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zoom RSS テーマ「史跡と歴史散歩」のブログ記事

みんなの「史跡と歴史散歩」ブログ

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武田信玄は本当に上洛しようとしたのかナァ
武田信玄は本当に上洛しようとしたのかナァ  今日は武田信玄のことについて記したい。  とは言っても大したことではないのだが・・・元亀3年(1572)10月3日甲斐の武田信玄が西に向けて出立した。  兵約27000人というから大掛かりな西上だろう。  この西上を、信玄が上洛のためだったと言われていることに疑義があるのだ。  本当に上洛のためだったのであろうか?  とすると途中徳川、織田、浅井・朝倉、石山本願寺等を相手に戦いつつ京に向かうことになるのだが・・・  特に台頭著しい織田信長を撃破するとなると、時の信玄ともいえども並大... ...続きを見る

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2017/06/26 11:44
前田利家の死の直前
前田利家の死の直前 1/20に秀吉の死の間際をUPしたのだが、その秀吉の盟友と言われたのが前田利家だ。  秀吉から五大老に推された利家だが、秀吉の死後にも豊臣家の嫡男「秀頼」のことを気に留めていたという。  秀吉は慶長3年(1598)8月18日に亡くなるのだが、利家はそれから僅か半年後の慶長4年3月3日に大坂で亡くなっている。  病名は不明だと伝わっている。  利家は、秀吉から後継者である「秀頼」の守り役を仰せつかっている。   マァ、遺言なのだが、家康と三成の対立が深まってくる。  利家は反家康派... ...続きを見る

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2017/05/09 12:43
石田三成の逸話
石田三成の逸話  前回UPした明智光秀と同じく、歴史ファンにもあまり好印象を与えていないのが「石田三成」だろう。  しかし、小生はちょいと違うと思うのだ。  子供の時秀吉に仕官し、その後秀吉に取り立てられて一国一城の主に駆けあがった三成。  他の武将と違って、秀吉に相当な恩義を感じていたのではと思っている。  それが秀吉死後の「関ケ原の戦い」だと思うのだが・・・・ ...続きを見る

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2017/02/15 11:22
明智光秀の連歌の話
明智光秀の連歌の話  先日、知人等と一杯飲みながら俳句の話をしていた。  俳句につてはそれほど興味はないのだが、次第に話が逸れ始めて、光秀が本能寺の変を起こす前に「連歌」を通じてそれらしきことを口にしていたという方向に行ってしまった。  みんな歴史が好きな連中なので自ずからその方向にいったのであろうが、それにしても皆博学なのには驚いたのだ。  そこで今回は、この光秀の「連歌」のことについてUPしたいと思う。 ...続きを見る

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2017/02/07 11:06
豊臣秀吉の死の直前は秀頼の心配だけだった
豊臣秀吉の死の直前は秀頼の心配だけだった  小生が子供の頃の戦国時代の英雄と言えば羽柴秀吉であった。  なぜ豊臣秀吉ではないのか?と問われれば、「天下人になるまでの秀吉が好きだから」と答えることにしている。  天下を取るまでの秀吉は信頼する主君信長を一途に頼り、誠心誠意忠誠をつくし、自分の持てる能力を発揮しているところに興味があったからだ。  豊臣性を名乗った秀吉はどうしても好きになれないのだ。  特に晩年の秀吉は「狂っていた」と言っても過言ではないような気がする。  これ、あくまでも小生の気持ちなので秀吉ファンの皆さんには許... ...続きを見る

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2017/01/20 11:12
信玄VS謙信の違い 戦は結果なのか経緯なのか?
信玄VS謙信の違い 戦は結果なのか経緯なのか?  久しぶりのUPです。  休んでいる間に次の題材は何にしようかと考えることが多かったのだが、最後には謙信か信玄にたどり着いてしまう。  小生にとっての戦国時代を象徴する武将は、武田信玄と上杉謙信に絞られてしまう。  それほど武名高い二人なのであるが、性格や戦法は両極端の二人でもある。    二人に関しては次のような話が伝わっているという。  北信の雄と謳われていた「村上義清」という武将がいた。  この義清の領地を武田信玄が奪ったのだ。  義清は他の豪族と共に信玄のライバルである上... ...続きを見る

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2016/12/30 07:15
戦国時代に合戦で使用された小道具
戦国時代に合戦で使用された小道具  戦国時代、合戦に使用された必要な小道具は種々雑多であった。  特に大将の小道具は「大将の六具」と言われる位大事なものとされたらしい。  身に着ける「鎧」、「太刀」、「采配」、「軍配」、「鞭」、「扇」を指している。    「合図の六具」とは、「鉄砲」、「のろし」、「旗」、「法螺貝」、「鐘」、「太鼓」だと言われている。    これらは、いわば影の主役なのだが、合戦の勝敗にも関係するものなので、武将たちは大切に取り扱ったという。  中には縁起担ぎの武将もいたらしい。   ○ 采配、... ...続きを見る

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2016/11/17 11:06
信玄・謙信の軍旗「風林火山」と「毘」
信玄・謙信の軍旗「風林火山」と「毘」  武田信玄の軍旗。  あまりにも有名な旗である。  これはご存知「孫子」の書から『疾如風徐如林侵 掠如火不動如山』という一句をとり、紺地に金で染めた旗印だ。  他にも、戦勝祈願を行った神社の名前「諏方南宮上下大明神」などと記したものがある。 ...続きを見る

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2016/10/27 17:14
戦国時代の軍旗・指物・馬印など
戦国時代の軍旗・指物・馬印など  映画やTVドラマでの戦国時代の戦場。  ちょいと想像すれば賑やかに感じるほどの場面が浮かぶことであろう。  旗印があれば馬印もあり旗指物まである。  実際に戦せず対峙しているだけであれば何かの祭りの如くの場面ではなかろうか?  つまり殺伐とした戦場を華やかにしているのは「軍旗」「指物」「馬印」があるからだと云っても良いくらいだ。  しかし、これらは決して飾り物ではないのだ。   ○ 家紋というものは、その家をあらわす印だから武将が誰かが分かる。 ○ 旗印というものは、だれが軍勢... ...続きを見る

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2016/10/09 17:18
戦国時代の剣豪〜上泉信綱
戦国時代の剣豪〜上泉信綱  来春、剣術「新陰流」の創始者で戦国時代の兵法家、上泉信綱を主人公とした特別ドラマ「剣聖上泉伊勢守信綱物語(仮称)」が放映されるという。  BS放送で、信綱役は村上弘明だというが、さてどんな仕上がりになるのだろうか?  上泉信綱は剣豪というより「剣聖」と言った方が相応しい人物であり、TVドラマも「剣聖」と付けられている。 ...続きを見る

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2016/09/04 16:27
戦国時代の豪傑・剣豪〜塙団右衛門
戦国時代の豪傑・剣豪〜塙団右衛門  出自については正確には分かっていないと言われており不詳である。  尾張国の人で、同姓であるため、織田氏の家臣・塙直政の一族か縁者とする説もあるが、遠州横須賀衆で浪人となった須田次郎左衛門という人物が本人であるという説や、上総国養老の里の出身で千葉氏の家来だったが、小田原北条氏家臣で「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成に仕えたという説、相州玉縄の住人で玉縄城主となった北条左衛門大夫の徒士となったという説もあり、出身地や素性も定かではない。 ...続きを見る

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2016/08/06 17:11
戦国時代の豪傑、剣豪と云えば?
戦国時代の豪傑、剣豪と云えば?  戦国時代と言えば一国一城の主となるべく腕自慢、力自慢の豪の者が割拠した時代でもある。  小生の頭の中にある豪傑で思い出すのは、後藤又兵衛、塙団右衛門、可児歳三、上泉信綱、柳生宗厳・宗矩親子、塚原卜伝等々いる。  剣術の技を磨いて諸国放浪していた宮本武蔵や佐々木小次郎などもいる。  その他にもいると思うが割愛させて頂くとして、今回は後藤又兵衛基次ついて簡記したい。 ...続きを見る

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2016/07/20 10:15
織田信長が黒人を家臣にした話
織田信長が黒人を家臣にした話  信長の逸話の中でも有名なのが黒人を家臣にした話のことだ。  天正9年(1581)にイエズス会の大物ヴァリニャーノが日本巡察にやってきた。  彼は織田信長に謁見しようとして京にやってきたのだが、そのとき彼が連れていたのが黒人の奴隷であった。  信長は京の本能寺に宿泊していたのだが、京の町は大騒ぎとなったという。  当時の日本はどうにか白人の免疫はできつつあったのだが、黒人となるとそうはいかず、一目でも肌の色の違う人間を見たいとの思いから見物に押し掛けたのだ。 ...続きを見る

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2016/06/23 15:52
宣教師ルイス・フロイスから見た信長像
宣教師ルイス・フロイスから見た信長像  日本人にとっての戦国武将・織田信長像は「傲岸で自分以外の者は信用しない」と云われるほど尊大だったとの印象が強いと思っている方が多いと思う。  そして、事実そのような武将だったらしい。  それでは外国人から見た信長像はどうだろうか?  今回はポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが見た信長について述べたい。  これらの話は有名なものなので、詳しい方はスルーしてください。  信長は、フロイス以外にもイタリア人のオルガンチーノ、ワリニャーノといった宣教師達ともよく合っていたという。  彼ら宣... ...続きを見る

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2016/06/16 15:56
戦国時代の「城」は武将の象徴と政務の中心
戦国時代の「城」は武将の象徴と政務の中心  織田信長のことについて何度かUPしたのだが、今回は先月発生した熊本地震のおかげでひどい損害を受けた「熊本城」に関連して「城」についてUPしたい。  その前に「この熊本城」のことなのだが、別名「銀杏城」という愛称があり市民から親しまれていたという。  銀杏城」という名の由来になっているのは、城内に植えられた銀杏の木である。  これは、籠城戦になった時の食料確保のため、築城時に加藤清正がこの銀杏を植えたという伝えがあることからきている。 ...続きを見る

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2016/05/20 10:15
織田信長の戦への取り組み方
織田信長の戦への取り組み方  織田信長といえば一生のうち100回近い戦をやっていることは述べたのだが、この信長、戦のことについては普段からいろいろ考えていたという。  武将の子供だけあって当時の遊びは、ほとんどが「戦」と関係のある遊びだったという。  棒ふりから始まって水遊び、木登り、駆けっこから石投げ等々・・・・「戦」と絡ませたといわれている。  槍の長短の争いもそうだ。  そのような時、種子島に鉄砲が伝来した。  その噂を聞いた信長は、将来の戦はこの鉄砲での争いが主体になると考え、さっそく取り寄せるとともに自... ...続きを見る

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2016/04/21 10:19
信長の小姓「森蘭丸」の逸話
信長の小姓「森蘭丸」の逸話  前回に続き森蘭丸の逸話としたい。  皆さんには申し訳ないないのだが、小生は、逸話というものは事実もあるのだろうが、後年の人々がこうではなかったのか?との願望と期待が入り混じった創作ものが多いと思っている。  信じる人もいるだろうが信じない人もいるのでは・・・と思うのだ。  だから、逸話というものは話として知っておく程度で良いと小生は考えている。  それを前提に、以下読み進んでいただきたいと思います。 ...続きを見る

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2016/04/09 11:30
織田信長の小姓「森蘭丸」のこと
織田信長の小姓「森蘭丸」のこと  前回少し述べたのだが、信長の小姓「森蘭丸」のことだ。    その前に小姓のことだが・・・  武家の社会では亭主(武将)の身の回り、つまり雑事のことなのだが、正室、側室等の女房達は一切しなかったといわれている。  それでは誰がやったのかというと小姓と呼ばれる少年たちだ。  亭主つまり武将の食事から身支度、掃除、外出する時の供までありとあらゆることをやっていたというから大変な仕事だ。  武将の夜の相手までさせられたのだから並みの神経ではもたなかっただろう。 ...続きを見る

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2016/03/09 10:43
織田信長の初陣と側室の話
織田信長の初陣と側室の話  織田信長の初陣については前回もサラッと述べたのだが、詳細な記録はないというのが本当らしい。  前回もUPしたように初陣は天文16年(1547)吉良の大浜城攻めであるが、これは今川義元の勢力が伸びてきていたことで吉良大浜を攻めている。  一応初陣ということもあって信長主従は、今川方の軍事基地に次々と火を放って引き下がり、翌日には帰ったという。  この時のいでたちは、“紅筋が入った頭巾”をかぶっていたといい、馬乗り羽織を着て、馬鎧をつけた馬に乗っていたという。  見た目に初々しい若武者振り... ...続きを見る

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2016/03/03 14:40
織田信長の負け戦について
 こんにちは!久しぶりのUPです。  今回は信長の合戦についてUPするのですが、織田信長の合戦ということになると凄い回数になると思います。  ざっと調べただけで90回近い合戦をしている。  華々しい勝ち戦ばかりではなく、当然負け戦もあるわけですがその数19回ぐらいでしょう。  ということで、今回は信長の負け戦と言われているものを列挙したいと思います。  主な負け戦と言われているものは以下のようになりますが、その前に織田信長の初陣のことについて少し記しておきたいと思います。  信長の初... ...続きを見る

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2016/02/24 12:16
織田信長の残酷非道の話
織田信長の残酷非道の話  新年初めての投稿です。今後ともよろしくお願いします。  ミスもょこチョコありますが大目に見ていただきたいと思います。    今まで、信長にも慈悲心があることを述べてきたが、今回は語られている「残酷」な面について少し述べたい。  歴史ファンであれば知っていることなので、詳しい方はスルーしてください。  歴史好きの方達は、信長が浅井親子の頭骨を金箔にして、杯代わりに飲み回しをしたとか、長政の母親の指を数日かけて一本一本切断したとか伝わっていることを知っていると思う。  信長の残虐非道な... ...続きを見る

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2016/01/17 11:57
信長は信仰心何てなかったのか?
 信長を語るとき、必ず出てくるのが比叡山での焼き討ちによる僧侶の殺戮、高野山や奈良での寺院の破壊の事であろう。  信長は特に一向宗への憎悪が計り知れない所があるように見受けられる。  それと、二条城の建設時、京の石仏などを片っ端から引き倒して石材に使っている。  これらの事を考えると、当時の人々もそうだが、後の専門家を含めて「信長は神仏も恐れない異人」だと恐れられた節がある。  しかし、信長は全ての宗教を否定していたわけではないようなのだ。  仏教そのものを排除したり攻撃はしていない。... ...続きを見る

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2015/12/28 12:02
信長&義元「桶狭間の戦い」・その三
 義元が休息しているという情報を得た信長は、小踊りせんばかりに喜んだことは想像できる。  だって、義元は2万5千人、自分達はたったの3千人た。  まともに向かって戦っても勝てる道理は全く無いわけだから、この機を千載一遇ととらえたことであろう。  だから信長は、情報を得ると、時をおかず直ちに「桶狭間」を目指した。  織田方が田楽狭間の後方にある太子ケ根に達しようとしたとき、突如稲妻が走り大雨が降り始めたという。  この雨は約30分で止んだと云われているが、降り止むと同時に信長は全兵に突撃... ...続きを見る

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2015/12/06 09:38
信長&義元〜「桶狭間の戦い」・その二
信長&義元〜「桶狭間の戦い」・その二  「敦盛」の一節を謡、舞う事三度繰り返した信長は愛馬に跨り一騎だけで清洲城を駆け出しだ。  この時従ったのは、岩村重休、長谷川好秀、佐脇藤八、山口弘寄、加藤弥三郎の五騎だった。  辰の刻の「五つ」(午前8時頃)ころ熱田神宮に到着したのだが、この時の兵数は約200人に増えていたという。  信長は願文を納めて戦勝を祈願している。  説によるとこの時、社殿の奥から白鷺が飛び出したので、信長は「この戦さ、勝利は間違いなしッ」と叫び、兵の士気を高めたとなっているが・・・どうもこれは創作だろうという... ...続きを見る

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2015/11/21 08:28
信長&義元〜「桶狭間の戦い」・その一
信長&義元〜「桶狭間の戦い」・その一  前回、桶狭間の戦いについて述べたのだが、今回はもう少し詳しく述べてみたい。  とは言っても信長を語るとき、必ず出てくるのが「桶狭間の戦い」で、歴史ファンであれば知らない者はいないだろう。  まず今川義元のことなのだが、義元ぱ天下取りのため日ごろから上洛することを近臣の者たちには伝えていたという。  それでも中々決断が付かなかったようなのだが、永禄3年(1560)5月12日に出立するのだ。  義元は、遠江(現静岡県中央部)と三河(現愛知県東部)を領地に持つ太守なのだが、兵約2万5千人を引... ...続きを見る

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2015/11/18 10:12
織田信長は病気はしなかった?
織田信長は病気はしなかった?  信長の肖像画を見ると小柄でやせ細り、色白の一見美男子に見える。  乱世の戦国時代で、天下統一を果たす寸前まで上り詰めた戦国武将にはハッキリ言って見えない。  だが体の方は健康だったようである。  『信長公記』にも病気らしい病気をしたという記述はない。  敢えて云えば、鼻部分にできた「面疔(めんちょう)」位のものだろう。    「面疔」というのは、細菌感染症の一種といわれ、毛嚢炎(疔)が顔面(特に目や鼻の周辺)にできたものであるらしい。  黄色ブドウ球菌の感染によって起こるもので、... ...続きを見る

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2015/10/30 09:25
織田信長の愛唱歌は「人生哲学」
織田信長の愛唱歌は「人生哲学」  「人間50年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり、ひとたび生を得て滅せぬ者のあるべきか」・・・これは余りにも有名な詩(うた)である。  幸若舞の「敦盛」で信長の愛唱歌でもある。  信長は、この部分が特に好きで、いつも口ずさんでいたとも伝わっている。  「人間50年、天界の長寿に比べれば人間の一生など夢か幻のように一瞬で消え去るものだ。どうせ人間は一度は死んでいくのだから」・・・何と虚無的で無情感な考えだろうか?  時は戦国時代だ。このような感情を持っていなければ生き残っていけなか... ...続きを見る

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2015/10/26 11:40
寧々への手紙で信長の優しさを知る
寧々への手紙で信長の優しさを知る  もう皆さんご存じですよネ。  秀吉の女癖の悪さに、信長に愚痴ったのが「寧々」である。  その寧々に対し信長が手紙を出して窘(たしな)めたりしている。  まずその手紙を一読願いたい。 ...続きを見る

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2015/10/11 08:00
戦場で一節謡って気合を入れ、出陣した信長
戦場で一節謡って気合を入れ、出陣した信長  前回は、文武に渡って知識を持っていた信長についてUPしたが、引き続き信長のことを披露したい。  永禄11年(1586)年、信長は足利義昭を奉じて上洛し将軍職につけた。  数日後岐阜に帰るのだが、この動向をジィッと見ていたのが「三好長逸」、「三好政康」「三好友通」の三人である。  この三人、「三好三人衆」と呼ばれているので存じだと思います。  信長が岐阜に帰国したのを見計らって、この三人衆が翌永禄12年の初頭、義昭を捕えて「本圀寺」に幽閉してしまったのだ。  この報を聞いた信長は激怒し... ...続きを見る

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2015/09/28 11:40
信長も歌の心得を持っていたという話
 約1ケ月間ご無沙汰していました。  久しぶりと云う事で、今迄「名言集」と題して述べてきたのを少し離れたいと思います。  織田信長の話題には変わりないのですが、我々現代人は信長の事についての印象は、武道まっしぐらで、こうと決めたら後に引かない気性の激しい武将だとの意識があると思います。  その通りだと思いますが、反面心優しい面も持ち、文武に渡って幅広い知識も兼ね備えていたようです。    若い時から織田家というキチンとした武家の出にも関わらず、風体には気を配らずにやりたい放題の事をして... ...続きを見る

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2015/09/24 10:16
信長の名言・Part5(であるか他)
〇 であるか   短いが有名な言葉である。   この言葉は信長が、舅・斉藤道三に初めて対面した時だとされている。   その場面は『信長公記』に記されている。   当時の戦国時代、各大名は盛んに政略結婚を行っていた。   勿論信長の父信秀も同様で、隣国の美濃・斉藤道三との関係を友好なものに  しようと動いていた。   その一つが、信長と道三の娘を夫婦にすることだった。   結婚した後、信長は舅・道三と初めて対面することになった。   この時信長は、だらしない服装で面会場所に到着す... ...続きを見る

