徳川家康の女性選びは実用型

 今まで、信長と秀吉の好みの女性について述べてきたが、次は徳川家康の場合について述べたい。
 前回の秀吉と比べると家康は、下級武士や町人の娘が多いことに気付く。
 つまり身分の低い女性たちをズラリと並べているのだ。
 伝えるところの側室15人の内、3人が元使用人なのだ。
 早く言えば自分の身近にいる女性をちょいとつまんだというのが正解かもしれない。
 そして、5人が後家なのだ。
 美人は少なく、俗に言う女中顔が多かったという。
 女中顔というのはどんな顔かというとはっきりしないのだが、美人ではないことは確かなようだ。
 これは、家康が健康で丈夫な子供を産んでくれる・・・と、思われる女性たちに手を出したのだという説が圧倒的に多いらしいから、まず間違いはないのだろう。

 特に子持ちの未亡人は「元気な子供を産んでくれる」とばかりに手を出しているとも伝わっている。
 もう一つは家康独特の考え方があるというのだ。
 それは、身分の低い女性の方が金が掛からず、男に良く仕えてくれるとの思いがあったのだともいう。
 高貴な者や外見(美人か否か)には一切こだわらず、家康が判断する良品(女性には失礼と思うが・・・)を選んだという事か?
 
 以上が家康の若かりしころの女性観なのだが、50歳を過ぎるころから女性観がガラッと変わっているのだ。
 つまり、ピチピチの十代の女性を侍(はべ)らせるようになるのだ。
 史料に出てくる5人の側室は全て12歳から17歳の若さなのだ。
 政権が安定し、ようやく若い女性を侍らせる余裕が出たともいえるのだが、男として若い女性相手は願望だったのかもしれない?
 しかし、家康ほど正室に恵まれていない武将も珍しいのだ。
 最初の正室は「築山殿」だが、この女性は今川義元の姪で、陰謀を企てたとして信長に追い詰められ、殺害している。
 その次が「旭日姫」で、秀吉の妹なのだが(義理の妹ともいわれている)、秀吉が徳川家康を懐柔するために強制的に夫と離縁させられ、家康の継室として嫁がされた。
 その後、天正16年(1588年)に母大政所の病気の見舞いを理由に上洛し、京都の聚楽第に住んで、そのまま別居状態が続きそこで亡くなっている。
 家康も元々乗り気があった結婚ではないわけで、名ばかりの夫婦ということだ。
 旭日姫は「駿河御前」とも呼ばれていたという。
画像

                      徳川家康像
                             
 

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