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zoom RSS 織田信長の戦への取り組み方

<<   作成日時 : 2016/04/21 10:19   >>

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 織田信長といえば一生のうち100回近い戦をやっていることは述べたのだが、この信長、戦のことについては普段からいろいろ考えていたという。
 武将の子供だけあって当時の遊びは、ほとんどが「戦」と関係のある遊びだったという。
 棒ふりから始まって水遊び、木登り、駆けっこから石投げ等々・・・・「戦」と絡ませたといわれている。
 槍の長短の争いもそうだ。
 そのような時、種子島に鉄砲が伝来した。
 その噂を聞いた信長は、将来の戦はこの鉄砲での争いが主体になると考え、さっそく取り寄せるとともに自ら「橋本一巴」に師事して鉄砲の技術を会得しようとしている。
 
※ この橋本一巴のことだが、信長公記』によると、信長が16,7歳のころ、弓を市川大介、鉄砲を橋本一巴、兵法を平田三位に付いて稽古したとある。
 この情報は、尾張の味鏡村の天永寺に住む天台宗の僧・天沢が甲斐を訪れた際、彼を通じて武田信玄にも伝えられているのだという。
 同時代の史料ではないのだが、寛永10年(1633)に記された『国友鉄炮記』によれば、一巴は天文18年(1549)に鉄砲撃ちとして世上に名高いことが信長の耳に達して召抱えられ、同年7月18日に、信長の命で国友村の鉄砲鍛冶・国友善兵衛らに六匁玉鉄砲500挺を注文したという。

 この鉄砲500挺というものは、当時としては桁外れの挺数だったといわれてもいる。
 種子島銃が伝来した当初は1挺が現在の価格からすると5000万円とも1億円ともいわれていたというが、その後普及とともに信長の時代は6、70万円位ではなかったかと言う。
 だから500挺ともなれば・・・相当な金額だったことは想像できる。 

 しかし、信長は種子島銃の弱点もよく知っていた。
 鉄砲は威力は強大なものがあるのだが、雨に弱いという欠点もあり、弾込めに時間がかかることも勿論知っていた。。
 だから信長はその欠点を補うためにはどのような方法があるのか・・・と、日ごろから考え思案していた節がある。
 そこで編み出したのが「三段構え」というやり方だ。
 これは武田勝頼との「長篠・設楽ケ原の戦い」で存分に発揮されているから歴史ファンなら周知のとおりだろう。
 マァ、この戦法、信長が直接編み出した戦法だと一概に言えないところもあるのだが・・・ここでは信ずることにしたい。
 この戦い、武田の騎馬武者に立ち向かうための戦法で、約半里(2Km)に渡って馬防柵を設け、その内側に鉄砲隊を横三列に並べたという。
 その数約3000挺だったというからすさまじい数だろう。
 3000挺を3組に分けたわけだ。
 武田の騎馬軍団が押し寄せてきたとき前列から前に出て撃ち浴びせ、終わったら中段、後段と順番に打ち続けたのだ。
 それまで弾込めに数十秒かかっていたのが3分の1にまで短縮したことになるから、攻める武田方にすれば限りなく撃ち込んでくる攻撃に戸惑ったことであろうし、結局全滅してしまった。
 信長の、日ごろから「戦」というものへの取り組み方法の模索が実を結んだ結果といえよう。
 
 
画像


                     長篠合戦図屏風 

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長篠の合戦の織田軍の鉄砲衆(隊)の三段撃ちは、軍記作家・小瀬甫庵の『甫庵信長記』の机上の空論に過ぎないものと思われます。『信長公記』の池田家文庫本の「鉄砲千挺計」の「千」の右肩に小さく「三」の文字を書き加えられてあるのは、『甫庵信長記』を読んだ人物の改竄ですし、近年発見された『信長公記』写本である尊経閣本の 「三千挺余」もそれに基づく記述内容と思われます。鉄砲衆の部隊の指揮官(部隊長)たちは、鉄砲足軽たちにどのように移動時の号令(命令)を伝えたのか? 大声を出したり、銅鑼や太鼓などの「鳴り物」を使用したとしても戦場の騒音にかき消された可能性もあると思われます。鉄砲の故障や暴発事故の問題もあります。移動の方法も徒歩なのか、全力疾走か、それに関しても不明です。対する武田軍も「騎馬軍団」が存在したか疑わしいもので、騎馬兵と歩兵(足軽)の混成部隊による攻撃が行われたものと思われます。騎馬集団のみの一列横隊に並んでの一斉攻撃や、インディアンやアメリカ騎兵隊のような騎馬兵による波状攻撃を日本で行われた事を証明する良質史料は存在するのでしょうか……? 又、『甲陽軍鑑』に登場する「馬足軽」に相当するものは、ほかの大名家に存在するのでしょうか……?
なんてこったい(!!)
2016/04/22 23:14
「なんてこったい(!!)」さん、いつも適切なコメントありがとうございます。確かに後年の人たちの創作かもしれませんが、一応UPしたことを信じての記述です。何しろ話がうますぎますからねぇ・・・それにしても貴君もよく調べておられますネェ、敬意を表します。今後ともよろしく願います。
万屋満載
2016/04/23 06:36
追記。
でもネェ・・・この種の話は面白い方がよろしいようで(笑)・・・
万屋満載
2016/04/23 06:39
管理人様、子供の頃に映画やTVの時代劇で長篠の合戦の映像の迫力に魅了された戦国史の研究者の方々が通説の否定的立場になれないのは、仕方の無いのかもしれませんね。
なんてこったい(!!)
2016/04/24 22:51
そうなんです。
今となれ何が事実でどれが創作かの判断はできないと思います。あの信長公記でさえ、かなり都合のよい記載だと思います。
だから私は面白い話を信じたり否定したりして読んでいます。
万屋満載
2016/04/25 06:16

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