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2015/08/29 17:43
信長の名言・Part4(小さいからといって侮るな・・・)
 奇人、変人と見られていた信長。   子供の時は「うつけ者」と云われ、家来衆からもそういった目で見られていたという信長。  しかし、名言と云われているモノの中には非凡な面も見せている。  そして、幼くとも地方大名の嫡男としての素養も見せつけている。  その中の一つに 〇 小さい蛇だからといって侮るな    信長が幼い時、城の庭で遊んでいて小さな蛇を見つけた。   信長はこの蛇を掴んで空中で振り回し、家来衆に「こういった行為をお前たち  は勇気があると思うか」と聞いたという。  ... ...続きを見る

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2015/08/21 12:09
「願わくば、我に七難八苦を与え給え」、山中鹿之助
「願わくば、我に七難八苦を与え給え」、山中鹿之助  名将の名言というものは余りにも知れ渡っているのか、覗いてくれる方が少ないようだ。  そこで今回、閑話休題ということで標題についてUPしたい思う。  でも、これまたあまりにも有名な話なので気が引けるのだが・・・・  山中鹿之助幸盛という武将は、出雲の尼子十勇士の中で筆頭に挙げられている豪傑だ。  豪傑と言っても残された絵を見ると「豪傑」という面影は見たらないほどの美男子だ。(写真参照)  彼、鹿之助が21歳のとき尼子氏は毛利元就によって滅ぼされてしまう。  それ以来流浪をするのだが、... ...続きを見る

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2015/08/03 15:24
信長の名言・Part3(俺の方に足を向けるな・・・)
 信長は神仏を信じなかったようなのだが、豪胆な面もあり繊細な面も持ち合わせている両極端な武将だろうと思う。  これは、あくまでも小生の推測なので気にしないで頂きたい。  それは、加賀越前等北陸地方を平定し、家臣の柴田勝家に任せ、その管理について実に細かいところまで指図していることからの想像だ。  信長の家訓には決まったものは無いようで、その時その時の思いつきで発しているようなのだ。  柴田勝家にも「掟書」なる者を出しているのだが、その中には実に細かいところまで指図している。  つぎがそ... ...続きを見る

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2015/07/04 13:30
織田信長の名言・Part2(家康と同盟の時の言葉)
織田信長の名言・Part2(家康と同盟の時の言葉)  前回は幸若「敦盛」を愛したことを述べたが、信長は次のようなことを云っている。 〇 人間の50年の生涯は儚いものだ。死なない者は存在しない。   戦国時代に生きる武将ならではの言葉であろう。   信長は常に死を覚悟していたと感じさせる言葉なのだ。 〇 先車の覆るを見て、後車の戒めとする  永禄3年(1560)に「桶狭間の戦い」で義元を討ち取ったことで、一躍時の人として有名になった。  そして、一気に戦国の渦中に飛び込むことになる信長。  その戦いの後、間もなく信長は徳川家康と同盟を... ...続きを見る

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2015/06/11 11:47
織田信長名言集〜「人生50年・・・」
 今回から織田信長の名言を取り上げたいと思う。  あまりにも有名な武将なので良く知っておられる方はスルーしていただいて結構です。  ただし、今回は信長の名言ではありません。  信長と切っても切れない幸若の舞曲『敦盛』のことです。   『人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。』  というものだが、信長が愛し、決断する時には舞ながらよく謡っていたという。  信長は、物心ついていた時から「人間50年」と決めていたようだという。  こういった... ...続きを見る

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2015/06/08 10:40
上杉謙信名言集・Part4
上杉謙信名言集・Part4  前回の続編ですが 〇 我は兵を以て戦ひを決せん。塩を以て敵を屈せしむることをせじ 〇 卑劣は末代まで武門の笑の種  Part3でものべたように、謙信は「誠実」「律儀」「儀礼」を重んじた武将であると伝わっている。  つまり義侠心の熱い武将なのだ。  十六ケ条として残る家訓にもそれが表れているのだが、実は「春日山城の壁書」にも如実に表れていたという。  その一部を紹介すると  『運は天にあり。鎧は胸に有り。手柄は足に有り。いつも敵を掌にして合戦すべし。疵付くこともなし。死なんと戦えば... ...続きを見る

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2015/05/29 13:46
上杉謙信の名言〜Part3
 part2で述べたのだが、もう少し付け足すと「上杉謙信公の名言(上杉家家訓十六ケ条)」には次のようなものがあるのだ。(一部重複) 一、心に物なき時は心広く体泰なり 一、心に我儘なき時は愛敬失わず 一、心に欲なき時は義理を行う 一、心に私なき時は疑うことなし 一、心に驕りなき時は人を教う 一、心に誤りなき時は人を畏れず 一、心に邪見なき時は人を育つる 一、心に貪りなき時は人に諂うことなし 一、心に怒りなき時は言葉和らかなり 一、心に堪忍ある時は事を調う 一、心に曇りなき時は... ...続きを見る

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2015/05/24 11:53
戦国武将の名言〜上杉謙信・Part2
 ○ あゝ、名大将を殺したり    前回も述べたのだが、謙信は信玄とは好敵手の間柄である。    そして謙信は義理人情にも厚い武将だったことも良く知られている。    そのようなことで謙信は一度請け負った事柄については、トコトン義理   を全うすることを心掛けていたらしい。    その好敵手同士が、川中島で5度も戦っていることも良く知られている。    その中でも4回目の戦いが一番の激戦であった。    ここで、「名言」を少し離れて、この4回目の戦いに触れてみたい。    この戦... ...続きを見る

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2015/05/16 15:00
上杉謙信の名言・格言
 前回まで武田信玄の名言についてUPしてきたが、今回からその信玄の好敵手「上杉謙信」の名言をUPしていきたい。  信玄と比較される謙信。  信玄は、軍略、戦術を決める時、諸将の意見を聞くことが多かったという。  対して謙信は、潔癖症で無欲であるが、物事を決める時は独断でやることが多かったという。  好対照の二人なのだが、歴史ファンにはこれが面白いのである。  そして謙信は、物事を決める時春日山城に造っていた「毘沙門童」こ籠って祈り、採決を下していたとも云う。  そういう謙信だから、戦... ...続きを見る

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2015/05/11 09:17
武田信玄の少年時代の逸話
 今まで、武田信玄の名言としてPart6までUPしてきたのだが、今回、閑話休題ではないが信玄が少年時代のころの逸話を述べていきたい。  勿論、歴史好きの皆さんはご存じだと思いますが、そこのところは御了解を得たいと思います。  こと、英雄的な人物ということになると、伝説的な逸話が数多くあるし、信玄もその一人であろう。  信玄がまだ「太郎」と名乗っていた13歳の頃の話だ。  そのころの2月のある日、太郎(信玄)は鷹狩に近臣を伴って出発したという。目的地は水鳥が多数集まってくる沼地であったとい... ...続きを見る

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2015/04/22 12:23
戦国武将の名言集〜武田信玄Part6
○ 働く者には相方をつけることが大切だ     信玄は云う。「人間の能力は決して同じではない。性格も違うし、長所もあれば   短所もある。そこで長所と短所をよくよく見抜いたうえで、甲と乙、乙と丙という   ように相方として組み合わせることが大切になってくるのだ。こうすることによっ   て、お互い相方の長所を学び、短所を改めるという切磋琢磨が生まれてくるの   だ」と・・・・信玄はこれを実践している。    無口な者にはお喋りのものを組ませ、短気な者には気の長い者を組み合わせ、   ... ...続きを見る

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2015/04/13 13:32
戦国武将名言集〜武田信玄Part5
〇 大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することが、最も重要である。 ...続きを見る

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2015/03/28 15:49
戦国武将名言集〜Part3
○ もう一押しこそ慎重になれ。   これはもうことばのとおりだ。 ○ 負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家の亡ぶるを、人みな天命と言う。   それがしに於いては天命とは思はず、みな仕様の悪しきが故と思うなり。   負けることのない戦に負け、亡ぶことのない家が亡ぶのを、人はみな天命と言っ   ている。    自分は天命とは思わず、みなそのやり方が悪いためであると思う。    つねづねやり方をよくしておれば、負けることはあるまい。   〇 我、人を使うにあらず。その業を使うにあり。 ... ...続きを見る

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2015/03/14 14:44
戦国武将の名言集〜武田信玄・part2
 戦国武将の中でも武田信玄ほど畏怖され畏敬の念で見られた武将も少ないであろう。  あの信長さえ信玄の動静には常に関心を持ち、贈り物をするなどのゴマすりもしているのだ。  後世にも、信玄公の名で格言・名言なるものが相当数残っているのだが、真偽の程はどうだろうか?  実際に信玄が口にしたのかどうかは、今となっては証明することは出来ないと思う。  前回分で信玄公の名言は終わるつもりだったのだが、周りから他にもある筈だから続けろと助言されたので、小生のメモ帳に記載されている物だけを絞ってUPした... ...続きを見る

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2015/03/13 16:23
戦国武将の名言集〜武田信玄
戦国武将の名言集〜武田信玄  今回は戦国武将の中でも超有名な武将「武田信玄」の名言について述べたいのだが、戦国歴史に興味のある方は既に知っておられることと思いますのでご理解ください。 ...続きを見る

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2015/03/09 13:43
戦国武将の名言集〜北条早雲
戦国武将の名言集〜北条早雲  戦国武将達はどのような信条をもって生きていたのだろうか?  武将たち本人も中々気づかないものと思うのだが、後世の歴史家たちは色々調べているようではある。  ということで、今回から一寸気になる名将たちの「名言集」について述べたい。  まず「北条早雲」なのだが、最初に持ってきた理由は、「戦国時代」と云われる時代には、必ずと言っていいほど、最初に出てくる武将だからである。 ...続きを見る

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2015/03/07 11:34
織田信長の子孫(男子)たち
 天下統一を目前にして、時の風雲児織田信長が、京・本能寺で明智光秀に討たれたのが天正10年(1582)のことだ。  それから433年経つ。  今日まで織田信長に関する芝居・映画、TVドラマ等は数知れないほどであろう。  信長の兄弟の事は過去にもUPしているのだが、それでは信長の子孫はと云えばあまりお目にかかったことはないと思う。  ということで、今回はその信長の子孫について、小生が調べた範囲で述べていきたいと思うのだが、ここで取り上げるのは江戸時代をも生き残った者としたい。 ...続きを見る

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2015/02/26 13:58
武田信玄の弟「武田信廉」のこと
武田信玄の弟「武田信廉」のこと  前回に続き、今回は信玄の弟「信廉(のぶかど)」のことだ。  歴史の中ではこの二人、よく対比されるのだが、対照的に生きたと評されている。    武田 信廉は、天文元年(1532年) - 天正10年3月7日(1582年3月30日)?) 戦国時代の武将である。  武田信虎の四男であり、武田信玄、武田信繁とは同腹の兄弟。幼名は孫六という。  信玄とは7歳違いだ。  後に「逍遥軒」と称しているが、こちらの方が世に知られているかもしれない。  他には、信綱とか信連ともいわれている。   ... ...続きを見る

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2015/02/19 09:09
武田信玄の弟信繁のこと
武田信玄の弟信繁のこと  前回信長のことについてUPしたのだが、そこで大チョンボして申し訳ありませんでした。  弁解になるのですが、其の時次は何をUPしようかと考えながら信玄の兄弟の事を考えていた。  そして信長の父「信秀」と、信玄の父「信虎」を混同してしまい、チェックもせずに公開を押してしまった。  まことに申し訳なかったと思っています。  今後はチェックを十分にやっていきたいと思っていますがどうなることやら・・・・ ...続きを見る

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2015/02/18 09:35
信長の「うつけ振り」を列挙・パート4
 信長の「うつけ振り」をパート1からパート3まで云ってきたのだが、今回はその信長の実態を見抜いた男・・・そうご存じの斉藤道三のことである。  信長が道三と面会した後、巷ではその「うつけ振り」は信長の演技ではなかったのか?と囁かれだすのだ。 ...続きを見る

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2015/01/22 12:29
信長の「うつけ振り」を列挙・パート3
 信長のうつけ振りでもっとも有名な伝えが父信秀の死去の際の所業だろう。  今回はそのことについて述べていくことにしたい。  その前にひと言云っておきたいのだが、、信長15歳の時結婚している。  マァ、結婚させられたという方が正しいのであろう。  その前年の天文16年(1547)に初陣しているから、一人前の武士と云うこともあって結婚しているのだ。  その相手と云うのが、皆さんご存知の美濃の斉藤道三の娘(濃姫)である。  ということは政略結婚と云う事だ。隣国と云う事もあって父信秀は道三と... ...続きを見る

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2015/01/22 12:28
信長の「うつけ振り」を列挙・パート2
 バート1で列挙したとおり「うつけ振り」も徹底していたわけで、とてもではないが「武士」の威厳などあったものではないだろう。  ましてや領主信秀の後継者なのだから、信頼しろという方が所詮無理な話だろう。  今でいえば頭の血管がブッツリと切れていると思われても仕方があるまいし、陰で「とんだうつけ者よ」と罵られても仕方はあるまい。  しかしである。信長の「うつけ振り」は云ってきたように並はずれた所業なのだが、武道にも普通人では考えも及ばないことをやっている。  ここが並みの武将とは違うし、将来... ...続きを見る

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2015/01/22 11:48
織田信長の「うつけ振り」を列挙・パート1
 今回は小説や映画でお馴染みの信長の「うつけ」の逸話を列挙したいと思う。  これはもう皆さんご存知の話なのですが、今一度述べたいと思う。 ...続きを見る

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2015/01/22 11:47
戦国時代の武将の系図なんていい加減なものだった?
 新年あけましておめでとうございます。  今年も私感を混じえた歴史をお届けしたいと思いますのでよろしくお願いします。 ...続きを見る

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2015/01/06 15:08
戦国武将吉川元春のこと
 前々回「吉川元春」のことをUPしたのだが、紙面の関係で簡略していた。  今回は続きという意味で書き残していたことについてUPしたい。    吉川元春勇猛な武将として有名だと思うが、研鑚(けんさん)する姿も見せている。  それは出雲の尼子氏を攻めた時、「太平記」を陣中で読んでいたと記録に残っているからだといわれているのだ。  勇猛なところもあり繊細なところもある武将が吉川元春という専門家も多いという。    その吉川元春が新庄局との間に授かったのが「吉川広家(経言・つねこと)」であ... ...続きを見る

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2014/12/24 09:46
戦国武将小早川隆景のこと
 前回は毛利元就の次男「吉川元春」のことをUPしたが、今回は三男「小早川隆景」について簡記したいと思う。  隆景は、天文2年(1533)、毛利元就と妙玖夫人の三男として生まれている。幼名は徳寿丸である。 ...続きを見る

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2014/12/12 09:20
戦国武将吉川元春の初陣と結婚
 戦国時代、世は乱れに乱れ自家を如何に存続させるかで家長は頭を痛めていた。  他人を100%信用するわけにはいかないので、どうしても血縁関係を頼らざるを得ない。  それでも骨肉の争いは起きるわけで致し方の無いことでもあったし、そういう時代でもあったのだ。  マア、これは現代でも当てはまることなのであまり批判はできないであろうが・・・・ ...続きを見る

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2014/12/03 09:29
「ホトトギス」で表す3傑武将
 戦国時代には大勢の武将達がいたのだが、その中でも「織田信長」「豊臣秀吉」徳川家康」は3大英雄と云われている。  北条早雲、武田信玄、上杉謙信等々比類なき武将は大勢いるのだが、天下を統一した秀吉や家康、統一までの御膳立てをした信長については戦国史に燦然と輝いている。  信長は苛烈な武将と酷評されるのだが、天下統一に向けて内向きの対応であったなら天下はならなかったことは断言できるのだ。  信長の苛烈さは時代がそうさせたものと思う。  よく言われる比叡山焼き討ちのことだ。  老若男女約30... ...続きを見る

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2014/11/26 09:44
織田信長の葬儀・・・棺に入っていたモノは?
 天正10年(1582)、信長の宿泊していた本能寺に攻め入り主君信長を誅した光秀。  躍起となって信長の遺骸を探し出そうとしたのだがついに発見できなかった。  山崎の戦いで光秀を打ち破った秀吉は、この時、天下を見ていたというのだが、その姿を天下に知らせるため信長の葬儀を大々的に執り行うことを決意する。  それは天正10年10月15日のことで、京都の大徳寺で行っている。  主宰者として行おうとするのだが、その当時の武将達は殆どが否定的だったという。  特に棺に入れるべき信長の遺骸が無いこ... ...続きを見る

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2014/11/12 12:10
天正大判の使い道
 豊臣秀吉が造らせたという「天正大判」。  一体どのくらいの価値があったのであろうか?  皆さんは不思議に思ったことはないだろうか?  この大判の重さは一枚165グラムだというのだ。  そして金の純度が70〜74%と高いのだ。  この大判1枚で金10両分に相当したというから大金であることは間違いはなく、当時のコメ(京の都)相場でいうと約40石購入できたということだ。  現代でコメ10キロを購入すると、10キロ4500円として180万円くらいになるだろう。  こんな大金どうやって使っ... ...続きを見る

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2014/11/07 11:59
城攻めに要する費用は?
 戦国時代、城攻めをするにはどの位の費用がかかったのであろうか?  単純に正攻法で正面から攻めるのであれば並の費用で済むのであろうが、これがトンネルを掘ったり水攻めということになると莫大な経費が掛かることは想像できるだろう。  最近映画で「忍城・のぼうの城」という映画がヒットしたことがある。    戦国末期、豊臣秀吉、石田三成勢の2万人の大軍に屈せず、たった500名の兵で抗戦、勝利した実在の武将・成田長親の姿を描く時代劇であった。  ということで、この忍城の水攻めに要した費用について述... ...続きを見る

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2014/11/02 13:57
黒田官兵衛(如水)隠居の真実
 現在NHKの大河ドラマで「軍師官兵衛」が放映されている。  ドラマそのものは陰気くさくて視聴する気も起らないのだが、そろそろ終焉に向かっているのかナァ・・・・  如水は慶長9年(1604)、京都に滞在中に亡くなっている。  その前の天正17年(1589)に如水は病気を理由に家督を嫡男「長政」に譲っている。 ...続きを見る

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2014/10/23 08:22
秀吉の女癖は秀逸
 今回は、秀吉の女癖の悪さについて記したいのだが、その前に個人的ななことを述べたいと思う。 ...続きを見る

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2014/10/21 11:59
豊臣秀吉は5度名前を変えた
 豊臣秀吉の幼名が「日吉丸」だということは良く知られているが、百姓の身が〇○丸という幼名を付ける筈は無いのだからこれは後年付けられたものだろう。  天下統一を果たしたころの秀吉は、飛ぶ鳥落とすの例え通り何でも可能と思っていた節がある。  秀吉自身、出自がもともと下賤の身であることを常日頃気にしていたようだ。  そして、自らを「日輪の子」と言って格式を上げようとしているが所詮それまでのことで、これは当時の人々は殆ど信用はしていなかったようだ。 ...続きを見る

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2014/10/13 11:25
イザ!「戦」ということになると色々考えるものだ
 今回は武士がイザ出陣となると、どんな物を用意し又は考えていたかについてUPしたいと思う。  階級によって準備する物はあるわけだが、一般的なものについて述べたいと思う。  武士は、出陣となるといろんなことを想定して準備していたことは異論のないはずだ。  武器は勿論、炊事道具や食器類、勿論携行できる食料も考えていたことだろう。  身分のある武士は、弓、鉄砲、槍、指物、馬標を持つ雑兵も必要だ。  そして、その者たちを食べらす食糧や道具も必要であったろう。 ...続きを見る

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2014/10/05 15:41
秀吉の中国大返しの凄さ
 戦国歴史の中で有名な話は幾つもあるのだが、小生の頭の中では「川中島の戦い」「桶狭間の戦い」それと「中国大返し」、「賤ケ岳の合戦」である。  歴史ファンの方々もそれぞれの思いがあると思うのですか・・・・  川中島の戦いは武田信玄対上杉謙信が5度に渡って戦ったものであり、桶狭間の戦いは織田信長が世間に名を知らしめた乾坤一擲の戦い・・・というより戦国歴史を変えた戦いであろう。  「賤ケ岳の合戦」は秀吉と柴田勝家の天下取りの戦いだ。    それとは別に「中国大返し」は直接の戦いではないのだが... ...続きを見る

