、大村由己に命じて『天正記』を著させ、これが最も古い秀吉の一代記であると考えられている。
そして、秀吉の死後太田牛一の『大かうさまくんきのうち(太閤軍記)』、川角三郎右衛門の『川角太閤記』などが著されている。
その中でもブームの先兵役となったのが、川角三郎右衛門が元和9年(1623)までに完成させた『川角太閤記』であった。
次いで、秀吉の軍師として名の高い「竹中半兵衛」の子孫「竹中重門」による『豊鏡』で、この両著は大評判になったという。
さらに、方広寺の鐘銘にケチをつけ、豊臣家滅亡の引き金になった儒学者「林羅山」の『豊臣秀吉譜』もヒットしている。
そういった中での『太閤記』もののうち最も有名なものは儒学者・小瀬甫庵による『太閤記』であり、江戸時代には、幾度か発禁にされたが、寛永3年 (1626) から版を重ねて、全20巻もあるのだ。
これだけ『太閤記』が評判になったのは、身分の低い家に生まれた秀吉が、天下を取ったことに庶民が憧れ夢を託したことにあるのだろう。
これは現代にも通じることで、総理大臣になった「田中角栄」が「今太閤」ともてはやされたことと重なるのでは・・・と思う。
田中角栄も高等小学校卒業で社会に飛び出し大出世した男だからである。
当時の庶民としては、幕府に不満があるわけで、秀吉の出世物語を読むことで気を紛らしたかったのであろう。
ということで、江戸の初期、太閤記ブームとなった本は、いずれも秀吉と関係の深い人々が描いた物語で、比較的史実に基づいたところが受けたのでは?と思われる。
そして、その後に出版された「太閤」ものは色んな創作が加筆され、面白おかしく描かれている。
つまり、史書というより娯楽雑誌的なものだといわれる。
その決定版と云われるのが『絵本太閤記』だろう。
この著で、秀吉と蜂須賀小六が出会う「矢作川橋上の有名な場面だ。
秀吉の時代、矢作川には橋は架かっていなかったことは証明されている。
まさに物語を面白くしたくて作者が作り上げた創作場面だ。
徳川家は秀吉に関するモノは否定したかったらしいのだが、どっこい庶民の中では密かな人気を博していたらしい。
徳川方にとっては、敵である豊臣家に人気の出るのが気に食わないため、この種の本は幾度も発禁にしているのだが、庶民にとっては関係ないとばかり密かに出回っていたらしい。
秀吉自身は、大村由己に命じて『天正記』を著させ、これが最も古い秀吉の一代記であると考えられている。
そして、秀吉の死後太田牛一の『大かうさまくんきのうち(太閤軍記)』、川角三郎右衛門の『川角太閤記』などが著されている。
その中でもブームの先兵役となったのが、川角三郎右衛門が元和9年(1623)までに完成させた『川角太閤記』であった。
次いで、秀吉の軍師として名の高い「竹中半兵衛」の子孫「竹中重門」による『豊鏡』で、この両著は大評判になったという。
さらに、方広寺の鐘銘にケチをつけ、豊臣家滅亡の引き金になった儒学者「林羅山」の『豊臣秀吉譜』もヒットしている。
そういった中での『太閤記』もののうち最も有名なものは儒学者・小瀬甫庵による『太閤記』であり、江戸時代には、幾度か発禁にされたが、寛永3年 (1626) から版を重ねて、全20巻もあるのだ。
これだけ『太閤記』が評判になったのは、身分の低い家に生まれた秀吉が、天下を取ったことに庶民が憧れ夢を託したことにあるのだろう。
これは現代にも通じることで、総理大臣になった「田中角栄」が「今太閤」ともてはやされたことと重なるのでは・・・と思う。
田中角栄も高等小学校卒業で社会に飛び出し大出世した男だからである。
当時の庶民としては、幕府に不満があるわけで、秀吉の出世物語を読むことで気を紛らしたかったのであろう。
ということで、江戸の初期、太閤記ブームとなった本は、いずれも秀吉と関係の深い人々が描いた物語で、比較的史実に基づいたところが受けたのでは?と思われる。
そして、その後に出版された「太閤」ものは色んな創作が加筆され、面白おかしく描かれている。
つまり、史書というより娯楽雑誌的なものだといわれる。
その決定版と云われるのが『絵本太閤記』だろう。
この著で、秀吉と蜂須賀小六が出会う「矢作川橋上の有名な場面だ。
秀吉の時代、矢作川には橋は架かっていなかったことは証明されている。
まさに物語を面白くしたくて作者が作り上げた創作場面だ。
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