大坂夏の陣で千姫を助けたのは誰?

 慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」から約3ケ月後の元和元年(1615)、老獪な家康が兵16万5000人を引き連れて大坂城を包囲する。
 そして、豊臣家は滅びることになるのであるが、圧倒的な軍勢を要する徳川軍の前には、豊臣軍はなすべもなく敗れ去る。

 その合戦の最中、戦いが峠を越したとみると、家康は、家臣に大坂城から千姫の救出を命ずる。
 ご存知のように千姫は、徳川秀忠の娘で、豊臣秀頼の正室として嫁いでいたのだ。
 つまり家康の孫娘である。

 この千姫救出劇で、燃え盛る大坂城に飛び込んで救出したのが坂崎出羽守直盛とされているのだ。

 顔面に火傷を負いながらも、無事に千姫を救い出した坂崎出羽守は、大きな功積を残したといわれている。

 津和野3万石の城主に過ぎなかった坂崎直盛は、この勇猛果敢な行動で一躍脚光を浴びることになるのだ。

 ところがである。
 実際は、千姫を救出したのは坂崎ではなかったようなのだ。
 坂崎の話しは様々な書物に登場してくるのだが、何れも後世の作り話と見られている。

 有力な史料に基づいて、この救出劇の経過をまとめると、事の顛末は次のようになるというのだ。
 
 まず、配色濃厚となった大坂城内では、秀頼が千姫らとともに天守で自害しようとするが、家臣に止められて城内に身を潜める。
 この後、豊臣家の重臣大野治長の手引きで、千姫は城内から脱出する。
 大野は、千姫の脱出と引き換えに、秀頼母子の命乞いを家康に求めようとしたのだとされいる。
 実際には、千姫を連れ出したのは、「堀内氏久」(ほりうちひさうじ)という人物だったとされている。

 そして、徳川方で、最初に千姫を保護したのが坂崎であり、坂崎は千姫を家康の本陣まで送り届けている。
 つまり、坂崎の果たしたのは、千姫を大坂城から連れ出すことではなく、保護して千姫を家康のもとへ送り届けることだったというのだ。

 なお、坂崎は、この千姫救出劇の2年後に改易されている。
 その理由は、はっきりとは分っていないのだという。

 当時から根強く囁かれてきた噂によると、千姫の脱出に尽力した者は、千姫との結婚を認めるといわれながら、その約束は反故になり、千姫は本多忠刻(ただとき)に嫁ぐことになったので、それを恨んだ坂崎が、輿入れの日に千姫を奪おうとして、その計画が露見したためといわれている。

 しかしながら、この話も後世の創作という見かたが有力だといわれる。
 (参考~歴の謎研究会書他)

 

 

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この記事へのコメント

祖父が堀内氏の子孫の方から聞いた話によると
2017年07月08日 12:29
やはり堀内氏久が千姫を助けたものと思わります。
堀内氏の子孫である真野元就氏と祖父が会った時の話では(1977年ごろの話)そのような話だったと思います。
京田辺市の田辺郷土史会「筒城」第22輯昭和五十二年三月刊所載 大阪落城夜話

「この堀内氏の子孫である真野氏は、かつて東京都で観光事業をやっていた老紳士で、小金井市の郷土史家一人を伴って、堀内家の系図一巻をたづさえてやって来た。
その中に、戦国時代を、苦労しながら生き続けてきた武将が、西軍に参加し、関ケ原戦いに敗れ一家離散の運命にあい、更に大坂の陣には再び大阪入場。そうして夏の陣に敗れ城は落城。如何なる縁があったのか定かでないが、城州薪邑の里へ吉川家を頼って落ちてきて、黙々寺に葬られたという物語である。」

要するに夏の陣で敗れたのに徳川の包囲網をかいくぐり墓を作ることができたのは何かあったからじゃないか?とのことです。黙々寺に堀内氏の墓があったかはこの資料をご覧ください。

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