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2014/09/23 13:43
武田信玄の兄弟姉妹
 前回は織田信長の兄弟について述べたが、今回は武田信玄の兄弟ということで進めたい。  戦国武将の中での武田信玄は、今風に云えば「超有名」だと云っても過言ではあるまい。  川中島での上杉謙信との5度の戦いはいつの世になっても語られる戦でもある。  信玄は、父信虎と大井夫人との間に生まれているのだが、他に7人の弟、2人の姉、6人の妹がいる。  全て父信虎と大井夫人との間の兄弟姉妹ではないのだが、明確な記録が無い。  史料に出てくる名前だけが先の兄弟姉妹で他に相当数の兄弟姉妹がいたと思うのだ... ...続きを見る

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2014/09/03 16:56
信長の兄弟・織田長益(有楽斎)
 前回からの続きで、今回は信長の弟「織田長益」について述べたい。  初めに言っておくが、戦国時代、この男ほど要領良く立ち回った男も珍しいのでは?と思う  通称は源五郎といっていたのだが、信長が「本能寺」で死んだとき36歳であったのだ。  そして、信長の嫡男「信忠」とともに宿舎の「妙覚寺」にいた。  明智光秀の謀反を知って「二条城」に移り、ここで明智軍の猛攻撃を受けている。  しばし戦うのだが衆寡敵せずの例え通り形勢不利となり、信忠は潔く腹を切って果てるのだ。  信長の末弟「長利」もこ... ...続きを見る

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2014/08/25 17:24
織田信長の兄弟の軌跡
 天正10年(1582)、京都・本能寺に宿泊中の信長が明智光秀に襲撃され自決した時の年齢は49歳であった。  現在からすれば若死なのだが、戦国時代としては年相応といってもいいのだろう。  確かに秀吉や家康と比較すれば若くして亡くなっているのは紛れもない事実である。  信長には12人の兄弟がいるのだが、長生きしているのはたった2人しかいないのだ。  そこで今回は信長の兄弟について記してみたい。 ...続きを見る

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2014/08/23 08:33
参勤交代に費消した金数はどのくらい?
 江戸時代の参勤交代の目的は、各藩の財政が潤って謀反を起こさないように浪費させることなのだが、藩にとってはこれほど無駄な浪費もないと考えたとしても仕方あるまい。  しかし、幕府という巨大な命令者では逆らう事も出来ず、従う事しかできなかった。  なにしろ、いかに小さな藩でも格式通りやるとなると、共揃いは100人は必要だったからさぞ大変であったろうと推測できる。  大藩ともなれば1000人を超す人数を仕立てなければならないのだから金がいくらあっても足りない筈だろう。    そこで江戸から最... ...続きを見る

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2014/08/04 16:57
戦国時代に伝来した火縄銃の射程距離は?
 火縄銃は、天文12年(1543)に種子島に漂着したポルトガル船によって伝わっている。  その30年後には織田信長の鉄砲隊が戦場で活躍しているから、伝播の勢いは凄まじいものであったことが分かる。  ということは日本の歴史上の出来事が塗り替わることになるのだ。  それまでの戦いというものは、武士同士の一騎打ちが主流だから、遠方から放たれた小さな鉄砲玉がいかに威力があったかということだ。  しかし、現代から考えればまだ幼稚さはあったのだが、それでも当時の火縄銃は推定約700m飛んだというから... ...続きを見る

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2014/08/02 17:57
「太閤記」などの史記物は江戸時代に入ってから
 現在でも豊臣秀吉の人気は強い。  徳川家は秀吉に関するモノは否定したかったらしいのだが、どっこい庶民の中では密かな人気を博していたらしい。  徳川方にとっては、敵である豊臣家に人気の出るのが気に食わないため、この種の本は幾度も発禁にしているのだが、庶民にとっては関係ないとばかり密かに出回っていたらしい。    秀吉自身は、大村由己に命じて『天正記』を著させ、これが最も古い秀吉の一代記であると考えられている。  そして、秀吉の死後太田牛一の『大かうさまくんきのうち(太閤軍記)』、川角三... ...続きを見る

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2014/07/28 14:50
秀吉の「刀狩」の方法は一種のペテン
 豊臣秀吉が天下統一を果たしたのは天正14年(1886)12月に、朝廷から「太政大臣」をを任ぜられ、「豊臣姓」を賜ったときということらしいのだが、小生は、翌年の天正15年(1587)島津義久が降伏した時だと思う?  でも、これで世の中が安定したとは秀吉も思っていなかったであろう。  その証が「刀狩」であろう。  この時代の百姓と云うものは、並みの百姓ではないのだ。  普段は百姓仕事をしているが、イザ戦となると戦場に駆り出されて戦う・・・いわば準プロ戦士というわけで気性も激しかったものと推... ...続きを見る

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2014/07/19 11:57
幻の「安土城」
 天正4年(1576)1月、織田信長が滋賀県の琵琶湖の畔に新城を築き始めた。  云われるところの「安土城」だ。  信長が自分の力を天下に誇示するために、精魂を傾けて建てた名城なのだが・・・勿論現代人はその姿を見たことはないわけで、模型等でその姿を知ることしかできない。  この城は、城主信長と同じく短命で終わっている。  安土城は創建されて僅か3年で炎上し、この世から姿を消しているが遺構は残っており、密かな「安土城」ブームになっているともいう。  この炎上焼失なのだが、皮肉にも織田軍の手... ...続きを見る

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2014/07/10 11:43
江戸時代の参勤交代、大名行列がすれ違ったら?
 今回は戦国時代を離れて江戸時代のことを述べたい。  現在、「超高速!参勤交代」という映画が公開されている。  この映画は、宣伝文によると「優秀な映画向けの脚本に与えられる城戸賞に輝き、小説化されるやベストセラーとなった土橋章宏の同名作を映画化したコミカルな時代ドラマ。幕府から無理難題を押しつけられた小藩の藩主が藩と領民を守るため、知恵を絞って、逆境に立ち向かっていくさまが描かれる。藩主を佐々木蔵之介が務めるほか、個性派俳優が多数顔を揃えている。」と謳っている。 ...続きを見る

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2014/07/04 09:52
徳川家康の女性選びは実用型
 今まで、信長と秀吉の好みの女性について述べてきたが、次は徳川家康の場合について述べたい。  前回の秀吉と比べると家康は、下級武士や町人の娘が多いことに気付く。  つまり身分の低い女性たちをズラリと並べているのだ。  伝えるところの側室15人の内、3人が元使用人なのだ。  早く言えば自分の身近にいる女性をちょいとつまんだというのが正解かもしれない。  そして、5人が後家なのだ。  美人は少なく、俗に言う女中顔が多かったという。  女中顔というのはどんな顔かというとはっきりしないのだ... ...続きを見る

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2014/06/27 09:41
豊臣秀吉の好みの女性は身分ある人?
 英雄色を好むというのだが、秀吉もその一人だろう。  信長も女性との戦い?には相当時間を割いているようだが、秀吉も好き者には違いないと思う。  秀吉は実子に恵まれない武将でもあったから、子孫を残したいという気持ちは人一倍あった筈だ。  だから、秀吉は、子作りのことが頭から離れなかったのでは?と推察したくなるほど手当たり次第手を出している。  家康も子作りということに神経を使っていた節があるのだが、家康の場合、生娘にはこだわっていなかったといわれている。  一度出産の経験がある女性は、間... ...続きを見る

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2014/06/25 09:36
子づくりに精を出した織田信長
 戦国時代の結婚というものは大概が政略結婚といっても過言ではない。  同盟関係を強化するという方法では、一番の早道だからだ。  そして、政略結婚で嫁いでくる女性は割り切った考え方をしていたものと推察される。  その理由は、当時の社会での「結婚」は、重要な役割を持っていたからだ。  戦国時代としては、一個人の思惑など関係なかったと断言できる。  その証は、政略結婚で嫁いだ女性は、忠節を裏付けるための人質ということをわきまえていたからに他ならないだろう。  武士の娘はそのようなものと教育... ...続きを見る

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2014/06/23 09:26
織田信長の声は「甲高かった」
 前回は、信長の「馬揃え」について記したのだが、この馬揃えでは山内一豊の話や、信長の甲高い声に驚いたとの記録もある。  でも実際はどうだったのか・・・ということになると、今となっては推測するしかない。  しかし、山内一豊の妻「千代」の内助の功の話は、後世の創作と云う。  そのわけは、「馬揃え」の史料はあるが一豊が名馬を持っていたとの記述は無いからだという。  後年伝わる話としての内容は次のとおりである。 ...続きを見る

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2014/06/17 10:12
織田信長の「馬揃え」
 織田信長は天下統一前に、本能寺で明智光秀に殺されるのだが、信長の性格は好き嫌いがはっきりしているということだろう。  戦国時代でも こんな武将は少ないであろうと思われる。  歴史ファンの中にも好きと嫌いで分けると五分五分ではないかと云われるぐらいだ。  しかし、信長ほど普通の人間では考えも及ばないことを平気でやった武将はいないのでは・・・と思う。  (信長は、松永久秀には及ばないと揶揄しているが・・・) ...続きを見る

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2014/06/13 09:39
戦国時代の戦功行賞
 戦国時代、家臣を束ねて戦に勤しんでいた武将達は、家臣の戦功に報いてやることを常日頃から考えていたようである。  自分の家臣が合戦の際に戦功をあげているにも関わらず、知らん振りをしていたのでは家臣が離れていくのは理の当然であろう。 ...続きを見る

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2014/06/06 13:14
城攻めの方法
 「城」とは・・・言うまでもなく武将やその家臣が寝起きする生活の場だということ。  そして、その支配している領地の行政を仕切る行政機関でもある。  しかし、当然ではあるが防衛拠点であることは揺るがないのだ。  そして、一旦攻め込まれたりすると守る側として必死に抵抗することになる。  だから「城攻め」ということになると、攻める側は大軍で仕掛けるということになるのだが、智将と云われる大将は極力「城攻め」を避けることを選ぶ。  それでも「城攻め」をやらねばならないことは言わなくとも分かる筈だ... ...続きを見る

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2014/05/30 09:28
豊臣秀吉の美談?伝説
 英雄といわれる人物には、それ相当の美談なり伝説というものがある。  伝説と云うものは美談?と云われるような逸話が、時間が経過して語り継がれることにより伝説になるといわれている。  そんな中、秀吉もまた例外ではなく数々の伝説が語り継がれている。    それは秀吉の下積み生活の忠勤振りを語るには、もってこいの題材として歴史作家に重宝がられているのだ。  その一つで有名なのが長短槍の逸話だろう。  織田家の槍指南役だった大沢主水が「短い槍の方が長槍よりは強い」と主張するのを、「否、長槍の... ...続きを見る

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2014/05/16 14:02
豊臣秀吉の恩返し
 豊臣秀吉といえば百姓から成り上がって太閤様になった歴代の大出世男で、日本人にとってはまさに英雄であろう。  小生も子供のころからの秀吉びいきであるのだが、あくまでも天下を取るまでの秀吉が好きであってその後は好きに成れない。  その秀吉の話なのだが、中々の孝行息子であり、又恩義を忘れない男でもあったという。  母親の大政所が病に伏せったとき、秀吉は「多賀神社」に「自分の命を縮めても良いから、100日でも30日でも1日でも、母親の命を延ばして欲しい」と願文を奉納している。  その願いは通じ... ...続きを見る

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2014/05/12 10:16
ある逸話で有名になった武将佐々成政
 後世に語り継がれるほどのエピソードを残している佐々成政。 豊臣秀吉と前田利家とはそりが合わなかったともいうのだが、冬の立山連峰越えで有名な武将である。    佐々は、尾張国春日井郡比良城(現在の名古屋市西区)に拠った土豪であった。  宇多源氏佐々木氏の一族というが明確ではないとされている。  兄に政次・孫介がいたが、相次いで戦死したため、永禄3年(1560)に家督を継ぎ、比良城主となっている。 ...続きを見る

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2014/05/05 10:16
豊臣家を裏切った武将達・加藤清正
 前回の福島正則と同様、幼少のころから秀吉に可愛がられ、取り立てられた清正。  朝鮮出兵では虎退治で有名なのだが・・・賤ケ岳の戦いでは正則と同じく7本槍に一人として数えられている。  この時は近江近辺の3000千石を与えられている。 ...続きを見る

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2014/04/18 10:10
豊臣家を裏切った武将達・福島正則
 今まで豊臣(豊臣家)秀吉を裏切った武将として述べてきたのだが、どうしても納得できたようでできないのが福島正則と加藤清正である。  両者とも石田三成と共に子供の時から秀吉に可愛がられ、一国一城の主となっているのだが、後に袂を分かっている。  しかし、後年の研究者の評価では、正則も清正も裏切りとはあまり言わないのだ。  正則も清正も三成とは仲が悪かったと云われるが、三成は最後まで豊臣家に忠誠を尽くしていると小生は思うのだ。  しかし、正則と清正はそうではなかった。  三成憎しだけで家康に... ...続きを見る

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2014/04/14 15:27
豊臣家を裏切った武将〜小早川秀秋
 秀吉の養子になりながら小早川家に養子に出された秀秋は、秀吉を相当恨んでいたことは否めない。  天下分け目の合戦で突然東軍に寝返った秀秋は、後世の歴史好きにとってもやりきれない存在ではないのか?    直接に秀吉を裏切ったわけではないのだが、裏切った武将の中でも明智光秀に次いで超有名であろう。  秀秋は、天正10年(1582)、木下家定(高台院の兄)の5男として近江国の長浜に生まれている。  母は杉原家次の娘で幼名は辰之助と名乗っている。 ...続きを見る

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2014/04/07 13:37
豊臣家を裏切った武将〜片桐且元
 秀吉の信を受けていたのだが、秀吉死後豊臣家との関係がギクシャクし始め、ついに家康に奔ってしまった。  間接的に秀吉を裏切った形になったのだ。 ...続きを見る

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2014/04/01 09:47
豊臣秀吉を裏切った武将〜山路正国
 秀吉子飼いの武将ではないのだが、結果として秀吉を裏切ってしまった。 ...続きを見る

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2014/03/27 11:11
豊臣秀吉を裏切った武将〜高山右近
 秀吉を裏切った武将ということには抵抗があるのだが、今回は高山右近を取り上げたい。  右近は秀吉からの信任も厚かったのだが、依怙地な面があって追放されているのだ。  歴史に詳しい方々は良くご存じだと思うが、彼はキリシタン大名としても有名である。 ...続きを見る

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2014/03/26 12:22
豊臣秀吉を裏切った武将〜木村常陸介
 前回は豊臣秀次について述べたのだが、彼は裏切ったというより秀吉に弾かれたのだ。  秀頼の誕生で邪魔者になったため秀吉に難癖をつけられて誅されたのである。(あくまでも小生の推測なのであしからず)  ということで今回はその秀次の側近として仕えていた木村常陸介について述べたい。  彼は、秀次が死んだ(殺された?)ため自分も同様に誅されると考えていたが、やはり自害を命ぜられ粛々と果てている。    彼、常陸介は、木村定重の子として生まれている。  天正11年(1583年)、父の死去により家... ...続きを見る

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2014/03/22 09:13
豊臣秀吉を裏切った武将〜豊臣秀次
 秀吉ほど後継者選びに苦労した武将はいない。  正室の寧々との間には子供がおらず、側室との間にも子宝には恵まれていない。  秀吉が40歳位のとき子供をつくるのはあきらめた節があるというがこれも定かではないという。  というのも、それ以降にも数多くの側室をはべらしているからだ。  実子を半分諦めた秀吉は、後継者にするつもりで信長の四男・秀勝を養子にしている。  ところが秀吉には子運がなかったのか、秀勝はすぐに死んでしまうのだ。  次に秀吉は、姉・ともの子供を養子にし、秀勝と名付けるもこ... ...続きを見る

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2014/03/19 12:34
家臣に裏切られた織田信長〜パート4・明智光秀
 織田信長を裏切った家臣としてはこの男・明智光秀を外すことはできない。  研究者がさまざまに謀反の因を語っているが、どれもこれも確証はなく闇の中だ。  真相は光秀だけということになるが・・・今となっては詮無いことだろう。  信長は、浪人だった光秀を家臣として召し抱えるのだが、その出世ということになると目を見張るほどのものがある。  それほど光秀の才能をかっていたということなのだろう。 ...続きを見る

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2014/03/17 16:02
戦国時代身内や家臣に裏切られた武将織田信長〜パート3
 今回は、今大河ドラマで放映されている「黒田官兵衛」に出てくる荒木村重について記したい。  この荒木村重ほど、謀反振りを後世に示した武将は他にはいないのではないのかと思うのだが・・・  しかし、この村重、悪運が強いのか生き延びてそれなりに楽しんでいるようにも見える・・・・  〇 荒木村重    信長に信任され、一豪族から摂津伊丹の有岡城主になっている。    以下BIGLOBE百科辞典では    天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重    が有岡城(... ...続きを見る

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2014/03/14 12:21
戦国時代、身内や家臣に裏切られた武将〜織田信長パート2
 前回に続き、織田信長を裏切った武将のパート2。 ...続きを見る

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2014/03/10 10:05
戦国時代、身内や家臣に裏切られた武将〜織田信長パート1
 戦国時代は下剋上の時代でもある。  武将達はそれそれぞれ身内の者がおり家臣もいるので守っていかないといけないことは言うまでもないのだが、それでも裏切られることがある。  それは、裏切る武将達にも野心があるからに他ならないであろう。  これは現代でも通じることなので、当然といえば当然なのだろう。 ...続きを見る

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2014/03/08 14:59
戦国時代、「ナァナァ」の戦がつい本気になった話
 戦国時代の戦は全て真剣(本気)にやっていたと思っていると大間違いで、馴れ合いのつもりがつい本気で戦ったということもあったのだ。  誰しも、被害や損失が少ないにこしたことはないわけで、できれば被害を受けても最小にと思うのが本音だろう。  そこで今日は、馴れ合いのつもりがつい本気の戦に発展した事例をUPしたい。 ...続きを見る

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2014/02/25 10:04
室町幕府最後の将軍足利義昭のこと
 室町幕府といわれているのは初代足利尊氏から数えて15代目義昭までであることは承知のとおりである。  最後の将軍義昭は、12代義晴の子で、13代将軍義輝の弟だ。  義昭は、奈良興福寺一乗院門跡となって覚慶と称していたのだが、永禄8年(1565)、兄の義輝が三好三人衆や松永久秀に殺されてしまう。  ここから人生が大きく揺るぐことになるのだ。  覚慶は奈良を脱出して還俗し、「義昭」と名乗り、越前朝倉氏を頼ることになる。  ということは、将軍職に色気を出したということになるのだが・・・・・。... ...続きを見る

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2014/02/12 08:32
朝倉義景の死に様
 織田信長に滅ぼされたのだが、あまりにも凡庸の武将で人気はほとんどないようだ。 ...続きを見る

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2014/02/04 10:02
三大梟雄と云われる松永久秀の死に様
 松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代の武将なのだが、将軍を殺したり、東大寺を焼いたり、壮烈な死に様をしたことで知られている。  大和国の戦国大名なのだが、官位を合わせた松永弾正(まつなが だんじょう)の別名でも知られている。  出身地は山城国とも播磨国ともいわれるが定かではないらしい。  父母は不明で、弟に長頼、嫡男に久通、養子に永種(貞徳の父)がいたという。 ...続きを見る

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2014/01/28 10:32
斬り死にした足利義輝のこと
 剣豪で名高い第13代将軍足利義輝は京の二条室町御所で暗殺された。  誅殺したのはご存じ松永久秀である。  頃は永禄8年(1565)5月19日のことである。  家来筋にあたる久秀なのだが、かねてから専横振りに手を妬いていた義輝は、密かに久秀を打つべく活動していた。  しかし、この動きを敏感にも察した久秀は先手必勝とばかり口実をもうけて義輝を訪ねることにする。  この時、既に久秀軍によって御所は囲まれているのだが、万事窮した義輝は自分が剣豪と噂されるぐらいの剣の使い手としての自負もあった... ...続きを見る

