秀吉が「金ケ崎の退き口」で手柄を立てた事

 今回は、秀吉が「金ヶ崎の退き口」で手柄を立てたといわれている当時の状況について語りたい。
 
 織田信長が足利義昭を美濃の国の立政寺に迎えたのが永禄11年(1568)7月のことだった。
 信長は義昭の希望する上洛を達成するため、その供奉(ぐぶ)を承諾した。
 諸将に其のことを通達したのだが、南近江の観音寺城主六角義賢がこれを拒否する構えを見せたのだ。
 北近江の小谷城主浅井長政とは同盟を結んでいたのだが、六角義賢は上洛する際誠に目障りとなるため信長は、その年9月に大軍を率いて進撃する。

 まず六角方の支城箕作(みつくり)城を攻め落とし観音寺城に迫った。
 以下米原正義先生の著によれば次のようになるのだが、『信長公記』に木下藤吉郎の名前が初めて載るのだ。

 箕作城の攻めには、織田家の宿老、佐久間信盛や丹羽長秀等の名前と共に登場している。
 
 箕作城はあっさり陥落するのだが、六角方は戦意喪失で観音寺城を捨てて伊賀へ逃亡してしまう。
 信長は、26日には義昭を奉じて入京することになるのだ。
 そして秀吉は、佐久間・丹羽・村井貞勝・明智光秀等と京都奉行職につくことになる。

 そして数年経つのだが、その間信長は再三再四越前一乗谷の朝倉義景に上洛を促すのだが頑として拒否するのだ。
 ついに堪忍袋の緒が切れた信長は、元亀元年(1570)朝倉義景討伐の決意をし、大軍を率いて京都を出発した。

 信長の軍団は、越前敦賀表へ進出したのだが、金ヶ崎の南東の手筒山城を秀吉軍が陥落させた。
 この場面は、後の小説等で華々しく語られる下りなのだが省略する。

 さらに、金ヶ崎城を包囲して、義景の重臣・朝倉景恒を誘って開城させるのだが、これも秀吉の手柄とされている。
 ということは、秀吉はこの時既に、信長の軍師としての役割も一角の将としても成長していたことになる。

 しかしである。
 ここで歴史ファンならご存じの事態が生ずることになるのだ。
 同盟者として信頼していた浅井長政が離反して、朝倉方に寝返ってしまう。
 信長は、前は朝倉軍後ろは浅井軍に挟撃される形になり、一気に窮地に陥ることになるのだ。

 信長は、秀吉に金ヶ崎での殿軍(しんがり)を命じ、朽木越えから京都に引き上げた。
 殿軍を任された秀吉は、朝倉軍の追撃を必死になって持ちこたえ、良くも食い止めたと称賛されることになる。
 
 これが世に名高い「金ヶ崎の退き口」の手柄で、この時から秀吉の名前が全国区になるのだ。
 それはそうだろう。天下を取るかもしれない信長を、秀吉自ら助けたのだから・・・誰しも認めざるを得ないだろう。

 そして信長の引き足も早かったことも、後の歴史学者も認めているのだ。
 信長は攻めも早く厳しいところもあるのだが見切りも早かったのでは・・・と考えられる。

 この時の秀吉の手柄話は『絵本太閤記』に載っているので紹介すると
 秀吉に「我この所にて朝倉の大軍を引き受け、希代の功を立て、味方の諸士が眠りを覚ますべし」と云わせている。
 そして、朝倉軍を敗走させた秀吉軍には「総勢合わせて三千余人、威風あたりを払い、しづしづと引き取りしは、古今例少なき殿軍やと、誉めぬ人こそなかりける」と激賞させている。

 太閤の話なので激賞するのも分かるのだが、秀吉がこの時点で間違いなく軍略に長けていたことはこれで証明されるであろう。
 おそらく信長は、秀吉のそうした才能を既に見抜いており、窮地に陥った際での金ヶ崎の殿軍を秀吉に託したものと推測できるのだ。
画像

               手筒山城址から金ヶ崎を望む
 
 

 
 

 
 

 
 

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