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zoom RSS 戦国武将の中でも哀れさを誘う武田勝頼

<<   作成日時 : 2017/07/22 15:24  

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 戦国武将・武田勝頼を語る時、両極端に分かれる。
 一つ、勝頼は武田氏を滅ぼした無能な武将である。
 一つ、勝頼は有能だったが、偉大な父・信玄の残した負債に押し潰された不運な武将である。
と言ったような批評の分かれ方が多い。

 果たしてどちらだったのであろうか?
 今となれば証明のしようもないが、無責任な話をすれば両方とも云えるのであろう。

 しかし小生、この勝頼、戦国武将の中でも一際哀れさを誘う武将だと思う。

 偉大な武将・信玄の子として生まれるのだが、父・信玄亡き後武田の軍勢を率いることになる。
 信玄が「自分が死んだ後、死んだことを秘して3年間は動くな」と言ったというのだが・・・勝頼はこれを破るかのように国境を接していた徳川領に攻め入る。
 これも自分の力を誇示するためだったと専門家は言うのだが・・・
 攻められた徳川勢は一時防戦一方となっている。

 その勝頼の運命が大きく変わるのが天正3年(1575)の「長篠の合戦」である。
 この戦いで織田信長・徳川家康の連合軍と総力戦を演じるのだ。
 この戦、結果的に負けてしまうのだが、武田方の多くの武将と兵を失うことになる。
 
 勝頼はそれでも国力回復のために奮闘するのだが・・・時の流れには逆らうこともできなかったのだ。

 武田氏の没落が決定的となるのが天正9年(1581)から翌年のことであろう。
 この年、勝頼は新たな防御拠点として新府城(現在の韮崎市内)を築くのだが、徳川方との攻防地点であった高天神城が落城してしまった。
 それ以降地滑りを起こすが如く壊滅へと向かうのだ。
 それまで優勢だった対徳川相手に劣勢に立たされるは、家臣に見放されることにはなるは・・・俗な言葉で言えば「武田家はガタガタ」になってしまうのだ。

 この機を逃すはずがないのが織田信長だ。
 直ちに軍勢を甲斐、信濃に侵攻させる。
 すると武田家の家臣たちの多くは戦うこともせず、織田信長の軍門に降ってしまう。
 孤立してしまった勝頼は、完成途中の新府城を放棄せざるを得ず、東方へ逃走する。
 
 勝頼は、武田24将の一人である小山田信茂を頼って、抵抗を試みようとするも小山田信茂にも裏切られてしまうのだ。
 二進も三進もいかなくなった勝頼が選んだ最終決戦場が天目山棲雲時(現甲州市)なのである。
 そして、この天目山の戦いで武田氏は滅亡するのだ。
 これ、戦と言うほどのことはない小規模のものだ。
 だって、武田方のこの時の勢力は僅か40人ほどだったのだから・・・・
 
 絶対に勝てる戦いではないだろう。
 伝えるところによると「存分に武田武士の意地を見せる勇猛なものだった」となるのだが・・・討ち死にしてしまう。
 もちろん勝頼も最後には自刃して果てている。

 ということで武田勝頼の最後の地は「天目山」として語り継がれているわけだ。
 
 しかし、実際にはこれとは異なる場所が終焉地なのだという。
 勝頼は「天目山・棲雲寺」にたどり着くことはできなかったのだ。
 というのは、途中、勝頼達が落ち延びていることを知った農民等に行く手を阻まれたからだという。
 その時の勝頼達は、力は殆んど残っておらず、これら農民を蹴散らすこともできなかったという。
 勝頼たちは「天目山」まで後僅かな所で追ってきた織田方の大軍と戦うことになった。
 その場所こそが、今の甲州市田野であり、本当の武田氏終焉の地なのである。

 それにしても武田勝頼、最後は殆んどの家臣たちに見捨てられ一生を終えるとは・・・戦国の世とは言え哀れさを感じるのだ。

 
画像

                  武田勝頼像
 

 
 
 
 

 

 

 

 
 
 

 

 

 

 

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