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2014/01/20 10:48
信長の家臣、平手政秀のこと
 前回は丹羽長秀の死にざまについてUPしたのだが、丹羽長秀に限らず、当時の武将は自分の死に際についてどのようにしたらよいのかを考えていたのではないのか?というほど壮烈な死に方をするものが多い。  戦場での死に方もそうだが病床にあっても、自分の死に際を劇的に演出しているようだ。  マア、現代でも全くいないとは言えないのだろうが、我々にとっては理解しがたいことが多い。 ...続きを見る

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2014/01/15 15:31
秀吉を憎んで死んだ丹羽長秀のこと
 丹羽長秀というと、織田家の重臣だということはよく知られている。  そして、歴史ファンともなれば、信長亡き後の跡目相続に関する「清州会議」での役割は良く知られている。 ...続きを見る

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2014/01/06 09:52
古狸、伊達正宗のこと
 今回は、伊達正宗のことについて語りたいのだが、「正宗」は隻眼でよく知られ、そして、中々の食わせ者であることも知られている。  彼の遺訓としては数々あるらしいのだが、まずその内一般的に伝えられているものを紹介してみよう。  ...続きを見る

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2014/01/02 10:03
命を懸けた鳥居強右衛門の「大音声」
 今回は、戦国武将の悲しくも切ない武士の逸話である。  それは、落城寸前の長篠城を救った鳥居強右衛門(とりいすねえもん)のことである。 ...続きを見る

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2013/12/31 14:13
信長より秀吉に従った竹中半兵衛のこと
 今回は、秀吉の参謀で「二兵衛」と呼ばれた竹中半兵衛について語りたい。  永禄10年(1567年)、織田信長の侵攻により斎藤氏は滅亡した。  すると信長は、浪人していた竹中重治(半兵衛)を自分の家臣として登用したいと考え、美濃攻めで頭角を現していた木下秀吉(後の豊臣秀吉)に勧誘を命じた。  秀吉は「三顧の礼」で重治を誘ったのだが重治はこのとき、秀吉の天性の才能を見抜き、信長に直接仕えることは拒絶したが、秀吉の家臣となることを了承したとされる。  ただし、この逸話も後世の創作の色合いが強く... ...続きを見る

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2013/12/30 14:51
秀吉が最も恐れた黒田官兵衛のこと
 来年の大河ドラマは「黒田官兵衛」という。  そこで今日は、黒田如水(官兵衛)について話すのだが、豊臣秀吉が最も恐れ警戒した武将が如水なのである。  黒田如水は竹中半兵衛と並ぶ秀吉の参謀であったことは周知のとおりであろう。  豊臣秀吉の参謀で、秀吉幕下の二兵衛と云われた名参謀であった。  智将であることは周知のとおりなのだが、秀吉は官兵衛の智謀を極端に恐れていた節がある。 ...続きを見る

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2013/12/27 11:46
戦国時代、外国人から見た天皇像
 現在の天皇陛下は象徴天皇として国民から親しまれている。  では、ズッと遡って戦国時代はどうだったのだろうか?それも外国人が見た「みかど(天皇の別称)」はどうだったのであろうか? ...続きを見る

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2013/12/20 12:05
戦国時代に書かれた「日本人論」
 天正時代(1573〜1591)、厳密に云えば天正7年(1579)のことなのだが、アレッサンドロ・バリニャーニという宣教師が東インド巡察使として来日して布教活動を開始している。  日本国内では、キリスト教の布教活動をして大きな足跡を残し、約2年後に日本を離れている。  その彼なのだが、『日本布教長心得』を作って、宣教師はその地の習慣に順応しなければならないという信念を示している。  つまり、日本人を理解するための努力を示していると云えるのだ。  そして驚くのは、日本人に対する彼の洞察力の... ...続きを見る

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2013/12/19 09:34
義士の頭領大石内蔵助のこと
 年末になれば語られる「忠臣蔵」なのだが、日本人にとっては「義士」として語り継がれる存在で、その人気は今だに衰えることをしらない。  忠臣赤穂47義士として祀られているのだが、その頭領として崇められているのがご存じ大石内蔵助である。  今回は、12月ということもあって、この「大石内蔵助」について述べたい。  このブログを見ていただいている皆さんも、良くご存じの人物だと思いますが、小生の戯言として受け止めていただきたい。 ...続きを見る

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2013/12/18 09:31
徳川家を悩ませた真田昌幸のこと
 真田昌幸は父幸隆に似て、戦略・戦術に秀でた武将だと云われている。  昌幸を「表裏比興の者」と評した文書が残っている。 ...続きを見る

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2013/12/10 09:22
軍師「山本勘助」のこと
 歴史に興味ある人達は、つい最近まで「山本勘助」なる人物は架空の人物と受け止めていた。  しかし、最近になって勘助の実在と活躍を示す証拠が次々と発見され、勘助の実像が徐々に浮かび上がりつつあるという。 ...続きを見る

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2013/11/28 08:30
極悪人「松永久秀」のこと
 戦国時代に世の中を震撼とさせた男・松永久秀。  天下取り目前の織田信長が、安土城に「徳川家康」を招いて雑談をしていた時に、後世にも有名な話が出てくる。  信長が家康に紹介した人物が「松永久秀」なのだが、信長は言う「こやつは常人ではなしえないことを三つまで成し遂げた男だ」と言ったのだ。 ...続きを見る

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2013/11/16 09:10
蝮といわれた「斉藤道三」のこと
 今回は戦国武将の中でも「悪役」として出場する斉藤道三について語ることにしたい。  戦記小説では、「蝮の道三」として出場するのだが、中々本心を見せない男だとも言われ、そして、「下剋上」と言う言葉は斉藤道三にドンビシャリと当てはまり、食えない男だったとも言われているのだ。 ...続きを見る

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2013/11/13 12:00
北条早雲のこと
 小生は歴史が好きなのだが、その中でも戦国時代の武将達の生きざまに興味がある。  話出し始めて興が昂じるといつまでも喋ってしまうのでなるべく自制するようにはしているのだが・・・ついつい脱線してしまう。  といって、詳しく知っているわけではなく、あくまでも歴史作家や史料からの受け売りなのだ。 ...続きを見る

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2013/11/01 08:53
秀吉が「金ケ崎の退き口」で手柄を立てた事
 今回は、秀吉が「金ヶ崎の退き口」で手柄を立てたといわれている当時の状況について語りたい。    織田信長が足利義昭を美濃の国の立政寺に迎えたのが永禄11年(1568)7月のことだった。  信長は義昭の希望する上洛を達成するため、その供奉(ぐぶ)を承諾した。  諸将に其のことを通達したのだが、南近江の観音寺城主六角義賢がこれを拒否する構えを見せたのだ。  北近江の小谷城主浅井長政とは同盟を結んでいたのだが、六角義賢は上洛する際誠に目障りとなるため信長は、その年9月に大軍を率いて進撃する... ...続きを見る

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2013/10/26 08:24
昔の川は大量荷物の輸送手段だった
 最近は、局地的豪雨で河川の氾濫が相次ぎ被害も相当なものだ。  そうは云っても昔と比べれば、日本の主な川は殆んどがダムが建設され、また堤防工事も進んでいるので回数的には少なくなっていると思われる。 ...続きを見る

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2013/10/13 12:56
北条時頼の「倹約」の話
 前回は北条家を滅ぼした愚者の話をしたのだが、今回は「倹約」の話をしましょう。  これは、第五代執権北条時頼のことなのだが、時頼が出家して最明入道といったころの話だ。  『徒然草』に載っているのだが、ある夜更けに最明が酒を酌み交わす相手に陸奥守平宣時を呼びにやった。 ...続きを見る

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2013/10/07 18:09
北条家を滅ぼしたバカな男
 今日は、鎌倉時代に執権として権威を振るった北条氏について述べたい。  北条家には、政治家として優れた能力を発揮した者が多かったのだが、ただ一人暗愚な者がいた。  その前に、優秀な者がいたことを述べたい。  まず「時政」なのだが、時の権力者平氏を見限って流人中の源頼朝につく決断をしている。  これが北条氏発展の基礎となるのだ。 ...続きを見る

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2013/09/28 12:14
戦国時代、甲冑着用中の大小便は?
 戦国時代の合戦ということになれば、誰もが甲冑を着けていた。  言わなくとも分かるように、敵からの攻撃を受けても自分の体が傷つかないように身を護るためだ。  見ても分かるように頑丈そうで、一度身に着けると柔軟な動きなどとてもできそうにないのだ。 ...続きを見る

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2013/09/13 16:44
戦国時代の戦、傷の手入れ方法
 合戦するとなれば「傷」はつきものである。  それでは合戦場での傷の手当というものは、どんなものがものがあったのだろうか?  傷を負った兵士には、まず最初に「気付け薬」を与えている。  そして出血を止めるために手拭等の布で緊縛するのだ。そうしたうえで「洗い薬」なるもので傷を消毒するのだ。  「洗い薬」が無い場合は「焼酎」で洗うこともあったというが、相当な痛みが生じたことだろう。 ...続きを見る

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2013/09/02 11:03
秀吉に賞金を懸けられた武将・榊原康政
 徳川四天王で有名な、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直正は歴史ファンにとっては馴染みの武将である。  今回は、その中の一人榊原康政の一つの逸話について述べたい。  彼、榊原康正は、早くに徳川家康の近侍となっているのだが、幼少のころから能筆家で、周囲で評判になっていたという。 ...続きを見る

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2013/08/24 09:45
江戸時代の海運業は隆盛を極めた
 江戸時代は鎖国政策で景気が悪かったと思いがちなのだが、実はそうでもなかったのだ。  内需輸送が活発に行われ海運業は大繁盛だったというのだ。 ...続きを見る

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2013/08/07 09:20
頓智で有名な「一休」さんは嘘
 先般、民放のTV番組で「一休さん」が放映されたのだが、この一休さんは「頓智」で有名な和尚さんであることは周知のとおりである。  余談だが、この一休さんと名コンビとして登場してくるのが「新右衛門」さんなのである。  そして、この新右衛門さんの子孫が、格闘家でチャンピオンまでなった「武蔵」であることが分かったのは最近のことでビックリしたものだ。 これはNHKの番組「ファミリーヒストリー」なのだが、約800年前の「蜷川新右衛門」の子孫だといい、ドラマ「一休さん」の相方“新右衛門”のモデルだと... ...続きを見る

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2013/05/29 09:14
義経の「八艘跳び」は真実か?
 現在まで語り継がれている源義経の「八艘跳び」は真実だろうか?:  結論から言えば創作だということになる。  壇ノ浦の戦いで、平家の敗北を悟った平教経(のりつね)は、冥途の道連れにしようと、義経を目指して一人船を漕ぎ出していく。  教経は、義経に「イザ勝負せよ」と呼びかけるものの、義経はこの闘いを避けるため、重たい鎧を着たままヒラリと宙を飛んで傍らを通りかかった味方の船に乗り移ったというのだ。  『平家物語』に登場するこの逸話は、其の後に誇張されて、義経が船から船に乗り移り、逃げて行った... ...続きを見る

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2013/05/19 11:58
源頼朝の落馬死の真実
 源頼朝は、落馬したのが因で死亡したと良く語られているし、定説にもなっている。  その時、頼朝は53歳だっというのだ。  その根拠というのが、鎌倉幕府の公的記録の『吾妻鏡』の記述だという。  それによると、建久10年(1198)正月18日、家臣の妻の供養で、相模川に橋を架けたのだが、その開通式に臨席した帰りに落馬して数十日後に死亡したというのである。 ...続きを見る

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2013/05/10 08:50
戦争の話しばかりなのに「太平記」とは?
 建徳2年(1371)に完成したといわれている『太平記』のことなのだが、これは後醍醐天皇(1318〜1339)の討幕から応安(1369)ごろまでの激動の時代を扱った軍記ものである。  しかし、太平記となっているものの内容は殆ど戦乱のことばかりで、何故『太平記』かという疑問が湧いてくるほどである。 ...続きを見る

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2013/05/06 13:14
江戸時代初期の銀産出は世界一だが・・・
 江戸時代の「大久保長安」といえば、金銀の産出を飛躍的に伸ばした人物として有名である。 ...続きを見る

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2013/04/24 06:52
松平清康の人物像
 松平清康と言えば、ご存じ徳川家康の祖父である。  この清康のことについては、江戸時代の史書では英傑の人物として描かれているのだが、悲願である三河統一の一歩手前で不慮の死を遂げてしまうのだ。  天文4年(1535)のことなのだが、清康は隣国の尾張・織田信秀を攻めるため出陣した。  この陣中で、内通の流言が飛んでいた老臣の息子が、父親が成敗されると勘違いして、清康を背後から斬殺してしまった。  このことを「守山崩れ」と呼ばれているのだが、清康の死によって順調だった松平氏は、東の今川義元、西... ...続きを見る

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2013/03/06 12:15
鎌倉時代の執権政治
 今日は、鎌倉時代に良く出てくる「執権」について述べよう。  よく鎌倉執権政治とか、北条執権政治とかに使われている「執権」とは果たして何ぞや?ということなのだが、歴史学者や歴史に興味のある方々は良くご存じだと思うのだ。  しかし、この「執権」という意味分かっているようで案外分かっていない人々が多いと思う。  「執権」とは、本来「政権を握る」という意味であって、鎌倉幕府にあっては、「将軍職を補佐し、政務を統括」するということであった。  つまりそれだけ重要な役職名であったわけだ。  鎌倉... ...続きを見る

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2013/02/28 09:33
戦国時代、戦場に持参した常備薬とは
 武士たちは、戦に赴く場合いろいろな薬を持参したと云われている。  別に現在のような薬箱を持って行った訳ではなく、持っていても邪魔にならないような薬を持参していたわけだ。    この戦場用の薬については、上は主筋にあたる者から下は雑兵級の者まで、必ず持参したという。  薬といっても、そんな大袈裟なものではなく、戦闘に耐えられない病人や怪我人は後方に送られたので、薬の目的は戦闘中の息切れ、体力の衰えを防止することが第一義的なものであった。 ...続きを見る

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2013/02/20 09:51
彗星に恐れおののいたであろう人間たち
 昨日ロシア地方に「流れ星」(隕石)が落下し、1000人を超える負傷者を出した。  TVで見ると、一直線に地球に進む様子が映し出され、走っていた車両もビックリして?停車する様子が映し出されていた。  目撃した者も慌てているのが伺える場面だ。  現代人でも、これだけ驚愕する隕石落下なのだが、古来人はこのような程度ではなかったことは想像できる。 ...続きを見る

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2013/02/16 09:26
江戸時代の貨幣
 江戸時代の貨幣は非常に複雑で、現代人にとってはややこしいと云われている。  基本的には、金・銀・銅(銭)3種類があった。  〇 金貨     大判、小判等があるのだが、大判は贈答品に使われ、小判は普通に使われていた。     単位は両・分・朱である。     4朱で1分、4分で1両という四進法である。 ...続きを見る

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2013/02/12 09:24
武士のための『御成敗式目』
 御成敗式目(ごせいばいしきもく)とは、鎌倉時代に制定された武士政権のための法令(式目)のことである。 貞永元年8月10日(1232年8月27日:『吾妻鏡』)に制定されたため、貞永式目(じょうえいしきもく)ともいわれている。 ...続きを見る

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2013/02/11 09:42
北条政子の大演説
 承久3年(1221)に「承久の乱が起きるのだが、これは院の「北条氏を討て」との大号令が諸国に下ったからである。  それに対し、北条政子は御家人を説得するための大演説を行うことになる。  『承久物語』には、政子は頼朝がいかに御家人たちの生活を向上させたかを説いた。  そして、次のように津続けたという。  「このような情け深い御心を忘れ、今度は京の味方をするか、ただ今、確かに申してみよ」と結んだというのだ。 ...続きを見る

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2013/02/10 10:23
梶原景時の最期とは
 源頼朝の危機を救った武将として知られている梶原景時の最後について述べたいと思う。  源頼朝は、一生に少なく見ても2度の決定的窮地があった。  一度目は、「平治の乱」に13歳で初陣をしたときなのだが、この時敵方に捕まって殺害されそうになったのだ。  しかし、この時は清盛の継母の命乞いで伊豆に流されるだけで済んだ。 ...続きを見る

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2013/02/05 09:36
征夷大将軍でありながら幕府を開けなかった武士
 征夷大将軍のことを将軍というのだが、これは武士の頭領として幕府を開く者に与えられる称号であることは良く知られている。  しかしである。  この征夷大将軍という称号は、本来蝦夷を征伐するために臨時で置かれた役職であることはあまり知られていないようなのだ。  この役職に就いたのは「坂上田村麻呂」等が任命されている。  そしてこの役職は、9世紀初め以後中断されていたのだが、源平の戦いの最中に源義仲が短期間任命されたことがある。  その後、建久3年(1192)に源頼朝が征夷大将軍の職に就き、... ...続きを見る

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2013/01/31 09:39
鎌倉武士の戦のやり方は礼儀を尽くした?
 鎌倉時代までは、「ヤァヤァヤァ、遠くのものは音に聞け、近くば寄って目にも見よ。我こそは天下の・・・・」と言いあって戦ったのは皆さんご存知の戦う前のしきたりである。  このように名乗り合って戦う、何とも悠長な戦いに思うのだが、これも当時の武士の心得であったのだ。 ...続きを見る

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2013/01/23 09:43
鎌倉時代の「箕の手」と「縄手」道
 鎌倉幕府は、1192年(建久3年)に源頼朝が征夷大将軍に任官して始まったとされてい.る。  しかし最近の説では、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、現在では実質的な成立は1192年より前であったといわれている。 ...続きを見る

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2013/01/15 10:02
家来に強く諫言されても止めなかった「倹約」〜鷹山
 名君として名が高い「上杉鷹山」は、10歳の時日向高鍋藩から米沢に養子でやってきた。  そのころの上杉家といえば、謙信の流れをくんでいる由緒ある藩なのだが、貧困のどん底にあり四苦八苦している時でもあった。 ...続きを見る

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2013/01/09 09:51
聖徳太子は実在していなかった?
 あけましておめでとうござてます。  新年早々このような話をしては申し訳ないとは思いますが、今回は小学生でも知っている「聖徳太子」についてUPしようと思う。 ...続きを見る

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2013/01/06 08:07
吉良上野介は炭小屋には隠れていなかった
 いよいよ師走も中ごろになってきた。  この時期になると「赤穂義士」が主役となり、映画、TV、芝居等で取り上げられ、結末が分かっていながら一喜一憂することになる。 ...続きを見る

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2012/12/15 08:36
江戸時代、奉行所に看板は無かった
 TVや映画の場面で、「○○奉行所」というような看板が掲げられているが、事実とは異なるのだ。  現在の人間からすると、役所や会社の玄関には、看板が掛かって、訪れる人々を待っているのが当然のことだと思うのだが、江戸時代の風景としては間違っているのだ。 ...続きを見る

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2012/12/09 13:15
平安時代の貴族は肉食はしなかったのか
 よく言われるのが、平安時代の公家は肉食はしなかったということなのだが、実際はどうであろうか? ...続きを見る

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2012/12/05 09:32
吉野川を廻る土佐藩と徳島藩の確執
 四国の吉野川といえば、四国三郎吉野川といわれ、江戸時代に流域の開発が進んだこともあって、度々洪水を起こしている。 ...続きを見る

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2012/12/04 08:48
吉良邸に討ち入りがあった時、小林平八郎が活躍したのか?
 間もなく師走だが、この時期になると「忠臣蔵」に関する芝居・映画・TVが演じられる。 ...続きを見る

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2012/11/26 10:21
「藩」という名称の一般化は幕末
 大名の支配地や仕組みのことを「藩」と呼ぶのだが、これは中国で古くから使われていたという。  そして、この「藩」という言葉は幕末になって、やっと一般化したといわれているのだ。 ...続きを見る

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2012/11/25 21:13
楠公の唱歌
 楠正成が唱歌となっていることは、高齢者の方は良く知っておられると思う。  その唱歌は次のとおりである。  (これはご存じの文部省唱歌である。) ...続きを見る

