“本能寺の変”の時、信長の家臣団は?

 織田信長が本能寺に宿泊していた時に従えていた家臣は約150人だっと伝わる。
 主な武将達は、それぞれ信長の命を受けて各地に進駐または駐留していたのだ。

 それでは、主力武将が当時何処で、どのような状況に置かれていたかを述べると・・・・。

 “本能寺の変”を一番最初に知ったのは「丹羽長秀」である。
 彼は、四国征伐のために、大阪に兵力を集結させ待機中だった。
 当時、悪天候が続き、四国に渡れずにいたのである。
 丹羽長秀は“変”の情報を聞くや、一旦大阪城に戻り、明智光秀の娘婿「津田信澄」を攻撃している。

 重臣の柴田勝家はどうかといえば、前田利家、佐々成政等を率いて、越後の上杉景勝と対峙中であった。
 “変”の情報を受けると、居城の金沢に戻ったものの、背後に上杉景勝がいるため直ぐの上洛は無理だったのだ。

 徳川家康はどうだろうか?
彼は武田家滅亡の功労者として、信長から駿河国を加増され、そのお礼に信長と会見している。
 その後、大阪・堺に赴き、見物していたのだが、其の時に“変”を聞いている。
 いち早く身の危険を感じた家康は、直ちに堺を立ち、後に有名な「伊賀越え」で命からがら三河に帰っている。

 滝川一益はどうだろうか?
 彼は、上野厩橋で“変”を知っている。
 しかし、新しい領地を得たばかりで、その保持のために手一杯で、とても上洛するのは無理だったのだ。

 羽柴秀吉は、備中高松城を包囲中であったが、この時に“変”を聞き、信長の訃報を知る。
 直ちに毛利輝元と講和して姫路に帰った。
 そこで情報を収集するとともに、準備を整え出陣したのだが、”変”を知って僅か6日間のことで、これが有名な「大返し」として語られているのだ。

 そして、この速さが秀吉を天下統一に向けさせたことは、周知のとおりである。


 
 
 
 

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