山内一豊の妻・千代の「へそくり話」の真偽

 山内氏が治めていた高知城(土佐藩・現在の高知県)に行くと、馬と女性が並んだ銅像を目にする。(末尾写真)

 その女性が、土佐藩初代藩主・山内一豊の妻・千代なのである。

 何故、馬と一緒の銅像かは、歴史に詳しい人は言わなくとも分るはずである。
 
 安土桃山時代の武将・山内一豊は、最初織田信長に仕え、その後豊臣秀吉、秀吉死後は徳川方に与している。
 そして、関ヶ原の戦いで、功有りとして土佐20万石の大名にまで上りつめた人物である。

 その一豊の出世を陰で支えたのが妻・千代だといわれるのだ。
 力量も家柄もそれほどのものとはいえなかった一豊は、千代の「内助の功」があってこそ、大大名へと出世できたといわれている。
 その千代の「内助の功」の逸話のうち最も有名なのが「へそくり十両」の話しなのだ。

 一豊がまだ信長に仕えている軽輩(けいはい)だったときの頃の話しだ。
 一豊は、東国の商人が売りに来た駿馬をどうしても自分の馬にしたかったのだが、あまりにも高価すぎて手が出ない。

 ため息をつきながら家に戻ったが、それに気付いた千代が、どうしたのかと尋ねると、一豊が「残念だ、無念だ」と言いながら、駿馬の話をする。

 すると千代は、鏡箱から十両を取り出して、こういったという。
 「私が嫁入りするとき、母に『夫の大事のときにだけ用いなさい』と渡された金子です。どうぞ、心置きなくお使いください」

 一豊は、差し出された金子で駿馬を買い、京で行われた「馬ぞろえ」(現在でいう閲兵式)に参加した。
 そこで、信長の目を引いたことが、出世の足がかりになったのだというのだ。

 高知城の「馬と女性」の銅像は、この時の千代の賢妻ぶりの逸話から作られたものなのだ。

 実は、史実と照らし合わせると、この「へそくり十両」の逸話には、相当疑ってかかる必要があるのだ。

 まず、この逸話は「安土城下」を舞台にしているのだが、安土城が築かれたのは天正4年(1576)のことである。
 すると、一豊は既に400石の身分となっていて、家臣を抱えていた。
 云ってはなんだが、十両程度(米30石に相当)の金なら、少し無理をすれば十分用意できた身分だったのである。

 次に、京で「馬ぞろえ」が行われたのは天正9年(1581)のことなのだが、一豊は、その4年前の天正5年には、播磨に2000石の知行を与えられていたので、金10両位、簡単に都合できたと推測できる。

 「へそくり十両」の逸話が、嘘だろうと思う理由はここにあるのだ。

 ただし、ここで云っておきたいのは一豊の妻・千代が賢妻だったという話し自体は、間違いないと思われる。
 それは、「関ヶ原の戦い」で一豊は東軍につくのだが、石田三成ら西軍から届けられた勧誘の書状を、千代は使者に持たせて一豊に届けさせた。

 このとき千代は、「勧誘の書状は開封せずに、家康様に差し出すように」との密書を書き、その文章を「紙縒り(こより)」にして使者の編み笠の紐にした。
 そして、密書を読んだ一豊は、千代の指示どおり、書状を未開封のまま、家康に差し出すのだ。

 これが、一豊に対する家康の心証を一段と良くすることになった。
 一豊は、千代の助けによって大出世への道を歩む糸口を掴んだのである。

 名馬の話しも、千代がこういう賢い女性であったからこそ実話のように伝わったものと思われるのである。
 (参考~歴史の謎研究会書他)

                    高知城にある「駿馬と千代」の銅像
画像

 
  

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