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2012/11/12 06:28
歌舞伎役者のど根性
 歌舞伎公演中に奈落の底に転落し治療をしていた7代目市川染五郎(39)が、10月17日都内でホテルで会見し、舞台復帰を発表した。 ...続きを見る

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2012/11/07 07:04
江戸時代、朝鮮使節に大枚をはたいていた幕府
 朝鮮半島と日本は、古来から交流があったのだが(今は、竹島の問題があって微妙になりつつあるのだが・・・)、鎖国時代にも、日本と朝鮮との間には、正式な使節団が行き来していた。 ...続きを見る

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2012/10/31 10:04
江戸時代の浪人対策
 俗に「浪人」というのは、仕官していない武士のことであるが、目下失業中であるということだ。 ...続きを見る

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2012/10/08 09:12
源義経が美男子だとの証はないようだ
 TVや映画で出てくる源義経は、皆んな美男子で、時の美男スターが義経役として出演してる。  そうして、見ている誰もが義経は美男子だったと思い込んでいる節がある。 ...続きを見る

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2012/10/05 17:26
荒木又右衛門の36人斬りは嘘
 仇討といえば「曽我兄弟」「赤穂浪士」「鍵屋の辻」の仇討が日本三大仇討と呼ばれている。  その中で、「鍵屋の辻」の仇討といえば、荒木又右衛門が36人斬りしたことで有名なのだが、実際に36人斬ったかというと疑問である。 ...続きを見る

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2012/09/29 11:31
田沼意次の賄賂政治
 田沼意次といえば、即「賄賂」と回答する人は多数いると思う。  しかし、実際はどうだったのか?今では謎だ。 ...続きを見る

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2012/09/24 09:03
天明の浅間噴火
 最近、富士山が大爆発を起こしたら大災害になるだろうとTV新聞で大騒ぎしている。 ...続きを見る

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2012/09/20 06:55
異色の将軍吉宗の政策を批判した軍学者
 八代将軍徳川吉宗は、TVでお馴染みの「暴れん坊将軍」で超有名である。 ...続きを見る

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2012/09/15 11:34
江戸時代の藩での副業「反魂丹」
 江戸時代は、幕府も各藩も財政的には逼迫していた。  特に、藩にあっては年貢以外での副業で収入を上げるべく努力していたという。 ...続きを見る

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2012/09/10 09:12
江戸時代、冷たいものを食していたのか?
 9月に入って朝晩はやや気温が下がりだしたようだが、そうは云っても、日中のこの暑さには閉口するのである。 ...続きを見る

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2012/09/06 09:22
犬公方・徳川綱吉の悪政
 徳川将軍五代将軍綱吉は「犬公方」と呼ばれ、町民から嫌われた将軍である。 ...続きを見る

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2012/09/05 09:41
鉢植え大名とは
 「鉢植え大名」ということを聞いた方はおられるだろう。  これは江戸時代の学者・萩生徂徠が言い出したもので、「武士を鉢植えにする」と云い方で、大名を移封(今でいう転勤)したのだ。 ...続きを見る

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2012/09/04 06:48
元軍の敗退は「神風」?に疑問
 鎌倉時代、我が日本は二度にわたり、元に攻められている。  これが、いわゆる「元寇」(げんこう)なのだが、博多湾に浮かんでいた元の軍船は、二度とも台風によって撃退されたことになっており、この時の台風が「神風」と呼ばれているのだ。 ...続きを見る

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2012/08/04 15:37
道鏡は本当に「巨根」の持ち主だった?
 昔から「巨根」伝説といえば、奈良時代の道鏡が一番に浮かんでくる。  日本の歴史上の人物では、圧倒的に有名である。 ...続きを見る

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2012/07/31 06:47
土用の丑の日にウナギを食す由来
 今年、明日7月27日が「土用の丑の日」である。 この日、日本ではウナギを食する習慣があるのだが、近年、このウナギが品薄となって、高騰を続けているため、我々が食するのが困難になりつつある。 ...続きを見る

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2012/07/26 18:02
上杉鷹山の互助組織
 最近、都会での近所付き合いは、全く無くなっているといっても過言ではないが、お互いが助け合うという精神が廃れているのは淋しい限りである。    そこで、今回は、江戸時代互助精神を発展させた米沢藩九代藩主上杉鷹山の場合について記したい。  鷹山は、農民に五人組・十人組・一村・組合村という集団を創らせ、次のような任務を与えている。 ...続きを見る

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2012/07/24 10:35
奉行の白洲での長袴は間違い
 映画やテレビでの時代劇『遠山の金さん』・・・・。  モデルとなったのは、江戸後期に活躍した町奉行「遠山景元(かげもと)」(注・金四郎は幼名)である。 ...続きを見る

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2012/07/21 20:38
火打石一発では火はつかない
 現在は、マッチ、ライター等で簡単に火が作れる。  しかし、それらの道具が無かった江戸時代は、火を確保することは相当な努力が必要であった。 ...続きを見る

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2012/07/17 08:56
平家物語に見る大袈裟な描写
 現在、NHKの大河ドラマ「平清盛」が放送されている。  視聴率は今一らしいのだが、小生は殆んど見ることはしない。 ...続きを見る

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2012/07/10 07:09
秀吉が天皇の落胤?
 現在の歴史好きな人々で、豊臣秀吉が天皇の御落胤であると思っている人は、まず居ないのではないかと思う。  秀吉は、尾張の中村の百姓の倅から、戦国大名として成り上がり、ついには天下人にまでなった人物で、出世物語としての定番である。 ...続きを見る

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2012/07/05 09:03
秀吉は、本当に「寺」の小僧になったのか?
 秀吉が幼少のころ、寺の小僧に出されたという話がある。  本当なのだろうか?    秀吉の実父「弥右衛門」は天文12年(1543)に戦での傷が因で亡くなっている。  その時には、長男の秀吉は7歳であったが、母の「なか」(後の大政所)は生活に困ってしまった。  「なか」は、人様が勧めるままに、子供達を連れて「筑阿弥」と再婚することになる。 ...続きを見る

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2012/07/01 13:30
戦国時代、堺の町は中立公正な「自由都市」だったのか
 永禄4年(1561)に堺の町を訪れた、ポルトガルの宣教師ガスパル・ブィレラが『耶蘇会子(やそかいし)日本通信』の中で、堺を「日本でもっとも自由で平和な地」と讃え、「イタリアのベニスのように執行官によって治められ、共和国のような政治をしている」と報告している。 ...続きを見る

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2012/06/27 13:51
服部半蔵は伊賀忍者の頭領ではない
 服部半蔵といえば、徳川家康の身辺を守った伊賀忍者だと思われがちだが、実際はそうではないといわれている。  また、服部半蔵と言われているが、服部正成(まさしげ)が本当である。 ...続きを見る

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2012/06/25 19:00
関所破りをすればどのような罪?
 江戸時代の東海道・箱根の関所には「入り鉄砲に出女」という言葉があった。  箱根の関所の取調べが厳しかったという事なのだが、何故このような言葉があるのだろうか?  そしてもう一つ、関所破りした場合、どのような罪が科せられたのであろうか? ...続きを見る

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2012/06/21 09:01
豊臣秀吉の幼名「日吉丸」は全くの創作
 歴史小説や映画・TVの時代劇では、秀吉が幼き頃「日吉丸」という幼名で登場してくる。  我々も、「嘘だろう?」と言う思いが強いのだが、それでも何となく受け入れているというのが本当だろう。 ...続きを見る

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2012/06/16 09:07
鉄砲を伝えたのはポルトガル人なのか?
 ご存知のように鉄砲が伝来してからの合戦は大きく様変わりした。  そして、この鉄砲は、種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられたというのが一般的な定説となっている。 ...続きを見る

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2012/06/10 07:53
吉岡一門は宮本武蔵に倒されたから断絶した?
 宮本武蔵といえば、ご存知のように江戸初期(戦国末期?)に活躍した剣豪で知られ、二天一流の創始者で佐々木小次郎と巌流島で対決し、勝利したことでも有名である。 ...続きを見る

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2012/06/05 11:48
大坂夏の陣で千姫を助けたのは誰?
 慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」から約3ケ月後の元和元年(1615)、老獪な家康が兵16万5000人を引き連れて大坂城を包囲する。  そして、豊臣家は滅びることになるのであるが、圧倒的な軍勢を要する徳川軍の前には、豊臣軍はなすべもなく敗れ去る。 ...続きを見る

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2012/05/31 09:20
平家所縁の地を探訪(福泉坊)・その3
 通盛神社を少し後戻りします。  前回紹介した「赤旗神社」の方向に戻るのですが、途中「福泉坊」という看板がありますので直ぐ分ります。  道は狭いので十分注意してください。 ...続きを見る

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2012/05/29 09:29
平家所縁の地を探訪(通盛神社)・その2
 前回に続いて「平家谷」を探訪することにしましょう。  赤旗神社からさらに平家谷を奥の方に進みますが、車は十分通行でき心配はありません。 ...続きを見る

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2012/05/29 09:00
平家所縁(ゆかり)の地を探訪・その1
 現在、NHK大河ドラマ「平清盛」が放映されている。  人気は、兵庫県知事に「画面が汚い」と云われるほど評判は今一なのだが、広島県の「厳島神社」「呉市音戸町」はマアマアの賑わいらしい!? ...続きを見る

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2012/05/25 08:47
平清盛の言葉「平氏でなければ人では無い」の真偽?
 平安時代に実権を握っていたのが藤原道長である。  彼は「この世をば わが世と思う望月の かけたることもなしと思えば」と、この世は完全に自分のものだと云っている人物である。 ...続きを見る

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2012/04/21 07:48
源平の「富士川の戦い」、水鳥の羽音で逃げた平家、本当か?
 NHKの大河ドラマで「平清盛」をやっている。  小生は、歴史は好きなのだが、どうもこの大河ドラマというのは、殆んど見ることをしない。 ...続きを見る

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2012/04/14 09:18
武田信玄は城を築かなかったのか?
 戦国時代「風林火山」の旗印を翻らして、戦国の世を駆け巡った武田信玄。  この信玄は、一度も城を築かなかったといわれているのだが、果たしてそうであろうか? ...続きを見る

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2012/04/07 13:22
軍師・竹中半兵衛の実像
 戦国時代に興味のある者は、竹中半兵衛といえば、豊臣秀吉の“軍師”であることは直ぐ頭に浮んでくる。  それほど、戦国ファンにとっては、馴染みある名前でもある。 ...続きを見る

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2012/04/06 09:02
千姫乱行の真偽
 豊臣秀頼の妻・千姫といえば、徳川家康の孫であることは周知のとおりであるが、彼女は7歳の時、政略結婚させられたことでも良く知られている。 ...続きを見る

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2012/03/31 17:38
最初に虎退治した日本人
 最初に虎退治をした日本人といえば、加藤清正が筆頭だろうと誰もが思う。 ...続きを見る

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2012/03/29 08:28
曾呂利新左衛門の頓智話しの真偽
 曾呂利新左衛門といえば、一休さんと双璧の頓智の持主として超有名である。  彼は、豊臣秀吉のお伽衆であったことで知られているのだが、数多くの頓智話を残しているとも言われている。 ...続きを見る

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2012/03/12 09:54
太田道灌「山吹の花」の逸話を考察
 室町中期の武将である太田道灌は、江戸城を築いたということで有名であり、前々回もUPした。  このことについては、歴史に詳しい方は良くご存知だと思う。 ...続きを見る

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2012/03/05 17:58
落城した際の財宝の行方
 2年程j前にもUPしたことがあったのだが、戦国時代落城した後の財宝はどうなったのであろうか?  城主は自害か討ち死にすることになるが、家族や重臣達は後を追うのが普通であった。 ...続きを見る

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2012/03/04 07:45
太田道灌が江戸に城を築いた事由
 江戸城といえば、徳川家康が一番に浮ぶのだが、最初にこの地を根拠地としたのは、平安時代末期の武士「江戸重継」といわれている。 ...続きを見る

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2012/02/25 07:41
戦国時代、忍者が活躍したが、その情報収集法
 永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、織田信長が今川義元を討ち取るのだが、その勝利の裏には、梁田政綱の情報があったという。 ...続きを見る

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2012/02/19 12:48
戦国時代、欧州人が日本にやって来た事由
 葡萄牙(ポルトガル)人が日本に漂着したのが、天文12年(1543)のことであるが、その6年後の天文18年(1549)、西班牙(スペイン)の宣教師フランシスコ・ザビエルをはじめ、4人の西洋人が日本にやって来た。 ...続きを見る

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2012/02/15 19:28
大阪の陣での牢人募集
 関ヶ原の合戦後、徳川家康の最大の課題は、豊臣秀頼のいる大坂城をどうするかであった。 ...続きを見る

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2012/02/13 17:49
戦国武将は喫煙していたのか?
 最近は、愛煙家にとっては肩身が狭く、禁煙家も多く限られたスペースでしか喫煙できない。 ...続きを見る

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2012/02/04 18:40
加藤清正の子供の末期
 加藤清正といえば「虎退治」で有名な戦国武将である。  熊本藩主の初代が加藤清正で、豊臣秀吉の子飼で広島藩主福島正則と並んで、勇猛果敢なイメージがある。 ...続きを見る

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2012/01/28 18:53
豊臣秀吉の「ルソンの壷」の行くへ
 豊臣秀吉が関白の時代、戦国大名たちの間で「ルソンの壷」が大流行したことがあるそうだ。 ...続きを見る

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2012/01/15 09:28
関が原の合戦後に逃亡した三成のその後
 豊臣秀吉が死んだ後、天下奪取に向って動き出した徳川家康の東軍。  それに反する為に立ち上がった石田三成が統括する西軍。 ...続きを見る

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2012/01/06 06:39
何故、豊臣秀頼の墓が薩摩にあるのか
 元和元年(1615)の大坂夏の陣で、豊臣秀頼は徳川家康に敗れ、母淀殿とともに自刃する。 ...続きを見る

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2012/01/01 16:08
石田三成の身長を検証
 石田三成と言えば身長は低く、華奢な男だったといわれている。    大人物といわれる者は、身長の低い人物が結構多い。  ナポレオン、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗等である。 ...続きを見る

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2011/12/25 10:07
伊達政宗が支倉常長を欧州に派遣した理由は?
 伊達政宗が家臣支倉常長(はせくらつねなが)を伊国に派遣したということは、戦国武将の中でも異端児といわれている正宗らしい発想なのだが、それにはそれなりの理由があるのではないのか? ...続きを見る

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2011/12/24 09:22
謙信が信玄に「塩」を送ったのは本当なのか
 越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄といえば、川中島の合戦で何度も激突し、戦記好きにとってはたまらない好敵手同士である。 ...続きを見る

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2011/12/17 07:22
アスリート達のシューズが奉納されている寺を探訪
 昨日の12月9日、NHKテレビの番組で「広島県世羅町で支える駅伝チーム」を視た。 ...続きを見る

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2011/12/10 16:21
石川五右衛門の処刑を考察
 石川五右衛門といえば、豊臣秀吉をも狙った大泥棒として有名である。  安土桃山時代の大泥棒ということで、盗みを重ねた挙句に捕まり、「釜茹での刑」にされたことでも超有名である。 ...続きを見る

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2011/12/03 20:41
武田信玄の死因を探る
 武田信玄が亡くなったのは、天正元年(1573)4月12日といわれている。  この時、信玄は53歳で、現代からすると若いうちに死んでいるとなるのだが・・・。 ...続きを見る

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2011/11/18 09:18
「瓶割り柴田」の異名は作り話
 戦国時代の柴田勝家といえば織田信長の家臣で、勇猛な武将だということは良く知られている。 ...続きを見る

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2011/11/15 20:02
蜂須賀小六は野党では無い
 蜂須賀小六は、豊臣秀吉に長く仕えて武功を重ね、ついに四国阿波の国一国を与えられている人物である。 ...続きを見る

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2011/11/06 13:31
北条早雲の祖先は高級官僚
 戦国時代の武将で北条早雲といえば、一介の素浪人から腕一つで、相模・伊豆を治めた戦国大名として有名であり、下克上の典型的な武将としても知られている。 ...続きを見る

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2011/11/03 16:57
関ヶ原の合戦、小早川秀秋の寝返りで決着したが・・・
 “関ヶ原の合戦”といえば、歴史にあまり興味のない者も知っている“超有名”な戦であろう。 ...続きを見る

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2011/10/30 08:08
信長と秀吉が将軍にならなかった理由
 武家が政権を取るには、貴族になって太政大臣にまで上りつめるか、征夷大将軍になって幕府を開くかのどちらかである。 ...続きを見る

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2011/10/22 18:59
城の石垣用巨石の運搬方
 城の石垣用巨石というと、大坂城の石垣が思い浮かぶのだが、その時代、どのような方法で運搬したのであろうか? ...続きを見る

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2011/10/15 19:12
城の石垣の必要性
 古い城を見て歩くと、戦国時代後半の城は石垣のある城はあるのだが、それ以前の城には「石垣」ではなく土塁で築かれていることに気付く。 ...続きを見る

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2011/10/09 07:57
「寄集めの城「彦根城」」について
「寄集めの城「彦根城」」について  言葉足らずで申し訳無かったと思います。  井伊直政は慶長7年(1602)に関ヶ原の合戦時傷を負い、それが因で「破傷風」で亡くなっています。  直政は生前から、佐和山を離れ、磯山(現米原市磯)に城を構えたいと望んでいたので、子どもの直継が幼少のこともあって、家老達が家康に相談したのです。  家康から現彦根に築城することの許可を得て、翌年から築城がはじまっていますから、実際は居住はしていません。 ...続きを見る

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2011/10/04 07:01
築城にはどのような職人が駆り出されたか
 戦国大名の中には、築城に詳しい者も数多くいたのだが、特に豊臣秀吉や池田輝政、加藤清正等は、巧みな築城技術を身につけていたといわれている。 ...続きを見る

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2011/10/02 21:03
寄集めの城「彦根城」
 彦根城は、ご存知“井伊直弼”の居城である。    そして、明治時代に危うく解体されかけたこともあるが、明治天皇が北陸巡幸を終え彦根を通った。  この時、明治天皇が「保存するように」と云われたことで解体されずに済んだという事である。 ...続きを見る

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2011/10/02 12:58
関ヶ原の合戦前、石田三成と直江兼続との共謀はあったのか?
 関ヶ原の合戦の発端は、徳川家康の会津攻めであることは周知のとおりである。  上杉景勝が家康に反抗的な態度を取り続けたため、家康は大軍を率いて会津に向ったのだ。 ...続きを見る

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2011/09/30 21:17
関ヶ原の合戦時、黒田如水の動きを考察
 徳川家康と石田三成が激突した合戦が“関ヶ原の合戦”で、歴史上でも超有名な戦である。 ...続きを見る

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2011/09/14 20:50
小田原の「一夜城」の真偽
 神奈川県小田原市といえば、歴史に興味のある人達は、秀吉の「一夜城」を思い出す。 ...続きを見る

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2011/09/06 20:52
斉藤道三の「油売り」の真偽
 戦国時代の出世頭といえば、云わずとも「豊臣秀吉」が頭に浮ぶのだが、もう一人庶民から成り上がって大名にまで出世した人物がいる。 ...続きを見る

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2011/09/01 06:32
戦国時代、武田騎馬軍団は最強に疑問
 映画やTVで描かれる合戦場面、多数の騎馬武者が一斉に波状攻撃を仕掛けるところを見るのだが、実際はどうだったのであろうか? ...続きを見る

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2011/08/21 10:27
敵に包囲された籠城側の対応
 前回は城を攻める側をUPしたが、今回は攻められる側の応戦策をUPすることにしたい。 ...続きを見る

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2010/12/25 10:13
戦国時代の戦では、刀と槍どちらが有利
 戦国武者というと、刀姿か槍姿が思い浮かぶが、戦場ではどちらが役に立ったのであろうか?  それは、勿論「槍」の方である。 ...続きを見る

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2010/10/10 05:36
戦国大名の書簡とは
 戦国大名というと、合戦に強いとの印象を持ちがちであるが、そうではなかったのである。 ...続きを見る

