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zoom RSS 豊臣秀吉の死の直前は秀頼の心配だけだった

<<   作成日時 : 2017/01/20 11:12   >>

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 小生が子供の頃の戦国時代の英雄と言えば羽柴秀吉であった。
 なぜ豊臣秀吉ではないのか?と問われれば、「天下人になるまでの秀吉が好きだから」と答えることにしている。
 天下を取るまでの秀吉は信頼する主君信長を一途に頼り、誠心誠意忠誠をつくし、自分の持てる能力を発揮しているところに興味があったからだ。
 豊臣性を名乗った秀吉はどうしても好きになれないのだ。
 特に晩年の秀吉は「狂っていた」と言っても過言ではないような気がする。
 これ、あくまでも小生の気持ちなので秀吉ファンの皆さんには許していただきたい。
 
 前置きが長くなったが・・・さて晩年の秀吉のことだが、この頃の秀吉は幼子の「秀頼」のことで頭がいっぱいだったようだ。
 マァ、このことが秀吉を狂わせていたかもしれない。

 慶長3年(1598)8月10日頃から秀吉は意識が朦朧となり、その後混濁状態が続いたという。
 そして18日に伏見城で死亡している。このとき年齢62歳だったという。
 その頃から遡ること2月頃から秀吉は体調が怪しくなり、体の変調が度々襲うようになる。
 失禁や神経痛で腰が立たなくなったというから相当の衰弱振りだ。
 甥の秀次を切腹させた頃から秀吉の判断力は弱くなっていたのではと言われている。

 秀吉は晩年伏見城で生活(養生)していたが、体調を崩した時は、当時の名医と呼ばれた医師達が常駐して看病している。
 そして、来日していた宣教師のロドリゲスは「秀吉は衰弱しきっていて、もはや人間とは思えなかった」と書き記していることから、俗にいう「骨川筋衛門」状態だったのであろう。

 8月9日に、朝鮮徴兵についての遺言を徳川家康と前田利家にした後、秀吉は錯乱状態に陥ったという。
 家康を含む五大老と言われる面々は「今後秀吉が何を言っても一切無視しよう。そして、以前の取り決め通り行うことにしよう」と決定したというのだ。
 秀吉の面前では「ハイ、ハイ」と聞いておいて、回復してから確かめることも決めたというから相当酷い状態だったのであろう。
 この頃の秀吉の頭の中は、嫡子「秀頼」のことしかなく、将来の「秀頼」がどうなるか・・・という一点のみが心配で心配でたまらなかったようだ。
 はっきり言えば「秀頼」のことしか頭になかったのでは・・・と思うほどだ。
 その表れが「秀頼」が何者かに襲われて殺されるのでは・・・という思いで、大阪城の城壁の補強工事に着手している。
 そのことを口にしたその日から工事を着手させ、直ちに1万7千戸の商家や民家を立ち退かせているのだ。

 このときの状況を宣教師パシオがイエズス会総長に送った書簡(報告書)では「秀吉は狂乱状態となってバカげたことをあれこれ言っている。しかし、秀頼のことだけは意識がはっきりしている」とある。

 秀吉は、数万人もの人を投入して突貫工事で押し進めたが、結局新しい大阪城を見ることもなくこの世を去っているのだ。
 秀吉の死亡原因については諸説あって、どれが当てはまるのか判然としないが、ヒョッとして噂になったすべてが要因では・・・と思われる。
 「肺結核」、「気管支炎」、「赤痢」、「老衰」等々である。
 マァ衰弱が激しかったことだけは事実であろう7.
 『太閤様が危ないらしい』という噂は世間に広まっており、騒然としていたというから相当あたふたとしていたことは間違いないだろう。
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