豊臣秀吉が馬印を「千成瓢箪」とした時期

 秀吉が瓢箪を馬印とした時期は、斉藤龍興の居城稲葉山城を攻略したときと言われている。
 だが、「信長公記」には秀吉の名は現れてこない。
 しかし後ほどの記録から、秀吉が稲葉山城攻略に参戦し、戦績をあげたのは間違いないところであろう。

 永禄10年(1567)8月、西美濃の三人集といわれていた稲葉良道・氏家直元・安東守就を裏切らせて味方にしていた信長は、斉藤龍興の立て籠もる稲葉山城を一挙に陥落させた。
 龍興は城から落ち延びて、一向一揆の拠点である伊勢の長島氏を頼った。
 信長は稲葉山の井口を岐阜と改め、小牧山から移って美濃一国を平定したのである。

「信長公記」には秀吉の名が出てこないが、これが「絵本太閤記」になると稲葉山城攻略の最高の功労者のごとく称えまくっているのである。
 それによると、秀吉は自分の攻め口を弟秀長に託し、蜂須賀・加治田・稲田・青山・日比野らの主従7人で城の搦手へ廻るため「銘々腰に兵糧をつけ、大なる瓢箪に酒を入れ」陣所を打って出た。
 途中堀尾茂助の案内で、搦手から大手の城塀へと走り廻って「酒器に用いし瓢箪を竹の先に結びつけ、塀高く差し出し」たのである。
 これは味方への約束の合図であり、なお味方の軍勢を誘引して城内へ攻め入って城を陥落させたという事になる。
 さらに「千成瓢箪の由来」の項まで挿入して秀吉の功を称えているのである。
 それによると、秀吉の功積を賞賛した信長は、「今度瓢箪の相印、面白き趣向、とりわけ味方の吉事なれば、この後例として馬印に用うべし」と命じ、戦功あるごとに、小さな瓢箪を一つずつ増やすようになって、千成瓢箪の馬印が天下に有名となった。
 との後日談まで書き加えているのである。
 しかしこの記述は「絵本太閤記」以外には記されていないことから創作であると思われる。
 『石母田(いしもだ)氏覚書』をみると、「金ノふくべに金ノのれん」と書かれている。
 『彦根旧記』にも、「御馬の先の、のぼりのだしは、金のひょうたんぴかぴかと」という、流行の踊り歌が収められている。
 一方では、合戦図屏風などにも瓢箪が描かれており、金のひとつ瓢箪を馬印としたことは間違いない。

 よって秀吉が瓢箪を馬印として使い出したのは、稲葉山城攻略後であることは巷間の通りであろう。
 (参考~米原正義氏書より)

 
 

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この記事へのコメント

たらこ
2010年05月07日 11:04
自作で戦国武将の検定作っています。

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