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2010/10/09 09:27
山内一豊の妻「千代」の末
 戦国時代、流浪のどん底から、土佐24万石の大名にまで昇りつめた山内一豊の出世物語で有名な妻「千代」。  内助の功で知られているが、一豊が亡くなった後はどうなったのであろうか? ...続きを見る

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2010/10/09 07:13
戦国時代の武士は、どの地位から家が持てたか
 戦国時代の「城」は、現在で云えば“役所兼首長公邸”といってもよい。  知事か市長に相当する城主やその家族、さらに世話係等が城で暮らしていたといってよい。 ...続きを見る

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2010/10/05 19:05
戦国時代、戦場での「合言葉」
 合戦に勝つ為には、味方同士の連絡を図る必要があった。  その連絡方法の一つに「合言葉」があったのである。 ...続きを見る

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2010/10/02 11:49
豊臣秀吉の「刀狩」で徴集された武器の行方
 刀狩りを最初に行ったのは、豊臣秀吉ではなく、越前(福井県)で、一向一揆を鎮圧した柴田勝家とみられている。 ...続きを見る

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2010/10/01 06:22
戦国時代の出陣式の意味
 戦国時代、イザ戦となると必ず行われたのが「出陣式」である。 ...続きを見る

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2010/09/27 06:32
伊達政宗が父親を見殺しにした理由
 伊達政宗は、実の母親に毒殺されそうになったり、実の父親を見殺しにするなど、複雑な体験をしている武将でも知られている。 ...続きを見る

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2010/09/23 15:16
上杉謙信の死因
 天正6年(1578)越後の上杉謙信が死去する。  同年3月9日、厠で倒れるのであるが、俗に脳卒中であった。  昏睡状態のまま、5日後、49歳で世を去った。 ...続きを見る

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2010/09/23 07:18
最後の将軍足利義昭のその後は?
 室町幕府の最後の将軍・足利義昭は、織田信長の後ろ盾で将軍になったのだが、、信長に権力が集中するにつれて、二人の関係は冷えていくのである。 ...続きを見る

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2010/09/18 04:52
軍功の無い山内一豊が一国を与えられた理由
 司馬遼太郎の「功名が辻」の主人公は“山内一豊”で、土佐一国を賜っている。  NHK大河ドラマにもなって、全国に知れ渡っている“山内一豊”であるが、妻の「千代」は有名でも、旦那の方はたいしたことはないとの評価でもある。 ...続きを見る

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2010/09/16 19:32
家康が、三成挙兵を知って1ケ月も江戸に留まった理由
 “関ヶ原の合戦”は、会津の上杉景勝が徳川家康を兆発したことが発端となり、家康は豊臣秀吉恩顧の武将らを率いて、上杉軍討伐に向う。 ...続きを見る

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2010/09/11 11:11
上杉景勝が徳川家康を追撃しなかった理由
 慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦が起きた。 ...続きを見る

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2010/09/11 07:32
関ヶ原の合戦時、西軍に味方した島津氏が減封されなかった理由
 関ヶ原の合戦”で破れた西軍の大名達には、徳川家康が厳しい処分を下したことは良く知られている。 ...続きを見る

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2010/09/08 19:56
関ヶ原の合戦時の加藤清正の動向
 豊臣秀吉に仕え、恩義を受けた“加藤清正”は、徳川家康が天下を取った「関ヶ原の合戦」には登場してこない。 ...続きを見る

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2010/09/05 07:40
「敵は本能寺にあり」の言葉の真偽
 明智光秀が、京の本能寺に宿泊している織田信長を襲う前、家臣に放った言葉として誰でもが知っているであろう「敵は本能寺にあり」。 ...続きを見る

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2010/09/02 05:08
賤ケ岳の7本槍とは
 天正11年(1583)、羽柴秀吉の軍勢が柴田勝家軍と戦った“賤ケ岳の戦い”。  羽柴秀吉は、この戦で勝利したことにより天下をほぼ手中にしたのは周知のとおりである。 ...続きを見る

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2010/08/31 21:30
小豪族の伊達氏がのし上がった理由
伊達政宗を生んだ伊達家、歴史的には古いものの、地方の小さな豪族にしかすぎなかったのである。 ...続きを見る

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2010/08/27 06:14
小田原評定という言葉を残して滅んだ北条氏
 小田原城を本拠としていた“北条氏”は、豊臣秀吉に包囲され、結局滅んだ。 ...続きを見る

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2010/08/23 15:55
毛利軍が秀吉軍を追撃しなかった理由
 天正10年(1582)6月、羽柴秀吉軍は、備中高松城を水攻めにし、城を救おうとする毛利軍と対峙していた。  そこへ、織田信長死すとの急報がもたらされた。  秀吉は、即座に毛利方との和睦を決意する。 ...続きを見る

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2010/08/19 21:00
本能寺の変を知った織田家の家臣は・・・・
 天正10年(1582)6月2日早朝、明智光秀軍は密かに京都へ侵入した。  織田信長が宿舎としていた本能寺を襲い、織田信長を自害に追い込んだ。 ...続きを見る

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2010/08/17 21:02
本能寺の変、前日、織田信長は何をしていたのか
 織田信長は、6月2日の早朝、明智光秀に倒されるのであるが、その夜まで久々の京都を楽しんでいたのである。  信長は、5月29日に安土城を発ち、京都に入り、本能寺に宿泊した。  向う先は、毛利軍の待つ中国方面であるが、京都入りは息抜きで、お供は近臣数十人ほどであったのである。 ...続きを見る

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2010/08/16 21:03
本願寺門徒の一揆を「一向一揆」と呼んだ理由
 戦国時代、農民の土一揆が織田信長を筆頭に、各地の大名を散々に悩ませたのは周知のとおりであろう。 ...続きを見る

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2010/08/15 20:52
本願寺が織田信長と徹底抗戦できた理由
 天下統一を目指す織田信長にとって、もっとも苦戦し苦慮した最大の敵は大坂の本願寺であった。  織田軍と石山本願寺との戦いは10年以上にも及んでいるのである。 ...続きを見る

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2010/08/14 20:19
治水事業(信玄堤)にも力を注いだ武田信玄
 武田信玄が甲斐に残した最大の遺産とは、釜無川沿岸の「信玄堤」であろう。 ...続きを見る

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2010/07/18 08:01
上杉謙信は、単なる戦好きだったのか?
                 上杉謙信像 ...続きを見る

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2010/07/17 06:43
お市の方が“柴田勝家”と再婚した理由
 織田信長の妹“お市の方”が、政略結婚で近江の浅井長政に嫁いだのであるが、長政は後に信長と対立するようになる。  そして、滅ぼされることとなる。 ...続きを見る

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2010/07/15 11:13
戦国時代の美人
 戦国時代の美人と云えば、直ぐ織田信長の妹で「お市」の方を思い出すほどである。    勿論、実際に会ったわけでは無いので分りはしないが、“肖像画”や“言い伝え”によると相当な美人であったことは想像できる。 ...続きを見る

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2010/07/15 08:28
戦国時代に金銀の産出が増えた理由
 戦国時代は、戦乱の時代だっただけでなく、経済革命、技術革命等多くの分野で変革が起きた時代でもあったのである。 ...続きを見る

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2010/07/13 21:23
戦国時代の切腹
 合戦に敗れた武将の多くは、切腹して命を絶つことになる。  切腹は、日本独特の風習で、平安時代には既に存在していたという。 ...続きを見る

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2010/07/10 13:46
桶狭間に、ニケ所の古戦場?
 織田信長が今川義元を倒した桶狭間の古戦場。  地図で調べていたところ、2ケ所載っていることに気づいた。 ...続きを見る

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2010/07/06 21:19
桶狭間の合戦で、信長が義元本陣を探れた因
 桶狭間の戦いといえば、戦国時代に興味を持っている方は知らない者はいないほど有名であろう。 ...続きを見る

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2010/07/06 06:27
戦国大名が戦った理由
 戦国時代、各地の大名達は何の目的があって、命のやり取りをしたのであろうか?    歴史小説では、下克上の時代となり、誰もが天下を取れる機会があり、我こそはと思う者は皆んな天下を目指した。  となるのだが、そうではなかったようである。 ...続きを見る

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2010/07/04 07:23
「桃山時代」の期間はいつから何時まで
 室町幕府が滅んだ後の時代を、「安土桃山時代」といっている。  室町幕府最後の将軍である足利義昭が追放されてから、徳川家康が江戸に幕府を開くまでの30年間ほどで、「織豊時代」とよぶこともある。 ...続きを見る

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2010/07/03 11:03
戦国時代は、日本は武器輸出国だった
 戦国時代、欧州では大航海時代であった。  中国史においても、同時代の明代は海外貿易が盛んであった時代である。  TVの大河ドラマの「呂宋助左衛門」(るそんすけざえもん)でわかるように、東南アジアと交易する商人は結構いたのである。 ...続きを見る

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2010/07/02 05:13
戦国時代に「茶の湯」が流行った理由
 戦国時代を代表する文化人と云えば「千利休」が思い浮かぶ。  「わび茶」を完成させた茶道の始祖であるが、信長や秀吉に重用されながら、やがて切腹に追い込まれていくのである。 ...続きを見る

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2010/06/30 20:31
戦国時代の中で、最長寿武将は誰?
 戦国時代に天寿を全うして「大往生」という武将は少ない。  織田信長、明智光秀、柴田勝家等多くの武将達は、合戦や動乱で命を落としている。  その一方で、合戦をくぐり抜け、天寿を全うした武将には、豊臣秀吉や徳川家康、伊達政宗等がいる。 ...続きを見る

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2010/06/29 16:19
武田信玄の初陣とは
  武田晴信(信玄)像 ...続きを見る

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2010/06/26 15:35
徳川家康が次男(秀康)を冷たく扱った理由
 徳川家康の長男信康については、前回UPしたが、実は次男のことについてはあまり知られていなかった。  二代将軍秀忠は三男なのであるが次男をさておいての将軍職なのである。 ...続きを見る

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2010/06/26 07:24
徳川家康が長男「信康」を切腹させた理由
 織田信長が桶狭間で駿河の今川義元を倒した後、家康と結んだ同盟関係は、裏切り・寝返りが日常茶飯事の戦国の世にあって、珍しく最後まで破られることはなかった。 ...続きを見る

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2010/06/24 16:21
戦国時代に「入道」と呼ばれた武将達の理由
 戦国武将には、北条早雲、上杉謙信、武田信玄等「入道」と呼ばれた武将が数多くいる。  斉藤道三、竜造寺隆信、細川幽斎等もそうである。  武田信玄であれは「信玄入道」と呼ばれていたのである。 ...続きを見る

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2010/06/21 20:53
戦国時代の海上合戦
 戦国時代、合戦は陸上ではなく海上でも繰り広げられている。  海上で戦ったのは、海上専門の集団であった。  「水軍」と呼ばれているもので、瀬戸内海の「村上水軍」が有名である。  織田信長の下で戦った「九鬼水軍」も良く知られている。 ...続きを見る

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2010/06/20 17:59
戦国時代の戦、勝ち負けは何処で決まる
 合戦の勝敗の判断基準はいろいろある。  そのうち最も分りやすいのが、どちらかの軍勢が敗走することであろう。 ...続きを見る

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2010/06/19 17:20
戦国時代の「抜け駆け」の処罰
 合戦中、功名を願う武者の頭にちらつくのが「抜け駆け」の功名であろう。  後方の部隊に所属しておれば、一番槍や一番首はどう転んでも得られないことになる。  そこで密かに前線に出て、先鋒よりも先に敵陣を襲撃しようという「抜け駆け」の功名が誘惑してくるのである。 ...続きを見る

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2010/06/17 18:08
戦国時代、合戦時の農民は・・・
 イザ合戦となれば、武士達は戦場に駆けつけることになるが、その時農民たちはどうしていたのであろうか?  これは人それぞれであるが、ある程度の人数は、招集を受けて合戦に参加した。    一方、合戦に行かない農民たちは、普段どおりの仕事をしていたが、自分達が住む村付近が戦場になりそうなときは、近くの山に避難したのである。  財産は、屋外の木陰などに穴を掘って埋めておくのである。  そして、合戦が始まれば、山の上から高見の見物となる。 ...続きを見る

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2010/06/16 20:56
戦国時代の「刈り働き」と「焼き働き」
 戦国時代、武将たちは敵を倒す為には手段を選ばない側面があった。  その代表的なものが「刈り働き」と「焼き働き」なのである。  共に、相手の領地を荒らしまわる戦法であった。 ...続きを見る

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2010/06/14 19:35
戦国時代の女性は強かった!
 合戦は男性の仕事と思っている人が多いと思うが、女性も合戦に参戦することもあった。  味方が敗北寸前ともなれば、女性だって武器を手にして戦うしかなかった。 ...続きを見る

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2010/06/12 08:51
戦国時代における足軽の募集方法
 戦国時代の合戦では、敵方より多くの兵を集めた側が勝利を治めることが多かった。  そのため、兵の多くは足軽だったこともあって、戦国時代は足軽をかき集めるため必死になったようである。 ...続きを見る

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2010/06/09 18:00
戦国時代の戦で敵の首を切取った理由
 戦国時代の戦では、首の取り合いでもあった。  兵士(武将)たちは、倒した敵方の兵(武将)の首をかき切って持ち帰ったのである。  これは、自分がいかに活躍したかを示す最大の証拠であったから、敵方の首が必要だったのである。 ...続きを見る

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2010/06/07 16:50
戦国武将の初陣の年齢
 名将、智将、豪将等と言われている武将達・・・。  当然初陣の経験があってこそ、後に名が伝わったのである。  一般的には、12〜15歳位で元服し、その後初陣となる。 ...続きを見る

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2010/06/06 08:03
戦国時代の戦での睡眠はいかに・・・
 合戦は、普通一日では終わらないことが多い。  敵方と睨みあった状態で何日も膠着(こうちゃく)状態になることもあった。  また戦線が広がり、転戦しなければならないこともある。    何日間もそういう状態が続けば、体力のある武将達でも、睡眠をしっかりとらないと体がもたないことになる。 ...続きを見る

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2010/06/02 19:37
戦国時代の足軽には少量の米しか与えなかった理由
 戦国時代も後半になってくると戦にも慣れ、補給方法をいろいろ考えることとなる。  つまり、補給専門の部隊(荷駄隊)を編成し、この荷駄隊が運んできた米などを兵に配り、兵はそれを炊いて食べるようになったのである。 ...続きを見る

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2010/05/31 16:59
太田道灌の「足軽戦法」
             太田道灌  戦国時代の太田道灌といえば、一番に江戸に初めて城を築いた武将としてのイメージが強い。  道灌は、合戦でも新しい流れを作り出しているのである。 ...続きを見る

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2010/05/29 09:11
戦国時代の野戦、どのような戦法?
 映画・テレビでの戦闘場面、両軍が対峙して法螺貝の合図で、一斉に敵に向っての突撃開始・・・迫力あるシーンではある。  兵の数が多いほど、画面は迫力満点となるのだが、そのような総力戦は、映画・テレビのシーンで見るのには良いのだが、実戦となると双方ともあまりにも犠牲が多すぎたようである。 ...続きを見る

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2010/05/26 17:42
戦国時代の馬
 戦国時代の映画・テレビに出てくる馬は、サラブレッドかアラブ種であることは皆さん承知のとおりである。  この馬は、明治時代以降に輸入されたもので、勿論外国産である。 ...続きを見る

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2010/05/25 21:08
戦国武将には、どのような役職があったのか?
 戦国時代の役職(階級?)にはどのようながあったのかを考えたことはないだろうか? ...続きを見る

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2010/05/24 19:23
織田信長が「京」に築城しなかった理由は?
 永禄11年(1586)織田信長は将軍足利義昭に奉じて上洛し、実権を握った。  美濃を落とし、稲葉山城を岐阜と改名し、居城とした直後のことである。    織田信長は上洛したものの、信長自身は京にいることは少なかった。  あくまでも岐阜を本拠としたままで、そこから義昭を遠隔操作していたのである。 ...続きを見る

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2010/05/22 08:44
織田信長が安土に居城を求めた理由
 織田信長は京の本能寺で落命するのであるが、その地は宿営地であった。  その時点での本拠地は「安土城」であった。 ...続きを見る

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2010/05/17 21:03
国の登録有形文化財(目鏡橋)を訪ねて
 3月19日、文化審議会の答申を受けて、広島県の2ケ所が登録有形文化財になることになった。 ...続きを見る

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2010/03/22 13:18
「乱」「役」「変」等の区別
 歴史本を読んでいると、「乱・役・変」等良く目にする。  何となく分っているつもりであるが、詳細については理解できていないのが実情ではないだろうか。  今回は学習院大学安田元久名誉教授の書から学んでみよう。 ...続きを見る

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2010/03/20 20:37
年号の起源と決め方
 最近は新聞の日付も西暦を使い元号は( )中に閉じ込められているが、つい最近までは元号が表面に出ていた。    西暦使用は世界的なもので「ケチ」をつけるつもりは毛頭ないのであるが、疑問に感じることはある。 ...続きを見る

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2010/03/14 20:07
江戸時代の豪遊伝説
 豪遊というと「紀伊国屋文左衛門」と「奈良茂」を思い出す方々も大勢居られるであろう。 ...続きを見る

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2010/03/10 10:05
暴れん坊将軍吉宗、さてその実態は・・・
             徳川吉宗像 徳川記念財団所蔵 ...続きを見る

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2010/03/07 13:13
水戸黄門は全国漫遊はしていないが、その本質を知る
 TV放送で依然人気のある「水戸黄門」。  実際には、全国漫遊をしていないことは周知のとおりであるが、何故このように全国を漫遊する物語が出来たのであろうか?  中央学院大学重松一義教授書から紹介することにしよう。 ...続きを見る

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2010/03/04 05:56
江戸時代、道中手形を亡くした場合どうなったか?
 現在のパスポートと同じ「道中手形」紛失したり盗られたりした場合どうしたのであろうか?  国立歴史博物館山本光正氏の書から紹介しよう。 ...続きを見る

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2010/02/28 18:05
松の廊下刃傷事件(忠臣蔵)は江戸留守居役の処世術が下手だったから
 「忠臣蔵」は現在でも演劇・テレビ・映画で取り上げられ、日本人の判官贔屓(ひいき)もあって根強い人気がある。  しかし冷静に考えてみると、どうも江戸留守居役の日頃の処世術が下手だったことが浮び上がってくるようである。  今回は、北村鮭彦氏の書から紹介しよう。 ...続きを見る

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2010/02/27 09:51
船に「○○丸」とつけるのは何故
 日本船舶には、船名を「○○丸」とつける習慣があるが何故だろうか?  疑問に思った方も多いと思う。  今回は国学院大学名誉教授樋口清之氏著から紹介することにしよう。 ...続きを見る

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2010/02/24 18:19
最後の将軍「徳川慶喜」の明治時代の生活
 徳川幕府最後の将軍「慶喜」、大政奉還後、江戸を離れてしばらく水戸で生活(謹慎)していたことは良く知られている。  その後はどのような生活であったのか、小和田哲男氏の著から見てみよう。 ...続きを見る

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2010/02/18 18:51
江戸時代、商人や職人に対する税金は?
 最近は給料は下がるが税金は高くなるという、変な時代だが江戸時代の税はどんものがあったのであろうか?  今回は、徳川林政史研究所須田肇氏の著から紹介しよう。 ...続きを見る

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2010/02/13 18:06
岡ツ引は副業でタップリ
 同心に常についている者は表向きには仲間(ちゅうげん)で、奉行所へ一緒に通っている。  仲間は家来だから当然同心から給料をもらっている。  ところが、仲間を置いていない同心も多い。  そういうのは「岡っ引」がつねに供をしている。 ...続きを見る

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2010/02/11 16:05
袖の下「ガッポリ」の与力と同心
 与力も同心も役得の多い仕事であった。  与力のところへは、まず正月には町火消の頭が年始の挨拶にくる。  もちろん何がしかの金が入ってくるのである。    4月には外様大名の参勤交代の月で、領国へ帰る挨拶などの使者がくるのである。  諸大名の江戸屋敷には妻子や家来が大勢生活しているのである。  江戸の生活に慣れていない国侍も時には残っている。  町方で問題を起こしたりした時など今後の事を穏便に、という意味で、相当のものが入ってくる。  盆暮れ、暑さ寒さなどにも進物の使者がくるので... ...続きを見る

