軍師「山本勘助」のこと

 歴史に興味ある人達は、つい最近まで「山本勘助」なる人物は架空の人物と受け止めていた。
 しかし、最近になって勘助の実在と活躍を示す証拠が次々と発見され、勘助の実像が徐々に浮かび上がりつつあるという。

 そこで今回は、この「山本勘助」について語りたい。
 山本勘助なる人物、戦国最強軍団(武田家)の命運を担った軍師だと伝えられている。
 
 勘助は若くして志を立て、諸国を放浪しているという。
 そして各地の戦国武将の戦略・戦術や築城技術をはじめ、人間としての器量や国情に目を配ったといい、結果、稀代の戦略家に成長したのだというのだ。
 ただ、勘助に欠けていたのが見栄えの美しさだ。
 勘助は隻眼で、片足が不自由であった。
 そのため駿河の今川家では、その外見だけで仕官を断られている。 
 後から云えば、今川家には勘助を見る目が無かったと云う事だろう。
 しかし、世の中は広いもので、そんな勘助に目をつけた武将がいたのである。
 それが、武田信玄の重臣「板垣信方(のぶかた)」であった。
 信方は信玄に「見てくれは悪いが軍略に長けた男がいる」と進言し、それによって信玄に仕えることになるのだ。

 山本勘助の名前を一躍高めたのは、天文19年(1550)の「戸石合戦」であろう。
 武田信玄は戸石城に攻めかかったのだが、詰めている村上義清の抵抗が激しく攻め落とすことができず、撤退を余儀なくされていた。
 そこを村上軍に追撃され激戦となってしまった。

 戦いの前半は村上軍の優勢に進んでいた。
 武田軍はなんとか劣性を挽回しようとするのだが、妙案が浮かばず苦境に陥った。
 そのときに、山本勘助が大胆な策を提示するのだ。
 それは、村上軍の攻撃の矛先を南へ向けさせる策で、その間に自軍(武田軍)が態勢を立て直して反撃に転じるというものだった。
 囮になる部隊は危険極まりないのだが、勘助は自らその役目をかって出るのだ。
 
 かくして、村上軍の矛先は南へ向き、信玄はその隙に乗じて態勢を立て直すことができ反撃に転じるのだ。
 その結果、村上軍は散り散りに敗走することになる。
 武田軍は勝利を収めることができたのだ。
 この戦いで、山本勘助の計略が机上の空論でないことが証明されることとなる。
 勘助は正真正銘の軍師だったのである。

 
画像

                      山本勘助像
 
 
 
 
 

 
 
 
 

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