江戸時代の贈収賄事件

 政治と金は何時の時代にも物議を醸すが、現代のものの考え方と江戸時代の考え方は若干違うようであり、別に悪いことをしているとの自覚は無かったようである。
 そこで今回は、中央学院大学重松一義教授の著から紹介しよう。

 戦国の気風が遺る江戸初期には、将軍や権臣に贈り物をすることは、敬意、御奉公という忠誠の印であった。
 そして、武功では認められなくなってきた天下泰平の元禄時代(1688~1703)より、贈り物・手土産・饗応は、昇進加禄の運動、御手伝(金のかかる事業の割当)、転封(国替)取止め、公事訴訟への裏工作に不可欠な“まいない” “音物” “袖の下”として公然となっていたのである。
 そういう意味では現代と異なり、「賄賂は常識」という認識が一般的であったのである。

 江戸城内で吉良上野介が刃傷を受けたのは、勅使接待について指図を受けるべき浅野長矩に贈り物の配慮が無かったか、教授料に比べ賄賂が少なかったかなどによる“いじめ”が原因とか言われている。

 その浅野の事件の3年前、元禄11年(1698)2月7日、同じく接待を命ぜられ、いし゜められた津和野城主亀井隠岐守茲親(これちか)の家老がこれを察し、吉良の家老に黄金100両、反物数巻を差し出し事なきを得たなどという風聞があった。(増訂『反日閑話』巻三、『仮名手本忠臣蔵』)。
 
 元禄時代、将軍綱吉のもと、老中柳沢吉保のプレゼント作戦は手がこんでおり、愛妾お伝をも献上したほどである。
 それにこの当時、贈答品は上げ底の菓子折りに干し鯛、氷砂糖というのが定型で、その下に金銀が敷き詰められ、干鯛は黄金、氷砂糖は白銀とほぼ決まっていたのである。
 元禄から宝永(1688~1710)にかけての勘定奉行萩原近江守重秀は、柳沢への賄賂のかたわら、貨幣改鋳で銀座役人から26万両を収賄、このほか土木の入札謝礼など、歴然たる不正に加担する大汚職の主であった。
 (新井白石『折たく柴の記』下)。
 また、賄賂政治というと思い浮かべるのは、安永・天明の時代(1772~1788)の老中田沼意次の金権人事であろう。
 猟官(任官・昇進)は賄賂にあらざれば絶対に不可能という仕組み、その取次料(面会料)は120両以上、長崎奉行になるには2,000両、御目付になるには1,000両との相場であったといわれている。(「匏菴遺稿」ほうあんいこう)。
 このため田沼の屋敷には珍宝がつぎつぎ運び込まれ、田沼自身「志の厚簿は贈物の多少によって知る」(『天明夜話集』『江都見聞録・こうとけんぶんろく』)と述べ、気に入った贈り物によって人選とランクづけがなされていたといわれている。
 



 

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