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2010/02/10 17:45
花のお江戸は「九百三十三町」
 江戸の町数は「八百八町」と俗にいわれている。  八百八町は、きわめて広いという意味で現実の数ではない。 ...続きを見る

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2010/02/03 20:20
サンピンといわれる武士の階級
 武士の中でも「軽輩」といわれる者がいるが、これが「足軽」と呼ばれているものである。  何か馬鹿にされている感じで使われているが、これは今日で言えば下士官と兵卒を併せたようなもので、そんなに馬鹿にしたものでもないのである。 ...続きを見る

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2010/01/31 15:44
江戸時代の「札差」とは?
 映画・テレビによく出てくる「札差」。  一体どのような仕事をしていたのだろうか?  今回は、北村鮭彦氏著から紹介しよう。 ...続きを見る

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2010/01/27 20:21
武士の切腹について
 今回は武士の切腹について、中央学院大学重松一義教授の著から紹介しよう。    切腹は、『保元物語』『太平記』などで知られているが、敗戦、引責等を理由として、平安時代から行われていた。文字通り腹を切る武士の自殺方法で、左脇腹に刃先を突き立て右脇腹へと引き廻し、腹を掻き切る「一文字」、さらに胸元から臍へ向け切り下げ、さらに咽喉を突くという「十文字」等がみられる。 ...続きを見る

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2010/01/23 10:03
江戸時代の贈収賄事件
 政治と金は何時の時代にも物議を醸すが、現代のものの考え方と江戸時代の考え方は若干違うようであり、別に悪いことをしているとの自覚は無かったようである。  そこで今回は、中央学院大学重松一義教授の著から紹介しよう。 ...続きを見る

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2010/01/21 10:06
改易や国替で浪人となった者の生活
 浪人というのは失業者である。  現在も職を失って、その日の生活にも困る人々が沢山いるが、江戸時代はどのようにして生活の糧を求めたのであろうか?  今回は、法政大学教授村上直氏の著から紹介しよう。 ...続きを見る

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2010/01/19 20:04
江戸時代の武士、階級はどのようなものがあったか
 映画・テレビ等で「拙者は武士である。武士は食わねど高楊枝」とよく聞く台詞ではあるが、さて階級となるとどうなっていたのだろうか?  北村鮭彦氏の著から紹介しよう。 ...続きを見る

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2010/01/17 12:13
江戸時代、武士の給与の決められ方
 現在、不景気を繁栄して給与がカットされ続け、生活は困窮の極みである。    現代の給料(給与)はそれぞれ役職によって違ってくるのであるが、江戸時代はどうであったのか?今回は、徳川林政史研究所の須田肇氏の著から紹介しよう。 ...続きを見る

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2010/01/11 13:55
松尾芭蕉の全国行脚での旅費はどこから賄ったのか
 俳句で超有名な松尾芭蕉。  全国で有名な「俳句」を残し、地元では碑を建てて誇示している。  有名な「句」には    古池や蛙飛びこむ水の音  (ふるいけや かはずとびこむ みずのおと) ...続きを見る

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2010/01/09 13:43
平安時代の寝殿造りの家、暖はどのようにしていたのか?
    ...続きを見る

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2010/01/03 08:48
将軍を何と呼んだか?
 将軍という言葉は「征夷代将軍」を省略したもので、本来は東国地方の夷(えびす)を制圧する軍団の大将のことであった。  後には武家政治の頭領、つまり武家の親玉の事を言うようになったのである。  将軍は、天皇家になりかわって全国を治める権力者であったわけである。 ...続きを見る

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2010/01/01 15:42
黙って渡せば気持ちは通じる〜江戸時代の付け届け
 江戸時代、各藩の江戸留守居役たちは、なんとか自分の藩の負担を軽くする為、奥祐筆の所を訪ねていた。  この時は、奥祐筆の方でも必ず一人ずつに会っていた。  客は持ってきた菓子折り、と言っても中に何が入っているのかわからないが、それを主人の前に出し、無言で丁寧にお辞儀をして、そのまま帰る。  それがしきたりになっていたようである。 ...続きを見る

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2009/12/30 19:03
お殿様のお手がついたらお城入り
 大大名の奥向きに興味がある方は覗いてください。    江戸の上屋敷にしても国許の城中にしても、だいたいのところは江戸城の大奥を真似ている。  ただ遠慮して女中の人数はぐっと少なく、役名なども同じではない。  同じ仕事をしていても藩によって別個の名もあるのである。  殿様は、自分の私邸であっても奥へは勝手に入ることが出来なかった。  先祖代々の忌日(いみび)、近親の命日は精進ということで奥へは泊まらなかったのである。  これは祥月命日(しょうつきめいにち)ばかりでなく、月々の... ...続きを見る

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2009/12/30 09:47
H(エッチ)心が蠢(うごめ)いてお役を失った小名
 東京の新宿は、元内藤新宿の名で呼ばれていたように、信州高遠3万3千石、内藤大和守の屋敷地であった。  その内藤家の下屋敷(現在の新宿御苑)に、当時の幕府奏者番で遠州浜松6万石、井上河内守正重(まさとし)という大名が遊びにきた。  大名の下屋敷には、邸内の農耕を受け持つ百姓が、何家族か住んでいるのが普通であった。  8万坪からある庭を歩きまわった河内守、ちょっと休息するつもりでその百姓屋に入ったら、若女房が一人きりであった。  つい妙な気を起こして組み伏せたところへ亭主が肥桶をかついで帰... ...続きを見る

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2009/12/30 08:13
「与力」と「同心」の違い
 テレビ・映画で頻繁出てくる「与力」と「同心」、どこがどう違うのか、どちらが上席なのかよく分からないであろう。  今回は中央学院大学重松一義教授の書から紹介しよう。 ...続きを見る

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2009/11/14 20:00
女性が出家時、すべて坊主頭になったのか
 古代インドでは、頭髪を剃ることは最大の恥とされていた。  お釈迦様はその姿をとって出家の姿とした。  であるから、出家を願うものは剃髪するのが原則である。  身は現世にあるものの俗体とは異なることのシンボルが剃髪なのである。  この風習は仏教圏全体に及び、中国の古い仏画を見ても、僧侶は剃髪姿である。  尼といえども例外ではないのである。 ...続きを見る

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2009/11/08 16:44
仏像の頭髪が巻貝状のわけ
 寺に安置されている仏像の頭髪は、ほとんど「巻貝状」なのを不思議に思ったことは無いだろうか?  今回は、東洋大学金岡秀友教授の書から紹介しよう。 ...続きを見る

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2009/11/08 16:10
参勤交代で他大名の領地を通過するときの供応の是非
 参勤交代で他大名の領地・天領を通過する際、いかに平和な時代とはいえそれ相当の挨拶が行われていたであろう事は予想できる。    大名が本陣に支払う宿泊代は祝儀(心づけ)であり、『民間省要』(みんかんせいよう・田中丘隅)によると、その額は微々たるもので、金額は分限によらず、大名家の品格によると記してある。  法政大学村上直教授の著から紹介しよう。  大名が国元と江戸の間を往復する際には、勿論、他の大名領や天領を通過することになるので、大名や幕府の郡代・代官とはしかるべき挨拶が取り交わされて... ...続きを見る

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2009/11/07 17:12
日本で「煙草」が吸われだした時期
 煙草一箱500円にしようと検討されているらしい。  現在は健康に悪いとして敬遠されており、喫煙家にとっては肩身が狭くなっている。  しかし「煙草」は昔から「嗜好品」として世界で愛されているのである。 ...続きを見る

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2009/11/06 07:02
尾張人気質による「恐怖政治」・信長・秀吉・家康は尾張人
 信長・秀吉・家康の三人が、それぞれ尾張三河の出身なのは偶然なのであろうか?  信長の家臣だった秀吉、同盟関係を結んでいた家康、その理由だけでは済まない何かがあるようである。  そこで今回も日本歴史学会員の加来耕三氏著から紹介しよう。 ...続きを見る

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2009/11/03 20:44
織田信長の先祖を探る
 まず織田信長の家系は織田氏の傍流でしかないということを知っておきたい。  現在伝わっている全ての織田氏系図は、織田信長を中心になっているが、これは、織田信長が全国に勢力を伸ばした後に書き換えられたもので、これで織田信長の先祖を正確に探ることはできない。  そこで日本歴史学会員の加来耕三氏著から紹介しよう。 ...続きを見る

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2009/10/25 08:08
「源平藤橘」(げんぺいとうきつ)が苗字の元と言われる理由
 「源平藤橘」の言葉が後世に広まったが、それはこの四つの氏が歴史上大きな活躍をしたからである。  しかし、現在20万もある苗字がこの四つの氏からすべて出ているわけでなく、他に1,000以上もの氏があったからである。  例えば蘇我氏、物部氏、大伴氏、菅原氏、佐伯氏、秦氏等など、かなり馴染みの深い氏の名を知っているであろう。  何百年かの間に興亡変遷がおこり、先の源氏、平氏、藤原氏、橘氏が勢力を得たため、この流れの者であると称する者が多くなったのである。 ...続きを見る

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2009/10/13 06:21
騎馬武者が背負っている保侶(ほろ・幌・母衣)について
 先日TVの歴史もので「ほろ武者」について語られていたのを見させてもらった。  今回は知っているようで知らない「母衣」の詳しいことについて、時代考証家の名和弓雄氏の署から紹介しよう。 ...続きを見る

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2009/10/10 10:33
織田信長や上杉謙信が少数で上洛できた理由
 戦国時代の真っ只中、信長・謙信は上洛しているのだが、京都に通ずる道は他国の領地を通ることになる。  なぜ往来できたのであろうか。  今回は静岡大学教授の小和田哲男氏の書から紹介しよう。 ...続きを見る

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2009/10/05 06:24
平安時代に牛車が使用された理由
平安時代、馬車ではなく牛車が使われ、絵巻物にも良く出てくるが、馬でなくなぜ牛なのか考えたことがあると思う。  そこで今回は、その理由について、新潟大学山口博教授の書から紹介しよう。 ...続きを見る

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2009/10/01 18:06
「家紋」のできた理由とその時期
 日本の家紋については、その数二万種といわれるほど多い。  どの家庭にも先祖から伝わる「家紋」を大事にしていると思われるが、さて「家」のルーツを調べるということになると、中々困難なことであろう。  しかし、「家紋」は単なる文様ではなく、それぞれの「家」を表しているのである。  だから家紋を見て、家のルーツが分かるところに特徴があるといってもよいのである。 ...続きを見る

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2009/09/30 11:21
織田信長の後見役平手政秀諫死の真相!
 信長誕生とともに、後見役で父親代わりとなって育てた傅役(もりやく)平手政秀は、織田信秀の有力な家臣として財政を担当していた。  その傅役の平手政秀が自ら命を絶ったのであるが、このことについては、戦国時代に興味を持っている方は良く知っているはずである。  だがその真相となると巷間いろいろ言われているが、一番多いのは信長に意見するため自ら死をもって教えた(諫死)というものであろう。    そこで今回は加来耕三氏の書から紹介しよう。 ...続きを見る

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2009/09/28 09:47
江戸時代の警備は万全だった!町人の家の戸締りは突っかえ棒だけ!
 江戸時代の町屋の戸締りは、映画やTVの時代劇に出てくるように「じんばり」と呼ばれる突っかえ棒を表の入口にし、裏の雨戸を閉ざすだけで十分であった。  今回は中央学院大学重松一義教授の書から紹介しよう。 ...続きを見る

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2009/09/26 20:14
江戸時代の旅人は荷物が少なかったわけ
 現代の旅行者は車での旅行が多く、荷物も多めになる傾向がある。  車を使用しない場合は、コンパクトに収容できるカバンが販売されているので、そう苦労することはないようである。 ...続きを見る

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2009/09/16 12:06
徳川家康を一喝した男がいた
 徳川家康と言えば、徳川幕府初代将軍であることは周知のとおりであるが、この家康を一喝した傑物がいるのをご存知だろうか?    一喝した男というのは、江戸初期を代表する第一級の儒学者「藤原惺窩」(ふじはらせいか)(永禄4年〜元和元年・1561〜1619)のことである。  彼のすごいところは、徳川家康の御用学者だった「林羅山」の師にあたるということであろう。  彼は中世を代表する歌人・藤原定家の12代目の子孫でもあり、その血脈を重んじて毅然とした生き方をしているのである。    その生き... ...続きを見る

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2009/09/06 07:38
戦の時、食糧・武器・馬等の補給
 戦国武将が出陣するときは、その前に「陣触れ」といって「いついつ出陣するから用意をしておけ」という命令を出すのが普通であった。  この陣触れが出ると、家臣は兵糧や兵士、武器、馬など、戦に必要なものを自分で用意していた。  戦国時代の史料によく出てくるのは、最低3日分の「腰兵糧」を用意するよう命じた文書である。  「腰兵糧」とは腹に巻いたり、腰にぶら下げたりして持ち歩く携帯用食糧のことである。  その多くは干飯(ほしいい)や炒り米などで、変ったところでは、毛利元就が小さな餅を腰兵糧にしてい... ...続きを見る

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2009/08/31 19:44
江戸時代の「縁切寺」とは
 最近は離婚する夫婦も増加する傾向があり、夫婦二人で話し合いをし離婚する場合もあるが、もめた場合は家庭裁判所の調停で成立する場合もある。  夫婦どちらからでも離婚を申し立てができることは承知のとおりである。  しかし江戸時代には、庶民の妻からは離縁(離婚)を申し立てる権利は無かったのである。 ...続きを見る

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2009/08/29 06:49
昔、農村の人達の江戸・京都の情報源
 テレビ、新聞の無い時代、京都・江戸の情報源はどのようにして入手したのであろうか?  法政大学村上直教授の書をもとに紹介しよう。 ...続きを見る

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2009/08/23 11:22
竹中半兵衛が秀吉に仕えた理由
 豊臣秀吉には二人の兵衛がいるといわれていた。  ご承知のように「竹中半兵衛」と「黒田官兵衛」である。  黒田官兵衛は後日UPするとして、今回は「竹中半兵衛」について紹介するが、竹中半兵衛には知られている有名なエピソードがある。 ...続きを見る

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2009/08/18 13:03
神社(伊勢神宮の場合)に敷かれている玉砂利について
 内宮神楽殿 ...続きを見る

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2009/08/12 19:24
旧街道沿いの道祖神、六地蔵設置の理由
 古い街道を探索していると、道路沿いに道祖神とか六地蔵が祀られているのを不思議に思ったことはないだろうか?  今回はその道祖神、六地蔵について紹介しよう。 ...続きを見る

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2009/08/09 12:14
豊臣秀吉の「あだ名」(猿・はげ鼠)の基はどこから来たか
 豊臣秀吉が「猿面冠者」とか「はげ鼠」と呼ばれていたのは万人の知るところである。  では、なぜそのような「あだ名」で呼ばれるようになったのかについては、一般には秀吉誕生の奇譚(きたん)と関係があると言われている。  それでは、国学院大学米原正義教授の書から紹介しよう。  『絵本太閤記』では、母が日吉権現に願をかけて生まれた秀吉は、はじめから歯が生えていて面相は猿に似ていた、と語られている。  『真書太閤記』にも、彗星が現れて白昼のような夜中に誕生した秀吉の容貌は、色あかく猿眼、眼光鋭く瞳... ...続きを見る

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2009/08/07 11:35
武士の言葉使いについて
 戦国時代・江戸時代の武士達はどのような言葉を使っていたのであろうか?  映画・テレビの時代劇では現代人に分かりやすく「慣用語」を使用しているが、かの時代は違っていたようである。  今回は月刊「歴史街道」の歴史かくれ話の中で、当時大阪大学助教授真田信治氏の話を紹介しよう。 ...続きを見る

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2009/08/06 07:13
平安時代の貴族の女性は毎日十二単は着ていなかった
 平安時代の貴族の女性が、皆、いつも十二単を着ていたように思っているが決してそうではないということを、高田装束研究所高田倭男(しづお)所長の書から紹介しよう。 ...続きを見る

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2009/07/31 13:14
紫式部や清少納言の洗髪は月1回程度だった
 身長よりも長く伸ばした洗髪は大変な作業だったと想像できる。  では廊下を引きずるようにして歩いていた平安時代の洗髪はどのようにしていたのだろうか?  国学院大学名誉教授樋口清之氏の書から紹介したい。    平安時代の貴族や白拍子(しらびょうし)、巫女は原則として毎日、小豆粉や米ぬか、あるいはムクロジの果皮を熱湯に混ぜたもので髪を洗っていた。  その後は、主として椿油、まれにカヤ油を塗って髪を整えていたのである。  ただし洗髪といっても、身長よりも長く伸ばした髪の先端(床につく部分)... ...続きを見る

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2009/07/27 19:21
江戸時代、流罪(八丈島)の場合の生活
 流罪になった場合、これらの人々は「流人」と呼ばれていた。  身分や時代、配流された島等により生活には違いがあったが、流罪といえば「八丈島」と言われる位八丈島は有名である。 ...続きを見る

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2009/07/23 06:50
江戸時代、幕臣達の収入は土地と米、どっちが得だった
 幕臣はどのように収入を得、生活していたのであろうか?    これはご存知のように、幕臣の収入には知行と蔵米の二種類があったのである。  知行というのは、先祖からその家に伝わった格式の一つで、小なりといえども大名と同様に領地を持っていたのである。  その領地から上がる収穫を米に換算して千石なら千石取りと言っていたのである。  これは今で言う年収である。  しかし、すべて自分の収入になるかというとそうはいかないのである。  大名と同じで、四割五分を領主が取って五割五分をその土地に残す... ...続きを見る

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2009/07/17 08:05
盗賊が震え上がる「火付盗賊改」の鉄の十手
 火付盗賊改は召し取った者を一応自宅の白州で調べて、町方に渡した方が都合のよい者は町奉行へ、目付に渡した方がいいものは目付に渡すのであるが、無宿者だけは扱いの専門がなかったのである。  無宿は人別を抜かれているので町人ではないからである。  従って、これは加役自身が処断しなければならないことになる。  自宅には牢の設備がないので、小伝馬町の牢へ送るのだが、取調べの度ごとに引き出し、自宅へ連れてこさせて吟味したのである。 ...続きを見る

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2009/07/15 13:42
江戸時代悪代官は存在せず、真面目な役人であった
 テレビ映画では、必ずと言って良いほど出てくる「悪代官と越後屋」。  この二人は準主役と言って良いほどの存在感であり、この二人が結託しての悪事、居なければストーリーが進まないほどである。 ...続きを見る

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2009/07/12 06:43
武官の集団、火付盗賊改方は斬り捨てゴメン!
 鬼平犯科帳 長谷川平蔵役の「中村吉右衛門」 ...続きを見る

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2009/07/10 13:42
江戸時代「参勤交代」で反乱を防いだ
              津山藩の大名行列  江戸時代参勤交代という制度が実施されたのはご存知のとおりであるが、寛永12年(1635)から始まった慣習で、参勤とは江戸へ出てくること、交代とは領国へ帰ることをいうのである。  譜代大名は毎年6月、一部は8月、外様大名は4月が交代月とされていたが、関東八州に領地のある大名は在府、在国はいずれも半年、2月と8月が交代月であった。  また、御三家のうち尾張、紀伊の両家は3月が交代月、水戸は副将軍である関係から江戸に居座り、領国へ帰るということ... ...続きを見る

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2009/07/06 19:10
徳川時代の大大名は要職には付かせない
 その前に江戸城本丸の「表」の部屋には、どのような大名が詰めていたのであろうか?  これも北村鮭彦先生の書から紹介しよう。    大名が詰める部屋は決まっていたようである。  例を挙げれば  「大廊下」(おおろうか)は上の部屋と下の部屋があって、上の部屋には御三家(尾張、紀伊、水戸の三家)、下の部屋には水戸の嫡子と加賀の前田家(金沢藩102万5千石)が詰めていた。  「大広間」は国持大名の詰所。  「帝鑑之間」は譜代大名。  「溜之間」(たまりのま)は将軍の親類の上の部に入る大名... ...続きを見る

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2009/07/05 20:06
将軍様のSEXは見物人が居た?
 一般庶民は、自分のおかみさんとSEXする場合、覗かれるのは別にして、間違っても見物人を伴って一戦を行うことは無い。 ...続きを見る

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2009/07/05 14:51
徳川将軍の夜の相手は五人まで
 徳川11代将軍「家斉」 ...続きを見る

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2009/06/30 10:17
将軍の御台様は、用足し後尻まで拭かせた
 城中で女性達の起居する所は「奥」ということは良くしっていると思うが、江戸城ではこれを「大奥」と言っていた。  大名たちの居城にも「奥」はあったが、これは「大奥」とは言わず単に「奥」、あるいは将軍家に遠慮して「御広敷」(おひろしき)と呼んでいたのである。  だから大奥と言えば将軍家のことに限っていたのである。 ...続きを見る

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2009/06/29 11:39
徳川将軍の一日
  八代将軍徳川吉宗像 ...続きを見る

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2009/06/26 19:15
大名で「〜守」という官職名の決め方
 時代小説を読んでいると「伊豆守」「陸奥守」「肥後守」等大名の名の下にくっついているのを見かけるが、同じ時代でも「伊豆守」等が複数いることに疑念をもったことはないだろうか? ...続きを見る

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2009/06/22 09:20
平安時代の女性の用足しはいかに?
 平安時代の女性が十二単衣を着て座ったり、歩いている姿を画で見、用足しはどうするのだろうと疑問に思った方は大勢おられると思う。  そこで今回は、新潟大学教授山口博氏の書からその模様を紹介してみたい。 ...続きを見る

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2009/06/18 18:19
江戸時代、農民や町民に苗字がなかったというのは嘘
 昔から庶民は苗字をもっておらず、明治維新後に戸籍を整備する必要にかられ、許されるようになったと言われていると教えられてきた。  歴史的には、明治3年に苗字を名乗ることが許されており、その時点から昔の姓を名乗った者も沢山いるが、この際だといって住んでいる土地の名前を姓に用いた者と様々であったのである。  ...続きを見る

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2009/06/10 11:55
歴史上の人物は、何故呼び名を次々変えていったのか
 歴史本や時代小説を読んでいて、登場人物の名前が次から次に変っていくのを、不思議に思ったことはないだろうか?  私もおぼろげながら分かっていたつもりであったが、少し勉強していみた。 ...続きを見る

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2009/06/08 11:00
神社、神宮、大社、宮の格付けがあるのか調べた
 前回は、赤い鳥居について調べたが、今回はやはり神社である。  神社は色んな呼称があって分かりづらいが、やはり今回も伊勢神宮の禰宜で小野憲一氏の書で勉強させて貰った。 ...続きを見る

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2009/06/05 11:31
稲荷神社の鳥居は、なぜ赤くて多数あるのか調べてみた
 神社仏閣、史跡等を巡って、古き良き時代を偲ぶのが趣味の私にとって、稲荷神社の鳥居が赤いのは当たり前と思っていた。  ところが先日神社巡りをしていると、小学校4年生という男子児童が「おじさん、稲荷さんの鳥居は何故赤いのか?」と尋ねてきた。  私は咄嗟、言葉に窮したが「昔から赤いから赤く塗っているのだろうが、実はおじさんも知らないんだ。帰って調べて教えてあげる」と答えてしまったのである。 ...続きを見る

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2009/06/05 05:42
広島県世羅町の歴史散歩(東上原八幡神社)・8
 旧甲山町の東上原地区に入ると、右手の丘に上原八幡宮の社叢鳥居が見えてくる。  この神社の「緞子地の帳」と「古式の太鼓」には永禄十年(1567)と文明十八年(1486)の銘があり、広島県の重文に指定されている。  しかし現物は「大田庄歴史館に展示されている。    東上原八幡神社の位置は、少し分かりにくいが、甲山方面から国道432号を東進し、東上原地区に入ると左手に鳥居がみえる。  見落とさないように注意して分からなければ地域の人に尋ねると良い。 ...続きを見る

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2009/06/04 13:25
広島県世羅町の歴史散歩(女子教育界の先駆者大妻コタカ)・7
 大妻コタカの生家跡〜世羅町川尻久恵  国道432号、桑原から脇道をそれて坂道を上がると、三川ダムがある。  ダムに湛えられた湖水を神農湖と称するが、近年枯渇状態が続いている。  伊尾の三川ダムは、昭和24年に着工され、昭和35年3月に完成した芦田川下流域の灌漑、工業、上水道用水供給源である。  その湖底に沈んだ川尻の農家の一つに大妻コタカの生家がある。  現在その生家跡のある神農湖を見下ろす湖畔に生家が復元されているが、傍らに「大妻先生之像」が建立されている。 ...続きを見る

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2009/06/01 13:00
広島県世羅町の歴史散歩(孝女阿姫の墓)・6
 所在地〜世羅郡世羅町甲山・極楽寺境内  今高野山の総門を出てそのまま下がると、欄干を朱で塗った「高野橋」があるのでそれを渡ると直ぐ左角に極楽寺がある。  その境内に入ると墓地入口左側に「孝婦の碑」があり、墓地の奥まった位置に「墓塔」がたっている。 ...続きを見る

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2009/06/01 09:37
広島県世羅町の歴史散歩(今高野山城跡)・5
 今回は頂上まで上がることはしなかったが、旧甲山町と旧世羅町東神崎にある古城山に築かれた上原氏の居城跡で、甲山城ともいわれている。  今高野山の境内に登山口がある。(丹生神社の右側から入る)  『芸藩通志』によると、永正年間(1504-21)上原氏が居城し、天正4年(1576)に上原豊将の嫡子元祐のとき西上原村に移った。  上原氏は鎌倉時代に幕府から備後三谿郡12郷を賜って土着した広沢氏の一族で、甲山城最後の城主であった上原右衛門大夫元祐の妻は毛利元就の二女三吉氏である。    山頂の... ...続きを見る

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2009/05/27 10:47
広島県世羅町の歴史散歩(丹生神社等)・4
 龍華寺観音堂から南へ寺宝収蔵庫の前を左折し、石段を5〜6段下ると右手に丹生神社がある。  紀州高野山から勧請された今高野山の守護神である。  祭神は高野明神と丹生(にう)明神で、社殿は入母屋造、妻入、桧皮葺である。  宝物の木彫獅子頭一面に正安三年(1301)の銘があり、国の重要美術品に指定されている。  丹生神社の前を通りすぎてなだらかな坂道をのぼると、塔が建っているのが見える、そこに上がると普門閣と名の付いた「展望台」がある。  ここに立つと甲山町の町並が一望で見渡せる。  こ... ...続きを見る

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2009/05/27 10:24
広島県世羅町の歴史散歩(今高野山その2)・3
 前回に引き続き、今高野山の散策としたい。  神ノ池に架かる神ノ橋を左手に見て石段を上ると、正面に御影堂(弘法大師堂)が見える。  御影堂の左手には観音堂がある。  石段を上がった直ぐ左手に結界石3基が人目をひく、昭和28年6月、県重要文化財に指定されたもので、案内板には『今高野山の寺の区域を定めるために建てられた標柱で、一基に「大界外相西方 建武五年戌虎九月八日」、他の一基に「大界外相北方」と銘がある。  現在三基しか残っていないが、もともと寺域の東西南北に建立されていたものである。』... ...続きを見る

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2009/05/20 20:52
広島県世羅町の歴史散歩(今高野山)・2
 国道184号を尾道市方面から車で北上すること約30分で世羅町に至る。  途中右手に小世良神社を見ながらここを通過すと、旧甲山町市街地である。左手に広島銀行甲山支店前の信号機を左折すると、道なりに今高野山の駐車場にたどり着くことが出来る。  今高野山は南方にそびえる古城山の麓に位置するのである。 ...続きを見る

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2009/05/17 18:37
広島県世羅町の歴史散歩(概要)
 今回から世羅町の歴史散歩に挑戦してみようと思う。  世羅町は標高300m〜600mの世羅台地に位置する。  平成16年10月1日、当時の世羅町・甲山町・世羅西町の3町が合併をし、現在の世羅町として発足した。  面積は278.29平方キロで、人口18,860人の町である。  瀬戸内海へ流入する芦田川水系と日本海へ流入する江の川(ごうのがわ)水系の水源地帯にあたり、早くから郷村の成立がみられた。  古代には桑原、大田、津口、鞆張の四郷があり、『日本後記』の延歴24年(805)12月7日条... ...続きを見る

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2009/05/16 20:11
豊臣秀吉が馬印を「千成瓢箪」とした時期
 秀吉が瓢箪を馬印とした時期は、斉藤龍興の居城稲葉山城を攻略したときと言われている。  だが、「信長公記」には秀吉の名は現れてこない。  しかし後ほどの記録から、秀吉が稲葉山城攻略に参戦し、戦績をあげたのは間違いないところであろう。 ...続きを見る

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2009/05/02 19:52
戦国時代で負け戦のときの財産の処遇
 戦いに敗れた場合、負けた側の武将の財産は勝利した側の武将の物になり、勝ち戦に貢献した部将に分け与えられていた。 ...続きを見る

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2009/04/23 18:22
戦国時代の雨中戦での火縄銃は使用可能
 長篠の戦い(天正3年・1575)当日、もし雨が降っていたら織田信長は武田勝頼に負けていたかもしれないと、よく聞くことがある。  当時の鉄砲は火縄銃で、火縄が雨で濡れていたら火薬に点火できず、弾を発射することが出来なかった筈で、織田信長の3,000梃の鉄砲が使えなかったのである。  使えなかったら、武田騎馬軍団に蹴散らされて惨敗していた可能性もあったのである。 ...続きを見る

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2009/04/13 09:55
井原市の歴史散歩(浪形岩)・8
所在地〜岡山県井原市野上町頂見  前回訪れた千手院から東方約1kmの地点にあるが、千手院の浪形岩と同じ層にある。  この地域は浪形と称し、海抜220m〜269mに分布する新第三紀・中新世(約2,000万年前)の海成層で礫岩・粗粒砂岩・泥岩に混じって含化石砂礫層(化石床……厚さ5m〜20m)が存在し、東西約3kmに及んでいる。  当時は浅海域で砂・泥の堆積時期に貝類やサメの死骸が密集して堆積した石灰岩で浪形と呼ばれている。  現在「浪形コミュニティ広場となり市民の憩いの場となっている。 ... ...続きを見る

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2009/03/19 08:41
井原市の歴史散歩(浪形岩のある千手院)・7
所在地〜岡山県井原市野上町頂見  東江原町井原線荏原駅西方の三差路を野上町(北へ)方向へ進むこと約5kmで大谷集会所に至る。  少し進むとすぐ「千手院へ」という小さな案内板があるから見逃さないようにV字路を左折して進むと千手院に至る。  このあたりは標高約260mの位置にあたり昔海だったところでもある。  千手院は真言宗の寺であり、山岳仏教寺院頂見寺の一坊であったらしいが、この寺の庭には、第三紀中新世形成の海成層に含まれる貝殻化石(石灰石)でできた浪形岩があり県の天然記念物に指定されてい... ...続きを見る

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2009/03/16 18:40
井原市の歴史散歩(北条早雲生誕の地)・6
所在地〜岡山県井原市東江原町  平井バス停を行き過ぎ、そこから北へさらに上がって行くと高越山城跡に行くことができる。  この高越山城は、室町時代の国人伊勢氏の居城であり、伊勢新九郎長氏(後に北条氏5代の基を開いた小田原城主北条早雲の若かりし前身だったと云われている)の生誕の地である。  高越山城跡の頂上部(一の廓)に上がると案内板があるがそれによると、『高越城は、鎌倉時代末、蒙古襲来に備えて幕府が宇都宮貞綱に命じて作らせたと伝えています。  戦国時代には、京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏が那... ...続きを見る

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2009/03/14 08:11
岡山県井原市の歴史散歩(婦人病等霊験新たな神社)・5
 所在地〜岡山県井原市高屋町  高屋町の国道313号から高屋小学校方向へ行き、その北方の山裾(北側)左側に狭い側道があるのでそれを左折する。  後は小さな「消渇神社」の案内板のとおりにすすめばよい。  消渇神社の主神は一豊姫をお祭りしてある。姫は戦国時代の天文(1532-1554)、永禄年間(1558-1569)井原後月(しつき)地方で活躍した豪族藤井能登守皓玄の娘である。  姫は身体病弱で信仰心が篤く、年若くして激しい消渇に悩まされ死仁臨み、叶えられるなら霊神となって私と同じ病に悩む人... ...続きを見る

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2009/02/07 08:45
岡山県井原市の歴史散歩(那須氏守護神諏訪神社)・4
所在地〜岡山県井原市西江原町  興譲館東方の県道166号を北進すると左手田畑の中に社叢が見えるがこれが諏訪神社である。  見落とし勝ちであるが那須一族との係わり合いのある神社でもある。  案内板によると、源平屋島の合戦で扇の的を射落として勇名を馳せた那須与一宗隆の戦功は、戦後の論功賞の時、高く評価されて、全国の五庄を拝領した。  備中荏原庄はその一庄である。  しかし那須与一は来ず病没したのである。  弟である那須宗晴が建久3年(1193)に始めて着任した。  宗晴下向の途中武事神... ...続きを見る

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2009/02/05 10:24
岡山県井原市の歴史散歩(那須与一菩提寺永祥寺)・3
所在地〜岡山県井原市西江原町才児  興譲館の北東に名刹曹洞宗永祥寺がある。  源平屋島の合戦で、みごと船上の扇の的を射落とした那須与一宗隆は、その恩賞に備中国荏原荘ほか4庄を賜った。  那須氏はその中心の西江原に本拠をおいたようである。  備中那須氏の子孫は室町時代に没落したが、その菩提寺がこの永祥寺である。  境内には遠州流庭園があることでも知られている。  また那須一族の墓もある。  永祥寺の南方にある小菅山城跡があり、かつて那須氏の城砦だと伝えられている。  寺のそばを流れ... ...続きを見る

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2009/02/04 16:23
岡山県井原市の歴史散歩(那須一族の墓)・2
所在地〜岡山県井原市青野町  興譲館高校東方の県道291号を北進し、青野町に至る。  青野小学校北のV字路を左に進むが、那須一族の墓は分かりにくいので、このあたりの民家で聞いた方が分かりやすい。  那須はもと関東七党の源氏武士である。  780年の昔、源平屋島の合戦で那須与一が扇の的を射た恩賞で判官義経から全国に5ケ庄を受けた。  その一つが荏原の庄十ケ村である。  弟の朝資が地頭として治領して来たものである。  その後南北朝に活躍、天文年(1532-1554)、天正年(1573-... ...続きを見る

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2009/02/02 17:55
岡山県井原市の歴史散歩(興譲館)
所在地〜岡山県井原市西江原町寺戸 ...続きを見る

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2009/02/01 20:36
倉吉市の歴史散歩(打吹山城跡)・8
所在地〜倉吉市仲ノ町  倉吉駅から旧倉吉市街地へ向って進むと、樹木が繁る秀麗な打吹山(標高208m)の山容が見えてくる。この山に城を築いたのは伯耆守護山名時氏の長子師義(もろよし)で、延文年間(1356-61)のここという。  山頂からは北は日本海、東西は倉吉市街やその近郊が一望できる。現在、山頂部と中腹に曲輪跡や石垣が残っているが、この城を整備したのは近世初期豊臣政権下の南條氏である。  室町時代を通じて伯耆山名氏の本城となったわけでが、応仁の乱後山名氏の権勢は衰え、伯耆国内の国人衆の自... ...続きを見る

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2008/12/31 17:12
倉吉市の歴史散歩(大蓮寺)・7
所在地〜鳥取県倉吉市新町1丁目2411                         大連寺 ...続きを見る

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2008/12/29 15:58
倉吉市の歴史散歩(定光寺)・6
所在地〜鳥取県倉吉市和田不入岡  倉吉市街北西の金森町から国道313号を北へ約1.5km進むと、和田の集落があり東のはずれ山麓に定光寺(曹洞宗)が所在する。  定光寺は、室町時代の3代将軍義満の治下、伯耆守護山名氏之ゆかりの寺である。  開山は、能登総持寺派、蛾山韶碩(がざんしょうせき)の弟子通玄寂霊(つうげんじゃくれい)の法孫で天真自性の弟子の機堂長応(きどうちょうおう・俗姓南條氏)である。  室町時代の定光寺文書(県保文は、守護大名氏・戦国大名尼子氏の盛衰を物語る。  本堂横から山... ...続きを見る

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2008/12/28 06:10
倉吉市の歴史散歩(田内城跡と岩阿弥陀)・5
所在地〜倉吉市巌城  山名寺を見て、北に堤防下の道を50mほど行くと、山麓に仏足石ともよばれる巨岩の重なる小さな山がある。  ここが巌城田内城跡である。  建武4年(1337)、初めて伯耆守護に任ぜられた山名時氏が、まず最初に守護所を設置したところといわれている。  田内城跡のかつて天神川に洗われていた仏足山山麓の巨岩には、「南無阿弥陀仏」と念仏が刻まれている。  岩阿弥陀とよばれるこの念仏碑は、江戸時代に倉吉の町人たちが洪水で死んだ人々の供養のために刻んだものと伝えられている。  ... ...続きを見る

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2008/12/27 05:39
倉吉市の歴史散歩(山名寺と三明寺古墳)・4
所在地〜鳥取県倉吉市巌城字寺山  倉吉旧市街の北方、堺町バス停から北へ国道313号を越え、三明寺橋を渡ると、三明寺集落の奥に曹洞宗山名寺がある。  南海宝州を開山として、延文4年(1359)伯耆守護山名時氏が自分の菩提寺として建立した大雄山光孝寺の跡である。  時氏の長子師義(師氏)の菩提寺正受院もこの寺にあった。五山十利制で諸山の一つ光孝寺は「新呉の絶境に建てられ、そこは維場の勝藍の地「山の名を大雄といい、寺を称して光孝という」と京都五山の禅僧惟肖得岩が称嘆した。  後に時宗寺院の三明... ...続きを見る

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2008/12/26 05:54
倉吉市の歴史散歩(廃寺と遺跡)・3
所在地〜倉吉市駄経寺町  倉吉旧市街の東、下田中の上灘小学校の玄関前に2個の礎石が置かれている。これが大御堂(駄経寺)廃寺の礎石である。  その一つは長径約2.4m、中央に径86cm・深さ13cmの一重の円孔がある。もう一つの礎石は長径1.3m、中央には径80cmk柱座がつくりだしてある。  一重円孔の礎石は層塔の心礎で、円座のある礎石は四天柱座である。これらの礎石は駄経寺跡から運搬されたものである。  廃寺跡は江戸時代、少し高くなっていて大御堂とよばれ、「昔は大伽藍があり、今でも大き差... ...続きを見る

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2008/12/25 04:57
倉吉市の歴史探訪(大岳院)・2
所在地〜鳥取県倉吉市東町  南総里見八犬伝(滝沢馬琴作)のモデルとなった「里見家」の墓所である大岳院。  曹洞宗大岳院は、もと駿河(静岡県)沼津城主中村彦左衛門一栄公の菩提寺で慶久寺と称していたが、一栄公の移封とともに伯耆(鳥取県)八橋に移ってきた。  公の没後、嫡子の倉吉城主中村伊豆守栄忠公が亡父の菩提をとむらうため、一栄公を開基としてその法名「萬祥寺殿大岳周大居士」から、あらためて現在地に「萬祥山大岳院」と名付け、公の実兄で慶久寺十世孝山智順禅師を御開山に迎えて開創された。  時に慶... ...続きを見る

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2008/12/23 07:17
倉吉市の歴史探訪(町並と土蔵)
 倉吉市は、打吹城を中心に栄えた城下町といわれているが、いつどのように形成されたかは不明である。  だが16世紀なかばには人家300余を数えたといわれている。  この打吹城を築いたのは伯耆守護山名時氏の長子師義で、延文年間(1356-61)のことといわれている。  元和元年(1615)一国一城令で、この打吹城は廃城となった。  倉吉市東仲町、西町にかけて、古い町並が残り裏手の玉川沿いには江戸時代末期から明治にかけて建てられた町家の土蔵群が並んでいる。  江戸初期に酒蔵、油屋、米屋等が西... ...続きを見る

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2008/12/22 14:36

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